名曲よもやま話(2)リストが見たショパン
リストは、ショパンが亡くなってから、いちはやく彼の伝記をしたためて出版した。2年後の1851年のことだ。
ショパン伝はこんな風に始まる。あたかもリスト自身の豪華絢爛なピアノのように。
ショパン!霊妙にして調和に満ちた天才!優れた人々を追憶するだけで我々の心は深く感動する。彼を知っていたことは、何という幸福であろう!
ショパンはピアノ音楽の世界に閉じこもって一歩も出なかった。
一見不毛のピアノ音楽の原野に、かくも豊穣な花を咲かせたショパンは、何と熱烈な創造的天才であろう!
彼の音楽が持つこの陰鬱な側面は、彼の優美に彩られた詩的半面ほどよく理解されず、人の注意も惹かなかった。彼は彼を苦しめる隠れた心の顫動を人に窺い知られることを、許そうとはしなかったのである。
リストの筆致は陶酔的にエスカレートしていく。自分こそが真の理解者であると誇示するかのように。
ショパンは次のように語った。「私は演奏会には向いていない。大衆が恐ろしいのです。好奇心以外に何物もあらわしていない彼らの顔を見ると神経が麻痺してきます」
彼は公衆の賞讃を自ら拒否することによって、心の傷手に触れられないですむと考えていた。彼を理解する人はほとんどいなかったのである。
ショパンは、楽壇の第一線に立っていながら、当時の音楽家の中で、一番演奏会を開かなかった人であった。
リストは、稀代のヴィルトゥオーゾとしてヨーロッパじゅうをリサイタル・ツアーしてまわり、名声をほしいままにしたのち、ぱたりとピアニストを引退してワイマール宮廷の指揮者におさまってしまった。そして、やがて宮廷を去ると、ローマの修道院で僧籍に入ることになる。ショービジネスの空虚さに嫌気がさして厭世的になっていったらしい。そして、無償でマスタークラスを開き、世界中のピアニストを育てた。
リストがこのショパン伝を書いたのはワイマール時代。彼がワイマールに隠遁して1年後にショパンが亡くなった。
あれほどの才能をもちながら、大衆を避け、小さなコミュニティの中だけで繊細な音楽を追求し続けたショパン。リストは、コンサート・ピアニストを退いた今だからこそ、ショパンの生き方に共鳴するところがあったのではないか…。
リストほど作風がドラスティックに変化した人も珍しい。この2つを聴いて、果たして同一人物の作品と思えるだろうか。演奏会向けのショー・ピース「半音階大ギャロップ」と、晩年の「灰色の空」。
ワイマールの宮廷オーケストラを手にしたリストは、何かに憑かれたように管弦楽曲を量産し、標題音楽的な交響詩という新分野を開拓する。リストのショパン伝は、そんなワイマール時代の作品。華々しい表舞台からは距離を置き、ようやく自分の世界を作曲の分野で追求し始めた、リスト第二の人生の入口。
おそらく、リストは、かつてショパンの生き方を、才能に見合わない、勿体無いと思っていた。ショパンがあまりにも特別なものを持っているのが分かるからこそ、それを嘆かわしくさえ思っていた。でも、今なら分かる。最初から大衆的なものには目もくれず、ピアノという小さなフィールドで、それまで誰もなしとげなかった、こよなく繊細で新しい足跡を残し、39年の人生を駆け抜けた。俺はお前がうらやましい。
ショパンが人生に終止符を打つのと入れ替わるように、リストも我が道を歩み始めた。このショパン伝は、早逝したライバルへの羨望に満ち満ちている。単なる敬意ではなくところどころにチクリと毒が入るのも、悔しさの入り混じった羨望の証。もしかすると、ヒット曲を追いかける「半音階大ギャロップ」のリストは仮面をかぶっていたかもしれないが、このショパン伝には等身大のリストが見える。
ショパン伝のなかで、リストは、とりわけポロネーズとマズルカに最大級の賛辞を送っている。特にマズルカの筆致は熱い。
マズルカを踊っている時とか、また騎士が踊り終わっても婦人のそばを離れずにいる休憩時間とかに人々の心に生ずる、数々の変化にみちた情緒の織物に、ショパンは陰影や光にとんだ和音を織り込んだのである。
マズルカのすべての節奏は、ポーランドの貴婦人の耳には失った恋情の木霊のように、また愛の告白の優しい囁きのように響くのである。
群に交じって差し向かいに長い間踊っている間に、どんな思いがけぬ愛の絆が二人の間に結ばれたことだろうか。
やや装飾過多で気障な文体は、リストのピアニスト時代の作品の譜面のようだが、彼はいたって真剣だ。そして、貴重な証言が飛び出す。
ある貴婦人がショパンに尋ねた。あなたの音楽を聴くと、なぜ私の魂は悲しい畏敬の念に包まれるのでしょうか。
「この感情は、私の心の地ともいうべき感情で、ポーランド語の《ジャル》という言葉にほかありません」
このジャルという言葉は、運命を受け入れた、諦めを含んだ悔恨とか望郷をあらわすもので、他国語にはない言葉のようだ。これを書き留めたリスト本人も、おそらく、ショパンの音楽に息づく《ジャル》に強烈に心惹かれていた。
ショパン伝を執筆している時期に、リストは、亡きショパンが自家薬籠中のものとしている分野、ポロネーズとマズルカの作曲にあえて挑んでいる。ショパンの魂に近づきたかったのだろうか。とりわけ、華麗なるマズルカ S.221(1850年)では、すごく魅力的な形で、この2人の天才の魂が接近している。紛れもないリストの響きだが、マズルカのリズムにショパンのジャルが息づいている気がする。
往年の名匠パハマンの絶妙なピアノで。
フランツ・リスト著・亀山健吉訳『ショパン その生涯と芸術』昭和24年宇野書店(絶版)
再版または新訳出版を強く望みます。