COIN~コイン~ 3-2 遠征前夜
COIN~コイン~ 3-2 遠征前夜
著:増長 晃
もし王国が復興したら、この日はきっと歴史に残るだろう。族長は言った。今夜コロニー中央の館で、出陣の宴が催される。
宴の前に“狼”は族長の演説の際に紹介される。そのためモールス含む“狼”は狩人の館で待機しているのだ。
この一か月の間、“狼”の噂は巡回する|《コルン》を通じて各コロニーに広まった。その反応は様々で、吉報に感謝してくれるところもあれば、余計なことをするなと強い反感を買うところもある。実のところ森のコロニー内でも、未だに意見が分かれていた。
成果を予測できる狩りなどあろうか。強い反対派であったアクシアがそう言ったことで、反対派の熱が少し下がった。
とはいえ不安に思っている者も多いであろう。モールス本人もその一人であり、本当は嫌でもあった。元々は兄を救うことが第一で、これほど大きな期待を背負うことになるなどと思ってもいなかった。
もういっそ一人でこっそり王都へ行ってしまおうか。しかし今のモールスは結晶団や生き残りたちから多大なる注目を集めており、勝手にいなくなればすぐに気付かれる。そして皆で探そうとするだろう。義姉に、それ以上に多くの人たちに迷惑をかけるだろう。初めて感じる肩の荷の重さに、モールスはため息を吐く。
「楽しみだなモールス!見たことのない大きな世界に行けるってよ!」
館内を歩き回っていたトスがモールスの隣に来て言った。モールスは適当に頷いた。モールスの双肩の重荷を分けてやりたい気分だ。
「トスくんは外の世界が見たいの?」
左隣の義姉が言った。
「はい!なんか知らないけどワクワクします!」
「トスくんは瓶の街から来たんでしょ?外にある物と瓶の街にある物は違うのかな」
「えーっと、たしかに街の建物とこの土地にある建物は似てるけど、なんかこう、似てるのは形だけで、体で感じたときのそれはなんか違う興奮があるっていうか——」
トスと義姉の会話が盛り上がり始めた。退屈したモールスは席を立ち、館内を散歩し始めた。風を浴びようと館の裏手に出ると、日が暮れようとするのが見えた。もうすぐ宴と演説が始まる。
「やあ、少年」
急に背後から声がして振り返ると、アクシアがいた。髪を降ろし、青の民族衣装を着ている。その姿は、狩人ではなく一人の少女であった。ただ手や顔にある大小の傷や、服の上からでも分かる鍛えられた体躯はまさに狩人の有様で、その点がマユ姫との相違点でもあった。
「緊張してる?」
「いや、嫌だなあって思ってる。本当は兄さんを救いたいだけで、こんな大きな話になるなんて思ってなかったから」
「この山で狩人は英雄視される。私の民族で狩りは神や精霊の恩恵を受ける神聖なる儀式で、それを行う人は相応の名誉を与えられる」
「僕は狩人じゃない」
「そう。だから期待に応える必要はないでしょ」
アクシアは壁に背中を預け、広場に方に目を向ける。
「あんたは子供のくせに聞き分けが良すぎる。もっとワガママでいいのに」
似たようなことをトスに言われた気がする。
「じゃあ私は先に行ってるから」
そう言ってアクシアは立ち去り、館の隣の広場に向かった。歩き方からして足の怪我は治ったようだ。
館の隣の広場にて、狩人や結晶団、その他大勢の市民が集まっていた。全部で百人前後だろうか。大きな長机が六つ並べてあり、料理と結晶灯で満たされている。館を背にして大きな木製のステージがある。
集まった聴衆はまだ料理を口にしていないが、この出陣式の話題で賑わっている。ステージの脇からその様子を覗くモールスの胸は速鳴っていた。ステージの裏に待機するのは族長と側近、そして“狼”だ。モールスとテーラ、トスとアクシア、そしてヴィアを含めた合計五者。
呪われた鹿、ヴィアは結晶団と狩人が調教し、人や荷物を運べるようになった。馬に比べて悪路に強く、呪われているため餌も要らない——モールスがある程度呪いを祓ったため、食事を摂る機能は回復しているが、栄養を摂る必要はない——。
「大丈夫?」
振り返ると義姉がいた。どうしたのかと思うと、義姉の左手の指輪が光って、赤い光の線がモールスの左手の指輪と繋がっていた。これは兄と義姉の結婚指輪で、精霊術で赤い石が光り、互いの居場所を教える指輪だ。無意識にモールスが光を発していたらしい。
モールスは慌てて光を消し、指輪を背に隠した。無意味であることは分かりきっていたし、どうして自分がそうしたのかも分からなかった。しかし義姉はただモールスの手を取り、ステージから遠ざけた。騒ぎ声は小さな雑音になり、曇った夜空と湿った風が吹くいつもの世界に戻った。
「こんな大勢の人前に立つのは初めてだったね」
「僕、なんだか分からない」
「モールスくんはたぶん怖がってるんだと思うよ」
「僕は何が怖いの?」
「何も分からないことよ。人は分からないものに直面すると、心の中で“恐怖”として認識するの」
「じゃあどうすればいいの?」
「そうね、君のお名前は?」
「…モールス」
「何が得意なの?」
「精霊術と剣術」
「今日の朝ご飯は?」
「パンとシチュー」
「その三つを心の中で繰り返せばいいの。そしたら勝手に時間が過ぎるから。それに精霊さんと遊んでていいわよ。どうせ誰にも見えないから怒られないし」
そう言って義姉は笑った。義姉はいつだって隣にいて、いつだって心強い。いつだってモールスを理解してくれる。“狼”には賛同できなかったが、義姉といるためにはやはり必要だ。自分一人で王都に行くなど到底できないなと悟り、またいつか名前の無い恐怖に直面するであろう不安も得た。義姉の言葉が無ければ進めない。いや、義姉のおかげでここまでこれた。背に隠した指輪の小さな硬さを感じた。
「この十年、我々はずっとこの雲の下、精霊に怯えて暮らしてきた。瓶の街は自由を閉じ込め、我らは花が無ければ呪われる生き方を強いられた。あまつさえ我らは、その理不尽な状況に何もしなかった。滅びへの崖際に立ち止まるばかりだった——」
族長の演説が始まった。皆固唾を呑んで見守っているのが分かるほど静かだった。
トスは結晶団の装備、アクシアは狩装束と仮面、テーラは白いローブ。モールスはいつもの精霊遣いの青装束だった。このコロニーで精霊に立ち向かうことは神聖な儀式であるとし、“狼”はそれぞれの正装を求められた。
「もう、義父さんの話はいっつも長い」
そう言ったのはアクシアだった。外した仮面を弄んでいる。
「え、お前族長の娘?」
「義理の、ね」
トスが驚いて反応すると、アクシアが答えた。
「さっさと私たち紹介して終わればいいのに。こっちだってお腹空いたんだから」
愚痴をこぼすアクシアの視線の先にはヴィアがいた。
「おいやめろ!あれは俺が乗るんだよ!」
「は?別に食べたくないんだけど。体中結晶だらけでどうせ不味いでしょ」
「なんだ俺の相棒に失礼だろ!」
「じゃあ食べていいのね」
「そうはならないだろ!」
トスとアクシアのやり取りに緊張がほぐれて、つい笑みがこぼれる。途方もない冒険ではあるが、この四人とヴィアと一緒に行くのであればそれほど恐れることは無いのかもしれない。
「おーいそろそろ壇上に上がるぞ」
側近が呼びに来た。四人は壇上に上がり、トスがヴィアの手綱を引く。
正直どんな話をしたのかは覚えていなかった。よほど長く内容の薄い演説だったのだろう。義姉に言われた通り、自分の名前と特技と今日の朝食を思い出す作業をくり返しているうちに“狼”の紹介は終わっていた——トスの時だけ笑いが起きたのは覚えている——。
その後宴会の席に招かれたが、トスとテーラは断った。子供にとっては遅い時間であり、明日朝の出陣に備えたかった。
広場から離れて普段よりずっと静かな小屋に戻る。義姉のベッドの脇には明日の朝着る外套があった。義姉が愛用していた白い礼服をそのままファスティスで青く染めたものだ。今着ている白いローブは残りひとつしかない替え着だ。
「ふう、疲れたねモールスくん。宴会行きたかった?」
「ううん、人がいっぱいいるのは苦手だから」
「そうだよね、お姉ちゃんもああいうの嫌い!」
義姉が笑って答え、服を脱いだ。下着姿になった義姉は最後のひとつしかない礼服を丸め、竈に放り込み、火を点けた。
「え、義姉さん!?」
竈の火に照らされる義姉は銀の剣を取り出し、柄の装飾を金具で外し、鞘を抜き取って窓から捨てた。代わりに革で作られた鞘に裸の剣を納める。
「ふう、すっきりした」
ほぼ裸で、飾りの無い剣を持った義姉はたしかに吹っ切れたような開放的な面持ちだった。すぐさま寝巻に着替えたが、いつも見る寝巻の義姉よりも雰囲気が明るいように感じた。
それにしても、白いローブと銀の剣は義姉の最大の栄誉そのものだ。王族に認められた錬金術師の証という荘厳な重さは、王都を知らぬモールスでも分かる。まさに義姉にとって宝、いや、自分自身ではないか。
「もう寝よっか。おやすみ」
そう言って義姉はベッドに潜り込んだ。テーラはテーラのままだ。モールスの義姉であることを残して、しかし確実に変わった。義姉の一部を捨てたのだ。そうして今ここにいるのは新しい義姉か、それとも本来の義姉か。
義姉の寝息が聞こえる。モールスも結晶灯を消し、ベッドに潜った。モールスは捨てる物が無ければ、肩書きのひとつも無い。
自分は何者でもない。
トスやアクシアは自分を優先したり、無理しすぎないよう助言をくれたりする。義姉はその手本を見せてくれた。モールスには今の自分しかない。どこの組織にも属していない。自分が何者かはいつだって自分が決めた。“狼”の一員となり、初めて自分が社会に属する何者かになったような気がした。だがその先に向かうのは、誰もいない荒野だ。
初めて社会に属し、その結果社会から最も外れた場所に足を運ぶ。皮肉な因果に小さく笑い、モールスは眠りについた。
テーラは自己を占める最大のシンボルを捨てた。しかしモールスの家族であることを捨てなかった。それだけでモールスは安心した。自分と義姉が見えない何かで繋がっているような気がした。まるで精霊のように——。
夢も見ない深い眠りから覚め、モールスとテーラは狩人の館に向かった。日が昇ったばかりの早い朝、“狼”は全員館の前に集まっていた。テーラが衣替えしたことで、皆青装束で統一されていた。
眠そうな目を擦るトスがヴィアの手綱をとっている。その脇から右の義足を引きずる族長が現れた。
「みんな集まったか。じゃあこれを配っておくかの。結晶団とそこの錬金術師殿が作ってくれたのじゃ」
族長は四人に青い目隠しを配った。それは青い布地の中央に、青の結晶の大きな一枚板があった。それは目を覆うと、視界を丸ごと覆って青い景色が広がった。
「結晶眼鏡じゃ。大きな一枚岩の霊素結晶を結晶師が作り、視界の全てを覆い隠すような形に加工した物じゃ。悪霊避けの青色を呈するのはお嬢さんの構造式のおかげじゃ。しかも軽い。それに布地にも悪霊避けの呪いをかけておいた。これで野外で盲目になることも無かろう」
精霊に善悪は無い。兄の言葉だ。族長が悪霊と言ったのはあくまでも比喩だと分かった。だが人に無条件で悪しき呪いをかけようとするのは確かに悪霊と言った方がトスたちには分かりやすいかもしれない。
結晶師と、錬金術師と、精霊遣いの三者が力を合わせて作った命綱だ。まさにコイン建国の逸話に似た三学一体の賜物。これで国を蘇らせようというのだからモールスとて胸が少し熱くなる。
「アクシアよ、皆さんに迷惑をかけるでないぞ。お前は昔から——」
「あーはいはい」
族長の言葉を横に流しながら、アクシアは仮面の上部を素手でへし折っていた。その切断面を石で擦って磨き、仮面は口だけを覆い、目隠しとうまく合わさった。コイン三学と少数民族の民俗の融和を体現したようだ。
「さて諸君、言うべきことは昨晩全部言った!さぁ、健闘を祈る!」
昨晩何か言ったらしいが、全く覚えていない——聞いていない——。眠そうなトスがようやく頭を目覚めさせた頃、一行は東の門を出ていた。この先に道は無い。誰も知らない世界で、モールスはいったい何者になるのか。誰にも教わらない進み方を自分たち築いていくのだ。
東の曇天の彼方に日が昇っている。モールス以外の三者は結晶の目隠しをして、昇る光を目指した。
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