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【現代語訳】樋口一葉「やみ夜」(その一)

 堀で周りを取り囲んだ邸の広さは何坪だとかいう評判で、閉じたままの大門おおもんはいつかの暴風雨あらしに吹かれたまま、今にも壊れそうな様子で危なっかしく、松ではなくて、瓦に生える草の名はしのぶぐさ、しのぶ昔はいったい誰のこと、男鹿が鳴くという宮城野の秋をそっくり移したような小萩原が錦のように映える頃も、月見の宴に貴人の誰それ様が袂をつらねたのは夢であったか、秋風つめたい飛鳥川の淵瀬のように世の中は変わってしまって、よからぬ風説うわさは人の口に残っても、その後はどうかと訪ねる人もなく、哀れに淋しい三人の暮らしは、都会にいながら山に住んでいるようだ。
 詐欺師の末路があれだと指さされて世間は一斉に非難したけれど、私欲のための行いでなかった証拠に、家に余った財産をたくさん積んでいたわけではなかったし、非難を相殺するくらいの施しはしていたけれど、それも多くは人目につかないようにしていたから、恩を受けたと言って出る人すらなくて、悪い評判は長くとどまり、奥庭の古池に枝葉が伸びるように、あとは言うまいああ恐ろしいと、雨夜のうわさ話に尾ひれがついて、松川さまのお邸といえば何となく怖いところのように人々は思っていた。
 そもそも広い家に人けが少ないので、いよいよ空虚がらんとして荒れ寺などのよう、掃除もそうは行き届かないことがしばしばで、特に用のないときは雨戸をそのままにしておく日さえ多く、『源氏物語』に出てくる河原院かわらのいんを俗っぽくしたらこんな風ではないかというほど。夕顔の君ではないけれど、お蘭さまといって大切に育てられている娘が鬼にも取られずに、淋しいとも思わないのか、習慣も変わっていて、朝夕になにもなさないのが不思議である。
 昼さえこんな調子なのに夜はまして、ともしびひとつの暗い一室で壁に映る自分の影を友として、ただ一人しょんぼりと鐘の音を数えている様子には、鬼神を圧し潰すような荒男であっても、彼女のこれまでとこれからのことを思って、襟が冷たくなるほど涙を流すに違いない。時は陰暦の五月二十八日、月の出ない夜は日暮れすぐでも闇の色が深く、こんもりと茂って森のような屋敷裏の樫の大樹に風の音が凄まじく鳴って、その裏手にある底なし池に寄る波の音さえ手に取るように聞こえるのを、聞くでもなく聞かないでもなく、紫檀の机に肘をついて、深く思いに沈んだ眼はなかば眠っているようで、美しい柳眉まゆをときどきさざ波が打つみたいに顰めるのはどんな愁いのためであろう。黄金を溶かすようなこのごろの暑さに、豊かな髪をうっとうしいなと洗ったのは今朝、生まれながらの緑が滴りそうな髪が肩にかかって、こぼれた幾すじが雪よりも白い頬にかかっているさまは、色好みな人に見せるのは惜しい、なんだか観音さまの面影に似て、それよりは淋しく、それよりは美しい。
 突然玄関の方で何か起こったようで、人の声がにわかに聞こえてただごとではないので、眠ったようにしていたこの美人はふと耳を傾けた。火事か、喧嘩か、まさか老夫婦がと微笑みは漏らしたけれど、いぶかしい思いに気持ちを引き締めてさらに聞き取ろうと耳をすますと、あわただしい足音が廊下に高く起こって、お蘭さま読書中でございますか、すみませんがお薬を少しと障子の外から言うのは老婆ばばの声である。
 どうした佐助が病気でもしたか、様子によっては薬の種類もあるから、慌てずに話して聞かせてと言うと、敷居際に両手をついた老婆は丁寧に、いや老爺じじではございません。
 今夜もいつものように佐助が、お庭の見回りをすまして御門の戸締まりを確かめに行きました。潜り戸の具合が悪くていつも不便なところがあったので、それを直そうと開けたり閉めたりしていたときに、闇を照らして向こうの大通りから飛んできた車の提燈に沢瀉おもだかの紋があったので、せっかちにも波崎さまがいらっしゃったと思って、閉じねばならない小門くぐりをそのままにして待っていました。けれどもそれは波崎さまではなかったようです。
 その車が門前を過ぎるとき、老爺も気がつかないうちに人がいて、駆け過ぎる車の車輪にどうして触れてしまったのか、あっと叫ぶ声に驚いた老爺が、自分の額を潜り戸にぶつけた痛さも忘れて転び出て来たのに、見苦しくも人をはねたと知りながら宙を飛ぶように車は行ってしまいました。
 残った男の怪我は大したことはなかったのですが、若いのに似合わない意気地なしで、へたへたと弱って起き上がる勢いもなく、半分は死んでいるような哀れな様子、これを見捨てることのできない老爺が、お叱りを受けるかは知らないがお玄関まで担ぎ込んだところ、まだ正気があるのかないのか覚束なく、ともかくひと目見てやってください、本当に憐れなこと、と語った。(つづく)


 創作のヒントを得るために、一葉の作品を現代語訳してみることにしました。1週間ごとに更新できればと思っています。

 翻訳の方針について、少し述べておきたいと思います。
 松浦理恵子が句点や読点の位置を一切変えることなく「たけくらべ」を現代語訳している一方、川上未映子は句読点や段落、カギ括弧、種々の言葉を補いながら「一葉の呼吸」と同期するように同作を訳出しました。
 「やみ夜」における僕の方針は、〈一葉の文章のスタイル、リズムになるべく忠実であること。そのために、原文の句読法をなるべく尊重しつつ、文章のリズムを崩さない、必要最低限の範囲で句読点や語句を付け足す〉というもので、どちらかといえば松浦に近いものです。
 初出のテクストでは句点が使用されておらず、文は読点で区切られており、段落の最後には読点すら打たれずにそのまま改行がなされています。現代語訳するにあたっては、現代の句読法に一葉のテクストを合わせなくてはなりません。そのため、小学館版『全集 樋口一葉』を参考に、適宜読点を句点に直したり、読みやすいように句読点をつけ足したりしますが、その操作は必要最低限のものにとどめます。
 また、小学館版の全集でとられているような、カギ括弧や段落分けの導入は採用しません。地の文と登場人物の声とが溶けあいつつ、しかし独特な仕方で緊張を保っているのが一葉の文体的特色だと考えるためです。

使用テクスト:『樋口一葉集』(新日本古典文学大系 明治編24)岩波書店、2001年10月

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