大皇器地祖神社
君ヶ畑 大皇器地祖神社(おおきみきぢそじんじゃ)。
木地師の始祖と云われている、惟喬親王を祭神とする木地師の総本社。
木地師とは、ろくろを用いて木椀などを造る生業のひとびと。
9世紀に、皇位継承政争から降りた惟喬親王が幽棲された地、鈴鹿山系 御池山の滋賀県側、近江国愛知郡小椋庄小松畑にこの社はある。
この集落に辿り着くには、八風街道(R421)を峠に近いところまで登り(下り)、そこから脇道をひたすらゆく。
脇道は、入り口にある政所集落と、ここ君ヶ畑にゆくための道であり、旧八風街道が車輌通行止めとなった現在は、その先にある廃村茨川につづく唯一の公道である(旧道・林道はある)。
麓の町から政所まで車で20分。
政所から君ヶ畑まで30分弱。
車用に整備された道路を車で行って、それだ。
以前は、御池川筋に道をとる道しかなかった。
明治になるまで、山に棲むひとびとは、町に住む町民からは一種の畏怖のような目で見られていた。
神に近い処に住まうひと との敬いと、近寄り難い蔑みとが混同した感覚なのだろうか。
(サンカ(山窩)に対する反応がわかりやすいか))
サンカの民や、たたら集団、杣びと(大雑把にくくると木を切って、川まで降ろす民)達は、それらの反応を受けて、被差別の民として、ある種賢く振舞った。
だが、木地師達はそうしなかった。
祖が皇太子というのももちろんあるのだろうが、木地の業が大変に難しく、それ由来のプライドがあったのだろうと推察する。
滅多なことでは、麓のひとびととの婚姻を結ばず、町の嫁が来ても、ほとんど生業に役立たなかったと書いてあった(木地のろくろ作業は二人一組。大抵夫婦で営んでいた)。
今日現在、木地師と名乗り、技が継承されている土地は、岡山、北陸、福島に僅かに職人が残る。
ここ聖地で木地師をされている職人は、ひとりとなってしまった。
この山の奥深くにある社殿の創建は、880年とあり、神殿と拝殿がその時代の様式そのままに残っている。
(拝殿の現存最古と云われているものが鎌倉時代となっているが、ここの拝殿が創建当初のものであれば、書き換わるよなー)
拝殿は、舞殿。
皇位継承者であった惟喬親王を慕い、雅楽などを奉納したのであろうか。
惟喬親王がこの地にこられるまで、君ヶ畑は小松畑と云った。
「君ヶ畑」も「政所」も、なんと雅な名前であろうか。
木地師達の、惟喬親王への崇敬と親慕の想いが、地名にも、創建千二百年経った今もなお綺麗にされている社殿からもうかがえる。