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街歩き - 古えから続く心の風景

6月になると紫陽花が楽しめる季節となる。

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コロナ禍前には、この季節になると鎌倉の紫陽花寺として有名な明月院や長谷寺を訪れていたが、人出の多さ、訪れるまでの時間、そしてもっと決定的だったのが、昨年来のコロナ禍が、必然的に私の足を彼の地から遠のかせてしまった。

そんな中で、かって近く住んでいたこともあって多摩川台公園の紫陽花を思い出し、久しぶりに訪れてみた。

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多摩川台公園は、東急線多摩川駅から歩いてすぐのところに位置し、多摩川に沿って広がる台地に、約600m程にわたっており、面積は、約67,000m2とのことである。

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開花して間もない色とりどりの紫陽花を見ながら、眼下には、多摩川が流れ、その多摩川越しに、目を凝らすと快晴だったことも幸いして明媚な富士山や大山の姿も一望できた。

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大山といえば、この1月下旬、左足の股関節を人工関節に置換する手術のために52日間、入院していた神奈川県厚木市七沢の病院の病室から毎日見ていた山であった。

同じ山ではあるものの、この多摩川台公園の山頂からの大山と日々、病室の窓からの眺めていたそれとは、全く違うものに見える。

多分、心持の違いかもしれない。

入院時、3年前にハワイ島のコナで交通事故により、亡くなってしまった私の妻が、事故の年の2018年に学生時代の友人達と大山に登頂したのだが、その登頂時に撮影した写真を入院・手術時のお守りに病室のデスクに飾っていたのである。

病室の窓から見える大山の頂上の姿を見るにつけ、写真の妻が、私の手術とリハビリが、スムースに運び、無事退院できるようにと、私にエールを送ってくれているかのように日々、思えたのである。

その一方で、退院してから今回、多摩川台公園から見た大山は、2カ月前の入院時の私の複雑な心模様を思い起こさせるものであった。

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同じ対象物を見ても、たった2か月前の自分と現在の自分とでは、その感じ方に、かなり違いがあるということを改めて実感した。

やはり、置かれている状態やその時の心理により、大きく異なるのであろう。

また、この多摩川台公園には、2つの大型前方後円墳と、8つの多摩川台古墳群が並んでいて、公園を散策するとそれを間近に見ることも出来る。

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前方後円墳とは、特定の人物を超人的な存在として捉えるヒトガミ信仰の象徴的なものといわれている。

カミが棲む場所として人工の山を造り、そのカミとなった首長の霊魂を定着させようとする壮大な試みが前方後円墳だったといわれている。

勿論、古墳にまつられるカミを目にすることはできないが、それが実在した人物であったがゆえに生々しい人の姿として想起されるのであろう。

現世を生きる我々だって、死者の肉体そのものは、滅びても亡くならない何か、魂?或いは霊?として存在し、それが、我々の周りにいると認識しているのではないだろうか?

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この6月1日が命日で、没してから3年になる妻に対しても、消滅していない何かが、存在すると全く信仰を持たない私でも感じるのである。

もしかしたら、消滅していない、その何かに会うために毎月、墓参したり、朝晩、仏壇のご位牌に手を合わせているのかもしない。

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そう考えると、人間としての現代人の基本的な意識は、縄文時代の人たちのそれとさして変わっていないのではないだろうか。

何故ならば、人生は、可視の世界、生の世界だけでは決して完結しないように思えてならないのである。

例え、それが幻想であったとしても、不可視の世界を取り込んだ、生と死の両方の世界を貫く何かを我々人間は、必要としているのかもしれない。

多摩川台公園の散策は、そんなことを考えさせられた時間であった。

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