翔べ君よ大空の彼方へ 2-⓫ 初めての涙
馬影の少ないCWコースに彼は堂々と現れた。
向こう正面から調教を始めると、とにかく手綱を引っ張りまくる。いかにも若駒らしく、走る事に喜びを感じている様子だ。
直線、鞍上の合図に応え、湿ったCWを跳ね散らかして驀進する。
単走でリズム重視の追い切り。
充分に負荷がかかったように見える。ぱらつく雨の中馬体を濡らし、白い息を弾ませながら、鹿毛の馬が戻ってきた。
毛艶も良く、あばらがうっすらとうき出ており、体調の良さが手に取るように分かる。
下馬した鞍上には笑みが浮かんでいた。
「走りのバランスが良くなりましたね。胴が伸びて、フットワークが大きくなりました。2ヶ月の休養で精神面も成長したようです。最初はちょっとムキになりましたが、指示には素直に従いました」鞍上が報告をする。
「ああ。心身共にだいぶ成長したな。最終追い切りはCW の3頭併せで闘争心を目覚めさせるか!」
病み上がりの調教師が、持参している保温ボトルの1つを翔馬に渡した。
「先生、コーヒーの飲み過ぎはダメですからね!」
年の瀬に見る夢・・・人々は1年を、競走馬から受けた感動を改めて再確認する。
そして、夢を、希望を、このレースを駆けるヒーロー、ヒロイン達に重ね合わせ、夢物語に想いを馳せる。
有馬記念・・・馬券売り上げ世界一を誇るグランプリレース。
デビュー7年目、翔馬は先日このドリームレースに初参戦した。
人気投票と獲得賞金によって選ばれし勇者達。彼は人気投票堂々第5位、当日3番人気のブレストファイヤーで戦いに挑んだ。
抜群のスタートで飛び出し、翔馬の意表をついた逃げの一手に、場内はどよめいた。
淡々とペースを刻み、最終コーナーまでの3馬身のリードを生かし逃げ込みを計るが、残り100メートルで人気投票2位、当日1番人気の3歳馬コルトガヴァメントが強襲・・・激しい叩き合いの末、またもハナ差で初G1戴冠を逃してしまった。
翔馬は騎手になって初めて人前で涙を流した。悔し涙であった。
レース終了後、翔馬は師の同級生が経営しているという居酒屋に誘われた。
馬好きが集まるのか?はたまた競馬場からそう離れていない場所にあるせいか?たくさんの競走馬のポスターやパネル、そして人気騎手のサインが所狭しと壁に貼られている。
皆、競馬からの帰りなのだろう・・・カウンター席、テーブル席、いずれもほぼ満席、口々にグランプリの話題で盛り上がっていた。
師は翔馬を気遣ったのか、2階の個室を予約していた。
翔馬はキャップを深々と被り、うつむきながら階段を上った。
「お疲れさん」
「先生もお疲れ様です」
ウーロン茶とウーロン杯で控えめの乾杯をした。
涙を流してから数時間が経過していた。
しかし、悔しさが晴れる事はなかった。過ぎた時間を取り戻す事はできない。本番は1回、チャンスは一瞬なのだ。
騎手はオンとオフの切り替えの早さが必須である。いつまでも引きずってはいられない。勝負機会は次々とやってくるのだから。しかし・・・・・・。
師は心の晴れない翔馬に優しい微笑みを向けていた。
7年間、見守ってきた。
積み上げた勝ち星640勝。重賞も勝った。
新馬、未勝利戦マイスターと呼ばれる翔馬には、若駒の有力馬の騎乗依頼が特に多く集まる。
多くのオーナーからの信頼は、厚い。
決してプレッシャーに弱い訳ではない。何よりも、馬に対する危険察知能力は、JRA騎手随一である。
いつも笑顔を絶やさず、ファンからも愛される翔馬。
その翔馬が初めて泣いた。
真に覚醒のきっかけとなるであろうか・・・師は口を開いた。
「翔馬、負けてようやく涙を流したな。涙を流す強さがあれば、お前はどこまでも成長できる。騎乗には負けも失敗もつきものだ。後からしか答え合わせはできないんだ。次に生かせばいい。馬に乗って走れば、どこまでも新しい景色を見ることができるぞ」
そういえば、未来が言っていたな・・・
「俺の師匠はいつもこう言うんだ。
プレッシャーを楽しむ事ができれば騎手の仲間入り。プレッシャーを楽しんで勝つ事ができれば、一流の騎手、そして、プレッシャーに慣れて、勝ち星を積み上げる騎手は、それが超一流の騎手だって。
関係者に、オーナーに感謝しなさい。
そして何よりも応援してくださるファンの方々を大切にしなさいって」
馬を愛して止まない勝負師。
俺に足りないのは真の闘争心というところか・・・せっかく師匠がフランスにまで送り出してくれたのにな。そうか・・・。
翔馬は少しだけ、自分の殻を敗れたような気がした。
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