Takagi Akira
種を植えず蒔きもせず、点を作らず線を突き刺す。 (ノーディレクションな旅の後悔や傷をポスト構造主義的に肯定する試みです。)
砂漠の夜は寒い。まだ日が明ける前の早朝、街道を進む車は少ない。点在する街灯と星空が照らす砂色の景色が過ぎ去っていく。 一台のハイラックスが横を通り過ぎた。鼻先が切り裂いていた冷気とは比にならない大きな気団が、薄手のコーデュロイを通過して肌を冷やした。一瞬車道側に引き寄せられた体を立て直すため、重たいペダルを踏み込んだ。 「私は今、何のために頑張っているんだろう」 当時は生きるために精一杯だった。恋人と友人と三人で日本人移住者の家に居候して暮らしていた私たちはレントを
タスマニアでの第二の青春期を経て、私は恋人と二人の友人と共にオーストラリアの内陸を目指すことになった。 オーストラリアでは内陸の不毛の土地をoutbackと呼んだ。そこには先住民であるアボリジニや野生生物、古い大陸の大地そのものが文化を形成していた。 outbackを目指す前、そのメンバーに帰国予定の一名を加えた思い出旅行が企画された。それはタスマニアのさらに離島のマライア島への小旅行であった。 車の侵入が禁止されたこの島には、橋もかかっておらず、船でアクセスする他
この仕事は ブリスベンの話を書き終えて、タスマニアの話を書こうとした。しかし、タスマニアのことを書き始めてみると、書きたいことが多く、機微を穿つには骨が折れた。そこで一度このマガジンから離れ、オーストラリア滞在中の精神的動向を暗喩的に置き換えた小説を書いてきた。 ところが、いや、当然のことながら、タスマニア生活をメタファーに小説を書くフェーズに入ると、筆が止まった。置換作業を行うには元の輪郭をはっきりとさせねばならない。そこで、またこのマガジンに立ち戻り、タスマニアにお
新しい生活に慣れ始め、無くしたものが残した穴を時間の垢が埋め合わせた頃、私はロッククライミングを再開することにした。ブリスベンの街中には大きく蛇行した川が流れていて、ヘアピンカーブをもたらした岩盤層が剥き出しになり、クライミングスポットとして名を馳せていた。カンガルーポイントと呼ばれるそのエリアは、都会に住むクライマーにとって絶好の練習場所であった。私はSNSを通じて、地元のクライマーコミュニティの情報を集め、週末に行われる講習会に参加することにした。 当日、陽が高く登り
坂の多いまちだった。 中央の駅から長い坂を登って街を抜けると、公園の中を突っ切る長い階段が現れる。これを足の裏に汗をかきながら登ると、私が部屋を借りた町に辿り着く。 部屋といっても、一軒家の一階の一室を四名が共有する形で、週に一二〇ドルの家賃であった。二階には共有のキッチンやダイニングがあり、三階には一階と同様な仕組みで女性たちが暮らしていた。シャワーはそれぞれ一階と三階の部屋に備え付けられ、一階には小ぶりなテラスがあった。私はよくそこで陽を浴びながら背筋を伸ばした。
これまで初めての海外渡航から異国での農業生活及び共同体の崩壊について綴ってきた。しかし、この文章の本来の目的は、現代哲学の力を借りて、過去の根無草的な生活を肯定し得るか、その挑戦であった。 ここで、断片的に伝えるに留めてきた、あの旅の目的を明確にしておこう。それはバリスタの修行をすることであった。しかし、この目標は設定当時、置かれていた環境から逃避するために用意された即席の目標であった。つまり、十分に吟味され練られたものではなく、言葉だけが浮き足立って、実際に私を豪州の地
私がこのファームに来る数ヶ月前、大きなハリケーンがこの地域を襲ったらしい。その影響で苗の出荷が遅れ、全体の工程も遅れたと聞いたのは、働き始めてしばらく経ってからのことだった。 その頃には、ファームハウスにも見知らぬ顔が増え、チーム内に幾つかのグループが出来ていた。そのような状況の中、誰が同じチームで誰が他のチームなのか明確に区別できている人間は少なかった。 今シーズンの最古参となっていた私は、新しく加わったメンバーの送迎やオリエンテーションを任されていたので、それなりに
可奈は上半裸の聡を見つけた。彼の左脇にはサッカーボールが抱えられ、快活な笑顔で誰かと話していた。可奈にとって聡は誰とでも無邪気に仲良くなれる人間のように思えた。そう、誰とでも、あの怪しい日本人とも。 「お、かなちんじゃん」と聡が可奈に話しかけた。 「その呼び方やめろ」小柄な可奈は体格を気にさせない威勢を放った。 「なんでだよ、別にいいだろ、かなちん」 「まじうざい」 「てか何そのパンツ、変な色だな」 「ほんと失礼なやつだな、ビーチバレー用のウェアです」 「かなちんビーチバレ
私は静江、滋賀県出身の19歳。私はバックパーカに憧れていた。それで高校を卒業してすぐにニュージーランドへ行くためにワーキングホリデービザを取得した。家族も友人も特に兄貴は私の門出を喜び応援してくれた。 ニュージーランドではたくさんの山を登り、トラックを歩き回った。仕事は育苗を生業とする農家に潜り込んでどうにか暮らした。毎日訳もわからず細い植物を切って、他の植物にくっつけていた。ボスは気さくな人で、週末にはBBQやクルージングに連れて行ってくれた。ある程度貯金もでき、ビザも
「麻衣子、週末ブリスベン行かない?」 「いいよ、八重子さんも行きたがってたよ」 健が麻衣子に尋ねると、彼女はそう答えた。健にはベンチに座ってタバコを吸う麻衣子の姿が猫背のテディベアのように見えた。 「そうなんだよ、行きたがってたけど、最近疲れていそうで誘っていいか迷ってるんだ。日本の仕事も忙しそうだし」 「健ちゃんが誘えば絶対行くと思うよ」 「そうかな、じゃあ行くことになっても、八重子さんには無理させないようにしよう」 「オーケイ」 麻衣子は健に週末のお出かけに誘われた
ある日、私は他のチームの人々が集まるコンテナーの前に居座っていた。彼らのチームには過去に賑やかなイタリア人の一団がいたが、彼らはすでにチームを去っていた。それ以来、彼らのチームの人数は減る一方で、このファームハウス内での勢力は衰えているように見えた。最古参の群れである彼らの衰退を見るのは、最初期から食卓を共にした私にとって、我が事のように悲しく思われた。彼らから直接理由を聞くことはできなかったが、彼らは別のファームへ移動することにしたという。それで、私は最後の宴のためにそこ
イチゴ農家では収穫時にトロリーと呼ばれる台車が使われる。座面と荷台と屋根(多くは布が朽ち果てた骨組みだけの状態)から成る車輪付きの人力車だ。 決して滑らかではないこの車輪を自らの重さと摘んだイチゴを乗せて走らせることは、なかなかの重労働であった。芯の細い私は腰痛に悩まされるようになった。さらに毎朝毎晩の大人数を乗せた運転もそれなりに負担になっているようであった。幸いなことにドライバーとしての役割のおかげで、それほどがむしゃらにイチゴを摘まなくても生活費に困ることはなかった
畑での仕事を終えると、私はチームメイトを乗せて車を走らせる。基本的には同じファームハウスに住んでいるメンバーを乗せて帰る。だが、チームの規模が大きくなるにつれて、隣町のシェアハウスにも多くのメンバーが集まり始めていた。彼らを家に届けることも私の仕事になった。 オーストラリアの高速道路は基本的に無料で、車線も多いため、日本よりも気軽に使われることが多い。そもそも日本ほど広大な都市が連綿と続いてはいないので、隣の街に行くとなると、幹線道路として整備されている高速道路を使わざる
早朝五時。あたりはまだ暗く、冷たい空気が上空から地面までぴたりと満たし、土を圧し固めただけの道路に霜を立たせていた。私のワーキングブーツだけがその空間で唯一、この静寂を乱す存在に思われた。 車のエンジンをかける。もうこの動作にも慣れたものだ。当初のような心のざわめきはない。無骨なこの車体を私はずいぶん手懐けられたと思う。 社内を暖めながら皆の到着を待つ。眠たい眼を擦りながらまばらに集まり始めた人々は、その多くがアジア系の顔つきをしており、ほとんどが台湾人と日本人だった。
次に私が思い出すことは、「私はこの車には乗らない事件」だ。 農園での仕事に慣れた頃、私は自分のチームのコントラクターと仲良くなる機会を得た。休憩中にタバコを吹かそうと思って作り置いてあった巻きタバコを咥えると、フィルターが外れてしまった。手製のタバコを吸ったことがある人なら一度は見舞われるであろう失敗だった。そんな折、ちょうど隣にいたのがチームリーダーの一人、アレックスであった。 「こうすると入りやすいぜ」と彼は笑顔で、私のヨレヨレのタバコからすっぽ抜けたフィルターを平ら
私自身が属する第二の群れが形成されてから、まず私を悩ませたのは、キッチン事情であった。それまでは少ない人数で悠々と使用できていた共同キッチンや食堂に人が溢れかえった。これらの設備は四方をコンテナハウスに囲まれ、共有スペースとして配置されていた。 私は幼い頃から祖母に包丁を握らされていたことと父親が料理人であったことから、料理をすることが好きであった。特にパスタとスパイスカレーを作ることに拘りがあり、それはオーストラリアの地でも変わることはなかった。当時、私はポモドーロとビ