アリススプリングス①
砂漠の夜は寒い。まだ日が明ける前の早朝、街道を進む車は少ない。点在する街灯と星空が照らす砂色の景色が過ぎ去っていく。
一台のハイラックスが横を通り過ぎた。鼻先が切り裂いていた冷気とは比にならない大きな気団が、薄手のコーデュロイを通過して肌を冷やした。一瞬車道側に引き寄せられた体を立て直すため、重たいペダルを踏み込んだ。
「私は今、何のために頑張っているんだろう」
当時は生きるために精一杯だった。恋人と友人と三人で日本人移住者の家に居候して暮らしていた私たちはレントを払いながら貯蓄を増やし、次にどんな選択ができるか思案を巡らせる、そんな生活をしていた。
さらに私は共に暮らす友人に金を借りており、それを返すためにしゃかりきに働く必要があった。
人当たりが良く輝く笑顔を持つ恋人がいち早く仕事を得た。家業と同じクリーニング店での仕事だった。日本では国家資格が必要とのことだったが、こちらではアルバイトを多数雇っていた。観光が主力産業のこの街では、ホテル業やそのホテル業から出る大量の洗い物、レンタカーなどのビジネスが主だった。
次に仕事を決めたのは私で、ホテルのレストランで働くことになった。ホテルのレセプションにレジュメを配り回ったものの、手応えを感じられなかった私は、レストランの前で張り込み、シェフに直談判をして雇い入れてもらった。当時の私は形振り構っている余裕はなく、爆発的な行動力と発想力を開花させていた。
友人は、私からの返済もあって、余裕があったからか、根っこの暗さ故かわからぬが、なかなか仕事が得られず、次第に暗い顔を見せるようになっていた。
ホテルに着くと、私はモーニングビュッフェの準備を始めた。ソーセージをボイルし、ハッシュドポテトを揚げ、目玉焼きを焼いた。
目玉焼きを焼く鉄板は、チャイニーズチェフ直伝の方法で洗浄した。冷め始めた鉄板に酢を掛け、浮き出た汚れを削ぎ落とした。確かにこれは見かけ状は綺麗になるのだが、おそらくディナー終了後にシェフによって同じ方法で洗浄されたであろう鉄板で翌朝私が卵を焼くと、焦げたわけではないのだが黒ずむことがあった。そこで私は再度鉄板を洗浄して、温め直す必要があった。
私のシフトは基本的には早朝のビュッフェ係であったが、週末はシェフと共にディナータイムを担当することがあった。ディナーでは、鶏胸肉を開いて揚げた品やフィッシュアンドチップス、パスタ、パッタイ、ソムタム、シーザーサラダ、フルーツ盛り合わせなど、多様な国のメニューが並んでいた。私はそれらのメニューを一ヶ月ほどで覚え、平日にはディナーを一人で任されることもあった。慣れない厨房で慣れない品を拙い英語で学び取った方法で調理することは不安の多い作業で軽いパニックに陥ることもあった。
それでも宿泊者のアンケートでレストランに対してお褒めの言葉を授かることがあり、シェフと共に喜びを分かち合った。このシェフは肩にトライブタトゥーの入った大柄なチャイニーズで、訛りの強い英語は話した。普段はとても気さくでにこやかな男なのだが、時折苛立ちを見せ、恐ろしい剣幕で罵倒してくることがあった。一度、包丁を壁に投げつけられたことがあり、私は彼と働くことをやめた。彼がなぜそのような行動に至ったのか、当時の私の英語力や他人、異文化への理解力では察することすらできなかった。私が仕事を辞めることを伝えると彼はひどく悲しんだが、最後に笑顔で写真を撮ろうと言って、残りのシフトも和やかに過ごした。
彼を苛立たせた可能性があるとすれば、彼の英語を理解できておらず、どこかで根本的なコミュニケーション不和が生じていたか、彼のボスであるホテルの支配人に私が嫌われていたからかもしれない。支配人はオーストラリア人の女性で、メルボルンから転勤でアリススプリングスへ来たらしかった。ここで数年働けば、またメルボルンに戻れると漏らしてるのを聞いたことがあり、この転勤をあまり良くは思っていないようだった。オージー独特の恥ずかしなるほど陽気なユーモアを投げかけてきてくれるのだが、素直に笑わずに気の利いた返しを試みて、結果何が言いたいのか理解できているのかも示せない私の態度は彼女を苛立たせたかもしれない。そして彼女はそのような私にシフトを与えず、新しく見つけてきたフランス人に仕事を覚えさせようとしていた。シェフはそれでも私を起用しようとして、フランス人と同じシフトを組ませた。おそらくフランス人の彼の方が調理に長けており、私が評価される点といえば、忍耐強い洗い場仕事とクローズ作業だけだったのかもしれない。シェフからすれば、理由がどうあれ、起用するに値すると評価しているアジア人を自分の上司である支配人が嫌っていることは、シェフ自身の評価能力を否定されているような気持ちにさせたかもしれない。これは私から見た自己肯定的な考察かもしれないけれど。
レストランの仕事では、暇な時間にエスプレッソマシンを借りて、毎日数回カフェラテを作る練習をさせてもらった。自信満々だが私が求めるレベルのバリスタではないフィリピン人女性を捕まえて、手ほどきを受けた。この評価が態度に出てか、彼女はそれほど熱心に指導はしてくれず、私もそれほど上達はしなかった。それでも、一年目で生活に慣れて、二年目から本格的にバリスタの修行をするという、漠然とした計画が少しずつ進み始めたように思えていた。
けれども、包丁投げつけ事件を機に残りのシフトを消化したら辞めることを決められたのは、現地でエスプレッソマシンを触った一応の経験ができたことと、新たな雇い口の算段がついたからであった。
彼女が働いていたクリーニング屋で欠員が出て、さらには観光シーズンでもあることから、人手が必要であるとのことだった。挨拶程度の面談を経て、働かせてもらうことになった。
ベトナム人夫婦が営むその店舗は、ガレージのような大きな箱に業務用の洗濯機、乾燥機、作業台、アイロン台が並び、息子が集配に回り、アルバイトスタッフが洗濯と乾燥が済んだタオルやシーツ類を畳んで、ホテルごとに預かった数だけ梱包する、その繰り返しだった。
オーストラリアでは良く見かける光景だが、移住した本人たちは生まれ育った国の雰囲気を感じさせるが、その子供たちは体格からしてオーストラリア人的で、背が高く、体を鍛え、快活な雰囲気を感じさせる人が多かった。遺伝子よりも食事や教育、運動習慣等の交点的な要素で肉体は変わるのだと理解された。
フルタイムほどのシフトは与えられなかった私は、暇な時間をギターの練習に費やした。この頃から、私の中でバリスタへのモチベーションがギターへのそれに侵食されていったように思い返される。
この頃、我々はより安価な家賃を求めて、転居した。オーストラリア人男性と日本人女性の夫婦が営むシャアハウスに多くの旅人が滞在していると聞きつけ、我々は長期の滞在をブッキングした。
新しい家は、フェンスで囲われた区画に大小いくつかの住居が並び、中心には中庭のようなエリアと建物の裏にテント区画があった。住居を幾人かでシャアして暮らす人が多く、トイレとシャワーは共同だった。アジア人の長期滞在者が多かったが、ヨーロピアンのバックパッカーもちらほら短期滞在しているようだった。中にはタスマニアで見かけた顔もいくつかあった。
私と恋人はタスマニアで慣れたテント生活を再開することにした。他の居住者が暮らす建物の裏で我々は密やかに暮らしていた。ここまで同行していた友人はテントではなく部屋を借りることにした。
この友人もホテルでの仕事が軌道に乗り始めて、元の物欲に舞みれた明るく活発な性格を取り戻しつつあった。それでも仕事で疲れた時には愚痴を漏らしたり、未来への漠然とした不安を吐露していた。私は彼女のその話を聞くのが好きだった。これはおそらく彼女に姉と似たところを見て、親近感や家族内での自分の役割を演じることの心地よさを感じていたからだと思う。彼女が疲れたと言って、足のマッサージを求めてきたことがあった。これまで半年以上一緒にいて、他の男と交わった話も聞いてきたが、私が彼女に触れたのはこの時が初めてだった。柔らかく白い肌に私の指は吸い付き、二人の体温が交わる感覚が脳を刺激した。このまま彼女を深夜のシャワールームへ連れ込んでしまおうかという欲動を抑え、私は彼女を妹のように見ていることに気がついた。
しばらくテントからホテルに通う日々が続いた。以前の家に住んでいた時は、オーナーの使われていない車を借りて出勤することができたが、新しい家で借りられるのは自転車だけだった。
アリススプリングスには棘のある木の実が落ちていることが多く、自転車のタイヤはよくパンクした。その度に新しいオーナーのところに持っていきタイヤの修理や交換をしてもらった。時期によっては何台かの自転車が預けられており、即日の修理が行われないこともあった。今思えば、修理の手伝いをしてもよかったが、当時の私にそのような心の余裕はなく、明日の朝どのように出社するか考えることで精一杯だった。以前の家に比べて、ホテルに近い立地になったことで、徒歩で通勤できる距離であることが救いだった。
仕事が休みの日は、恋人と共に街を散策した。図書館へ行ったり、地元のハイスクールの校庭を眺めたり、ハウスメイトに聞いたおすすめのカフェを訪ねたり、パブでビールを呷ったりした。
恋人の誕生日には、少ない予算、(地域的に)少ない物資で密やかなパーティを催した。テントの中に小さなフロアタイルで組み立てた城を用意して、キャンドルや菓子、プレゼントで装飾した。ディナーはハンバーグを捏ねて作ったロコモコ丼だった。
テント生活でレントを抑えた慎ましい生活の甲斐あって、私は友人への借金を完済し、幾許かの貯金を蓄えていた。時給が23豪ドルという世界では、次の街へ移動するための貯金は数ヶ月で用意することができた。
我々が次に進むことにしたのは、ケアンズだった。私には目的に向けた具体的な目標を立て、それを実行する能力が欠けていた。自分のカフェを開くという目的に対して、バリスタになる、英語でのコミュニケーションをマスターするという目標に向かって努力する力がなかったのだ。今思えば、カフェを開くことは、より深掘って発見されるべき他の目的の手段でしかなったし、目標とやるべきことがわかっていながら、実行できなかったのは、期限を決め、それまでに達成できなかった場合の代替案まで考えるというフレームワークを持ち合わせていなかったからだと納得される。さらにはそれをやりきろうという誓いを立てられてもいなかった。
その結果、二人の旅路における自身の主体性を私はほぼ放棄してしまっていた。恋人はこの後、一時帰国して友人の結婚式に参加する予定であった。阿保に見えて現実的な倹約家である恋人は、オーストラリア内陸からの高い航空券を購入する代わりに陸路で日本に近いケアンズに移動してそこから離陸する案を考えていた。ロードトリップに魅力を感じた私はこの案に自身の条件を重ねて考えることもなく賛成した。恋人からすれば、私は優しい彼氏として見えたかもしれない。その優しさは私自身が自分を見つめることを避けた甘さの顕れであることを知ってか知らずか。
当時の決定の裏には、私の精神的なストレスがもたらした思考停止状態があったと思う。職場でも自室(テント)でも恋人と過ごす時間の多かった私には、著しく一人の時間が不足していた。さらに、英語を使うことにこだわっていた私は、日記も英語で書いていた。それは母国語で行うよりも自分自身の現状や心情を把握する語彙や思考を浅くさせた。結果、他人に相談することも自分で把握することもできないまま、ストレスが積み重なっていった。
つまり、私は恋人と一緒にいることに疲れ始めていた。そのことに気付けないでいた。そこで恋人が一時帰国することは私にとって救いに思えた。その救いを受け取るためなら、私は2400キロのロードトリップも喜んで行うことができた。恋人を空港に送り届けるという大義名分を得ながら。
こうして我々の新しい旅路が始まった。移動手段はリロケーションと呼ばれる、乗り捨てのレンタカーを貸出元に戻すという名目で安く借りられるレンタカーだった。このサービスを利用して、我々はベンツの六人乗りのキャンピングカーをほぼ保険代だけで五日間借りることができた。
この旅程を家主に伝えると、自分も昔、叔父と同じ旅路を通ったことがあるといい、手書きのマップと見どころを書き記してくれた。彼は私たちのことをとても心配しているように見えた。我々は彼にとって未熟な子供に見えたのかもしれない。
ここまで十ヶ月ともに過ごしてきた妹のような友人は私との別れを感慨深く受け止めてくれていた。タスマニアから先延ばしにしてきた青春がここで終わりを告げたように思われた。
ここから一度目の焦燥感に満ちたロードトリップが始まった。