私の人生の物語
「人は、それぞれの物語を生きている」
或いは「人生は物語である」といった本の一文や誰かの名言として、耳にしたことも多いこの言葉。
最近、私も、「自分の人生の物語」について考えてみたが、「言葉としては、何となく分かるけれど、それってつまりどういうこと?」と自分の生き方に取り入れてすんなり消化できなかったというのが本当のところである。
この6月1日は、今からちょうど4年前、ハワイ島コナでの自動車事故で亡くなった私の妻の命日であった。
思えば、この4年間で、私の在り様は大きく変わり、本当に考えさせられることばかりでの時間でもあった。
例えば、
・平々凡々たる何気ない日常がとても大事だったということ。
毎日、帰宅した時に「お帰りなさい」と言ってくれた人がいたのに、それが無くなることによって、相当に安定感を失い、アイデンティティを揺さぶられるものだと気付かされた。
人間のアイデンティティは、ごくごく些細なことによって支えられているのである。
そして、安心、安定感を与えてくれる人の存在の大きさを思い知らされた。
・亡くなった人のことを素直に認められるようになったこと。
人間、相手が元気だった頃は、認めてあげられなかった良き点が、相手が亡くなってしまったような状況になると、とても素直に、正直に、謙虚に相手の良さを語れたり、認めたりすることができるようになれた。
何故、生前は、これが出来ないのだろうか?
非常に不可思議である。
・平凡な日々のありがたさに気付かされた。
このありふれた平凡な時間、この生活がいつまでも続くとどこかで思っていたが、本当は、とてもこわれやすく移ろいやすいものであるということ。
何も無い平和な日常が、こんなにも大切で壊れやすいなんて、想像も出来なかった。
もし、以前のように妻が元気な状態であったなら、私自身、未だ、このような気づかなかったであろう。
そういう意味でも、妻の死は生き残った私のために、何かを示唆し、私を見守ってくれているんだなぁと。
一日一日と積み重ねて生きている我々。
今、どんな感情を胸に、毎日を生きているのか?
「とても充実している!」と晴れやかに言える人もいる一方で、
「自分はこのままでいいのだろうか?」と漠然とした不安を抱きながら、日々の時間を過ごしている人も少なくないかもしれない。
また、「同じような毎日の繰り返し・・・」と少し絶望にも似た気持ちで過ごしている人もいるかもしれない。
いずれの場合であったとてしても、人生を自分の物語として捉えるとすると、どんなに大きな悲しみや挫折も、人生という物語の中にある1ページで起こった出来事であり、次のページは、そこに続く新たな物語をまた紡ぐことができるのかもしれない。
そして、物語の1ページで人生の全てが、決まってしまうわけでもないのだろう。
大変な悲しい思いをしている時、それを不幸と捉えるか、私に与えられた試練と捉えるか。
この物語を生きている私を、自分自身であると置き換えてみると、比較的、状況を俯瞰できたり、客観視できたりし、悲しみや困難も超えていけるように思えたりする。
例えば、試練の無い人生は無難な人生、試練のある人生はありがたい人生と解釈したりする等。
どんな考え方で日々を過ごしても、紛れもなく次のページへと物語は続いていくのだということに気づく。
そして、人それぞれ自分の物語を生きており、「生きるとは自分の物語を作ること」なのかもしれないと思ったりしている。
そう思えると、自動車事故で急逝した妻と過ごした時間は、大切な思い出であり、それは、この先の自分の心の支えになるし、お守りになるし、居場所になるんだなぁという思いに至ったりするのだが。
この解釈が、私の人生の物語として、正しいのかどうかわからないが、スイスの心理学者、カールユングの「ある者にぴったりの靴は、他の者にとってはきつい。人生において、全ての人間に適したレシピなどない」 という言に救いを求めてしまうのである。