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【完結】COIN~コイン~ 終章 選ぶこと

COIN~コイン~ 終章 選ぶこと
著:増長 晃

モールスはトスと共にヴィアに乗って王都を駆けた。どこかを目指しているわけではない。道標の指輪は自分で捨ててしまった。兄と義姉とを繋ぐ大切な物だったのに、二人だけでなく自分すら孤立させてしまった。
「どうしよう、トス。場所が分からない…」
「精霊の声は聞こえないのか?」
 トスに言われてモールスは剣を抜き、目の前で風に揺らした。この剣はかつて兄の剣、ゆえにこの剣は兄をよく覚えており、兄と繋がりやすい。すぐにこの剣の音は、兄と繋がった。
『モールス、ああ、やっと繋がった』
「兄さん、義姉さんを探しているんだ!」
『テーラがいるのか?どうして…』
「僕の、せいだ」
『——とにかく探してみる』
 そうして兄の声は消え、夜闇に赤い光の柱が立った。モールスが何度も目にした、兄の指輪の光だ。
「トス!あの光に向かって!」
 言われてトスはヴィアを走らせた。兄が干渉しているのか、精霊術の感度がいい。あの光のもとで起きていることが分かるのだ。アクシアが奮闘していること。義姉の霊気が乱れていること。
「義姉さん…!」
 祈るように小さい声でモールスは唸った。光が近づくと、荒れ狂う人の波が見えた。いや、人に似た異形の群れだ。受霊者の特に重症な者たちが集まっている。アクシアの槍と矢でその多くは動かなくなっていた。だがアクシアの動きが鈍い。疲労と気力の消耗が表れている。
 十年もの間この場所で精霊に肌を晒し続けた受霊者たちは、身の丈が大人の二倍になるほど結晶で肥大し、人の原型が歪んでいた。その一体が、アクシアに岩のような腕を振り下ろす。
「やめろ!」
 モールスは考えるより先に剣を振り、音を鳴らしてソリスを呼んだ。赤い烏は夜闇を貫いてアクシアの足元に矢のように強くぶつかり、赤い光となって弾けた。そこにいるすべての受霊者を包み、結晶が砕けながら死んだように倒れていった。モールスは修練を重ね兄の剣に腕を馴染ませ、さらにこの都市にいる兄に力を借りて強い精霊術を発揮できるようになっていた。
「義姉さん!」
「まだ油断しないで!」
 アクシアが荒い息の合間に言った。重い足音が四方を囲む。アクシアは汗を拭い、残り少ない鉄の矢じりの矢をつがえた。
「…モールスくん、いるの…?」
 か細い声が聞こえた。義姉が蹲っている。左手で目を覆っているようだが。左手には赤く光る指輪があり、その光が照らす顔は、結晶を宿していた。義姉の目から、溢れるように結晶が咲いている。
「義姉さん…ごめんなさい」
「いるのね、モールスくん…。よかった…」
 顔はこちらを向けているが、もう見えていないのだろう。目の前で起きていることが理解できない。義姉が精霊に呪われた。それが現実である実感がまるでなかった。音が聞こえず、景色が闇に沈んでいく。
「モールス!しっかりしろ!」
 トスの声が聞こえるが、言葉を理解できない。足場が崩れるのを感じた。
「モールス!立て!」
 トスに胸ぐらを掴まれ、無理やり立たされて我に返った。
「王宮に逃げ込もう!モールス!道を拓いて!」
 アクシアの強い声がモールスを掻き立てた。驚いたように心臓が早鳴り始め、瞬時に力が全身に巡った。強く地面を踏み、息を吐いて体幹に力を籠める。振って鳴らした剣がソリスを呼び出し、刹那の太陽のように夜の街を照らした。そして王宮に向けて剣を振り、ソリスを放った。赤い輝きは石畳を焦がしながら結晶の怪物を焼き殺し、通り道を作った。
 トスが義姉をヴィアの背に乗せ、トスと二人乗りで駆け抜けた。その左右をモールスとアクシアが守りながら走る。
 放たれたソリスは王宮の入り口で爆ぜ、受霊者たちを散らした。その隙に一行は王宮の門をくぐり、モールスとアクシアが鉄の門を閉めた。
「兵舎に行こう」
「いえ、王宮の中よ…あそこは精霊を近寄らせない結界が施されている…」
 アクシアの意見を翻し、か細い声の義姉が言った。トスは義姉を乗せたままヴィアを王宮に導いた。歩みを進めるごとに現実味を取り戻してきた。眼球の結晶化は間違いなく精霊の呪いの初期症状だ。義姉は助からないのだろうか。そもそもどうして呪われたのか。結晶眼鏡は機能しなかったのか。
 自分のせいではないだろうか。どう考えても自責の念が消えない。モールスが感情的になって義姉を一方的に突き放したせいでこうなってしまったのだ。詳しい理由は定かではない。ましてや理由など必要ない。自分のせいだ。それが思い込みであって欲しいとさえ、思えなかった。
「あんたもテーラさんも戻らなかったから、王宮の方にトスと向かってたの。そしたら大声であんたを探すテーラさんがいたの」
 アクシアが語り始めた。お互い前を向いている。
「私たちが合流しようとしたら、呪受者に襲われて、私がテーラさんを助けに行っている間にトスをあんたの所に向かわせた。あの鹿はあんたの気配をよく覚えているから」
「それで、義姉さんは?」
「私が見たときは結晶眼鏡をしていなかった。その後は死に物狂いで戦ってたからよく分からないけど、気付けば目が…」
 王宮のエントランスでヴィアは立ち止り、足を曲げた。王宮内部は夜でも霊気が落ち着いている。だが精霊の流れを完全に遮断できるものではないようだ。
 トスが義姉を手伝って降ろし、近くの椅子に座らせる。確かに眼球が結晶で潰されて、見ているだけで痛ましい。
「モールスくん、いるの?おねがい。いるなら手を握って…」
 すがるようなか細い声で義姉が言った。モールスは言葉も出ず、そっと義姉の手を握った。その手は仄かに温かかった。
「ああ、モールスくん、よかった…」
 ほとんど囁くような声だ。呪われていても、まだ自我が残っている。少しずつ失われていくであろう義姉に、モールスは言うべきことを言った。
「ごめんなさい」
 それは涙と共に零れた。義姉の手を両手で握ったまま、モールスは崩れ落ちて泣いた。それは王宮の端まで反響し、モールスの胸の内の悲しみのように大きく震えた。この声を聞いて精霊が寄ってきてしまう。悲しい声や言葉には、悲しい精霊が集まりやすい。それでも自分を抑えられなかった。一度堰を切った感情は自力で止めることなどできない。
 やり直したい。取り戻したい。自分の過ちが、あろうことかモールス自身より大切な人に禍を成した。
 義姉の手には温もりが宿っている。呪いが進行すれば人間としての生命活動は終わり、自分で体温を作れなくなる。この温もりは、すぐにこの手から消える。いやだ。手放したくない。義姉の命を押し留めるように、手を強く握った。
「モールス、助かる…よな?」
 普段のトスらしからぬ弱気な声だ。助からない。助かるわけがない。義姉は今夜のうちにでも人間を失う。泣こうが目を逸らそうがその事実から逃げることはできないが、それに向き合う気力がモールスには無かった。
「…テーラさんは、地下でこう言ったんだ。あんたには言うなって」
 アクシアが重苦しそうな口を開く。
「この国の地下には“リト”がいて、そのリトとかいうやつなら霊禍をどうにかできるかもしれないって」
「兄さんが地下に?」
「兄さんって、リトってあんたのお兄さんなの?ていうか人の名前なんだ」
 モールスは兄と言葉を交わしたが、直接会ったことは無かった。兄の実体は地下室にいて、霊禍を克服する鍵となるそうだ。義姉がモールスに隠していた事実、つまりモールスとリトがホムンクルスであるという事実を隠したかったのだろうが、それは自分で暴いた。ならばやることは一つだ。
「ソリス、義姉さんを守って」
 モールスが呼びかけると、虚空からソリスが姿を現した。翼を閉じてテーラの肩にとまる。赤い輝きがテーラを少しでも温めると信じて、モールスは手を放した。
「義姉さん。兄さんに会ってくるよ。この世界の呪いを終わらせて来る」
 そう言ってモールスは義姉の手をそっと放した。手に残った微かな温もりは冷たい夜風に攫われた。冷たさを振り切るためにモールスは手を握りしめた。モールスは自分の分の結晶眼鏡を取り出し、それで義姉の目を隠した。
「すぐ戻ってくる。義姉さんをよろしく」
 モールスはトスとアクシアに言った。二人が頷き、踵を返すと、背中に義姉の声が聞こえた。
「なにもできなくて…ごめんね」
 息が詰まりかけた。テーラほどモールスを大事にしてくれる者はいない。それなのにまだモールスのことを守ろうとしてくれている。身に余る慈しみを感じ、何としても助けねばと思い、足を進めた。
 

 階段の横にある大きな鉄扉。ここで義姉に思いのたけをぶつけ、今の悲劇に至った。ここに立つだけで足が震える。だが進まねばならない。もう守られてばかりでいるのは止めた。今度は守る番だ。
「兄さん、聞こえる?」
『モールス。テーラは——』
「義姉さんは呪われた」
『ああ、霊気で分かる。呪いの初期症状だな』
「兄さんは治せる?」
『ああ、すべての精霊をこの世界から奪う』
「え?」
『時間が無い。早く僕の所に来るんだ。お前に霊名を授ける』
 霊名を授ける。アストリストから聞いたことだ。
『僕はこの地下の奥にいる。霊気の渦の激しい場所にいるから気を付けて』
 兄の霊気は扉の奥に続いていた。眉間に紐が繋がったように、兄のいる方角が見えてくるのだ。眉間の紐に導かれて足を進める。
 中は暗く、腰の結晶灯を灯して進んだ。扉だけでなく、石の壁はほとんどが鉄で固定されている。精霊避けだ。この先に精霊が入り込まない設計だ。だがこの奥は霊気で満ちている。精霊が多く侵入しているのか、あるいは兄が膨大な霊気を放っているのか。
 すると、視界が揺らいだ。足が床の固さを失い、すぐさま体勢を立て直した。精霊酔いだ。それも今までにないほど強烈な霊気だ。
『大丈夫か!?モールス』
 兄の声に正気に返った。
「兄さん、ここの霊気はどうなっているの?」
『この場所は呪われた精霊を留める場所、コイン王の罪だ』
 コイン王、リトとモールスの生みの親であり、肉体の設計上の同一人物だ。
「呪われた精霊って、どういうこと?」
『コイン王が犯した過ちと、その罪の結果だ』
「王様の罪って?」
『王は稀代の錬金術師で、とりわけ金属精錬に長けていた。つまり金属であれば思うがままに操れた。その金属は精霊に枷をかける』
「…まさか」
『そう。金属を用いて精霊を遣おうとした。具体的にはこうだ。金属に精霊を混ぜた』
「えっ…」
 理解ができなかった。精霊は形を持たない霊気の秩序そのものだ。それを金属に混ぜたというのが分からなかった。
 進むにつれて、石壁の岩の隙間から結晶が生えているのが目立ってきた。壁だけでなく床や天井からも氷柱のように結晶が伸びている。結晶灯の放つ光が徐々に歪になり、通路が狭くなっていく。
 これは精霊の呪いによる肉体の結晶化に似ている。だがこの結晶は岩石から生えている。人体の呪いは皮膚を破って肉の内側から生えてくるものだが、ここにある結晶はまるで表面に凍り付くように結晶が張り付いて伸びている。
「どうしてここの結晶は石の壁から生えているの?」
『霊素が無生物と融和しようとしているからだ。王が創った罪深い精霊がそうさせている。この精霊が外に出てこの国にはびこれば、生き物も無生物もみんな溶かされてしまう』
「罪深い精霊って?」
『僕だ』
「え、兄さん?」
 兄の声が重くなり、曇った。
『正しくは僕に宿している——』
 兄の声が曖昧になった。水の膜で耳を覆われたようだ。歩く足元の石の感覚が泥のように歪んだ。


「ほら、お兄さんよ」
 幼いモールスを抱きかかえたテーラが隣に座った。初めて見る空を、何故か青空だと分かった。白い雲が流れる先には高い石の壁が空を遮っていた。ここは王の研究所だ。ここから出ることはできない。観察者のテーラが時折来てくれるのみだ。
 小さく丸い手がこちらに触れた。胸の内に温かいものが咲いた。
「おいでモールス」
 小さな温もりを抱き寄せた。モールスは膝の上ではにかんでいる。思わずこちらも笑みを返す。
「リト、貴方とのこと、両親に話したの」
 一度だけうつむいたテーラが言った。
「賛成してくれなかったんだろう?」
「…うん。でももうすぐ貴方の市民権が得られる。そうすれば両親もきっと——」
「そうすれば王は次の被検体を用意する。つまりモールスが、ここに残る」
 モールスを撫でながら言うと、テーラは言葉を失くした。この研究所から出るのは一人だけ。自分がテーラと出るか、自分が残ってテーラにこの子を連れていってもらうかだ。いや、王は自分はまだしも、モールスに市民権は認めないだろう。
 テーラのおかげで孤独の苦しみと、その乗り越え方を知った。弟を放って自分だけ幸せになろうなどと、自分で許せぬ愚行だ。
「僕は弟の傍にいる。少なくとも絶対に独りにはしない。だからせめて僕とこの子が別れるときは、君がこの子を守ってほしい」
「リト、この子を弟って呼ぶのは…」
「弟だ。さもなくばそれ以上の存在だ。誰にも禁じさせない。王であってもだ」
「…そう、ごめんなさい」
 遠くで鐘が鳴った。面会終了の時間だ。
「それじゃあ、また明日だ。じゃあねモールス」
 立ち上がり、小さなモールスをテーラに託そうとすると、モールスがぐずった。空まで響きそうな声で泣き、必死に袖にしがみ付く。
 モールスとは生まれた頃から傍にいた。この子は感情の無いまま生まれた自分と違い、最初から“寂しさ”を持っている。ずっと傍にいた自分のせいだ。だが許してくれ。僕だってお前がいないと寂しいんだ。
 テーラがモールスを抱きかかえ、ゆっくりモールスの指をほどいた。
「すまない」
 思わず言ってしまった。また寂しい思いをさせてしまうモールスに対してか、それとも泣きじゃくるモールスを引き剝がさせてしまったテーラに言ったのか、自分でも分からなかった。
「…ほら見て、モールス」
 指を吹いて音を鳴らし、赤い烏の精霊を呼び出した。空中を舞うそれは、モールスの目の前をふわふわと舞った。モールスは泣くのを忘れて、澄んだ空色の瞳でその精霊を見た。赤いふわふわに目を奪われ、モールスは破顔の笑みを浮かべ、それを掴もうと小さく丸い指を伸ばした。
——その子が寂しくないように、傍にいてくれ。
 胸の内で願った。できれば自分が傍にいたかった。だが自分と第二被検体モールスとの接触は王の琴線に触れる。モールスが精霊に気を取られているうちに、モールスに背を向けた。
 その時だった。モールスが覚えたての言葉を発したのだ。
「ソリス!(おひさま)」


 気が付けば暗い結晶の通路に戻っていた。
『大丈夫かモールス!?』
 兄の声だ。足がふらつき、結晶で尖った壁に手をついて立ち直した。
「兄さん、今のは?」
『今のって?』
「義姉さんに抱かれた僕を見た。たぶん小さい頃の、それで目線は、おそらく兄さんの目線から見てた」
『それは、ああそうか』
 兄の声が弱まった。何か言いにくい事があるようだ。
「他人の記憶を覗き見ることは初めてじゃないんだ。今のは兄さんの記憶、だよね?」
『あ、ああ。そうだよ』
 小さな驚きが混じった声だが、兄の心の内にはもっと重大な何かが刺さっているようだ。それもそうだろう。無機物の通路に人の記憶が漂っているなどありえない。
『もしできるなら目を隠した方がいい。今の記憶は目を塞げば防げる』
 精霊の呪いみたいだね。そう言いかけたが、兄を傷つけそうだったのでやめた。だがきっとそうなのだろう。これが精霊の呪いの正体だ。
「僕と兄さんは年の離れた双子みたいなものでしょ?体のつくりが同じなら、魂の霊的構造もきっと似ている。だから目を隠さなくても大丈夫だよ」
『だといいけどね』
 自分以外の霊が目から侵入し、宿主の魂を侵す。そして自分の霊と他者の霊が混在し、一つの魂に複数の自我が内在することになる。その結果、モールスは自分の魂で自分以外の記憶や景色を見ることができる。
霊的な記憶や、精霊の見る景色。双霊の術や記憶結晶の解読など、精霊術と重なる点が多い。精霊術はまるで、安全に呪われているようなものだ。
だとしたら今の兄は?なぜ兄の記憶を見て呪いの本質や精霊術の正体を知ったのか?簡単だ。はっきり認識したのは兄の見た景色だが、同時に兄の無意識にある精霊への理解をも頭に入ったのだ。
では何故、兄の記憶が突然頭に入って来たのか?そういえば兄の姿が無いのに声だけが頭に聞こえる。これは精霊術の一種だろう。トスや義姉には聞こえず、モールスにだけこの声が聞こえるのはつまりそう言うことだ。
「兄さんは、どこにいるの?」
『この通路の先だ。でももう僕は——』
「嘘だ。兄さんの魂はこの通路に、いや、王都に漂ってるんでしょ?」
 答えは無かった。声も無ければ心の揺らぎも感じない。
『霊魂はそうかもしれない。だが肉体は生きている。肉体と霊魂のどちらが“僕”に当たるのか分からないけど、分かれているとはいえその通路の先にいる』
「どういうこと?」
『生き物の血肉は霊素を非常に豊富に含む。だから精霊たちは人の肉体に集まろうとするんだ』
 岩石や植物はもちろん、野生動物も呪われることが無い。しかし人間や人間の生活サイクルに属する家畜たちは精霊に呪われる。これは体内の霊素が関係しているとのことだ。
『特に精霊は人間を好む。それは、人間が自分たちと精霊とを区別しているからだ』
 通路を進むごとに、兄の声が明瞭になってきた。まるで記憶を思い出すように兄の声を聞いていたが、もう今はどこかで兄が喋っているようにはっきり聞こえる。そして通路の結晶も岩のように逞しくなってきた。もう石の肌はどこにもなく、結晶でできた蛇の体内を進んでいるようだ。表面の粗い床や天井、壁が結晶灯の光を砕いて反射している。
 腫瘍のように結晶が膨らみ、通路が狭くなっていく。苦労しながら歩きつつなんとか歩みを進めるうち、空気が変わった。広い場所に出たのだ。
 胃の底が重く、絶えず誰かに胸や腹のあたりを触られているような不快感があった。霊気の流れが激しい。命を他人に掻き回される不快感だ。
 足がふらついてきた。耐えかねて膝をつく。
『モールス、立て!そこにいてはいけない!』
 兄の声がした。だが精霊の命の奔流に紛れ込むその声は、いつの間にか雑音のひとつになっていた。より多くの声がモールスの心臓に流れ込む。また意識が遠のいた。


 誰かがドアをノックした。同時に弟と会えるのだと期待したが、すぐにその期待を自分で殺した。「どうぞ」と返すと、入って来たのはテーラ一人だ。
 王都の各所で受霊者の報告が増えていく中、リトとモールスの接触は禁じられた。ましてや自由に外に出ることさえままならず、観察の必要が無くなったテーラはこうしてメンタルケアに足を運んでいる。
「モールスはどうしてる?」
「貴方に会いたがってる。ずっと泣いてて、私があやしても泣き止まないの」
「じゃあ会わせろ。すぐに」
 自分の語調の激しさに驚いた。だがテーラは冷静なまま、というより曇ったまま動じない。
「コイン陛下が貴方とモールスくんとの接触を危険視している。極秘の計画とはいえ、貴方たちを知っている学者たちの中には貴方たちの殺処分を求める声も上がり始めてるわ」
「だからなんだ。もう一週間も会ってない」
「お願い、こらえて。このままだと犠牲者が——」
「あの子を不安にさせるなと言っているんだ!」
 自分でも信じられないほど大きな声が出た。おそらくこれほど声を荒げることは生涯無いだろう。それでも続けた。
「あの子が不安になるほど精霊との結びつきが強くなる。そうすると精霊と人との境界が曖昧になって人が呪われやすくなる。モールスと会わせてくれ。僕があの子を安心させるんだ」
 低い声に力を籠めてテーラに迫った。だがテーラは臆さなかった。代わりに明確な答えを返した。
「モールスくんは厳重に監視されてるの。鉄で囲まれた地下室に閉じ込められて、あらゆる精霊との接触を断っている。会いに行くことはできない。私の権限でも無理」
「関係ない。無理やりでも行ってやる」
「言ったでしょ!貴方達を殺処分したいと思っている人たちがいる。彼らからしたら、無理やりモールスくんと接触しようとする貴方を止める口実で殺そうとする絶好の機会になる。精霊を拒絶する部屋にモールスくんを閉じ込めているのも、貴方に精霊術を使わせないため。貴方が陛下に協力すれば、正しい手段で二人とも救われる。だから今だけこらえて」
「正しい手段?誰のための正しさだよ?」
 テーラは言葉に詰まった。
「知っているぞ。王は西の地に避難所を作り、自分と自分を支持する有力者や民衆を優先的に避難させるつもりだ。僕たちを助けようと思っていない」
 テーラは何も言わず俯いた。そうだ。我々兄弟は他者から“生きる意味”を伴って与えられた命だ。つまり誰かの都合で殺される。それを正当化するための“正しい手段”なら、むしろ反する方が命の道理だ。窓の外の空は朝日を迎えていた。
「おい、まだ話しているのか?そろそろ面会が終わるぞ」
 廊下の職員が声をかけて部屋に入って来た。テーラを呼び戻すのだ。お前たちに何の道理があって僕から家族を二人も奪う。お前たちに作られた命で、お前たちに“人の道理”を見せてやる。
「動くな!」
 そう叫んだのは職員の方だった。
 リトは銀の剣を抜き、テーラを引き寄せて首に当てた。テーラは驚いていたが、叫ばなかった。自分には精霊術用の剣、テーラも腰に剣を提げており、しかし職員は丸腰だ。そのままテーラを人質にとる姿勢でリトは部屋を出て、廊下を駆けた。
 背後で職員の叫び声が聞こえた。それでも走り続けた。左手でテーラの服を掴み、右手で剣を振って精霊を呼んだ。赤く輝く烏の姿の精霊だ。
——双霊の術。
 赤く羽ばたく精霊を自分の内に溶かした。見える世界に人ならぬ輝きが加わった。外部から生命熱を取り入れ、命の感覚を目覚めさせる。そうすることで人の枠を超えた生命力を得て、肉体の運動が一時的に強化されつつ、本来感じ取れない感覚が敏感になる。心臓の数だけ霊気があるなか、ただ一か所だけ霊気の途切れがある。
 すぐそっちに行くぞ、モールス。
 リトは剣を振りながら通路を駆け、精霊の歌を奏でながらテーラを連れて走った。テーラがいれば研究所の者たちも衛兵も手出しできない。それにモールスには彼女が必要だ。
「リト、どうしたの!?」
 テーラが息切れしながら言った。リトは答えなかった。これはリトの弟に対する最大の庇護であり、同時に最愛の相手を自分のために私物化した瞬間でもあるのだ。もはや自分を正当化する気も無く、ゆえに言い逃れなどしない。ずっと黙っていようと思っていた。兄が弟を想って何が悪い。せめて裏切る相手は自分で決める。王よ、おのれの野望しか頭にないお前にはできないことだ。
「止まってリト、地下室に行ってはダメ!」
 地下室へ続く一階へ降りたあたりで、双霊の術が解かれた。耳を切り裂かれる様な金属音だ。扉の前で待ち構えている二人の兵士が鉄の鐘を鳴らした。金属音で精霊術が解けかけた。だが、引き裂かれた魂をその空間に叩きつけ、乱れた霊気が拡散した。それが精霊酔いを起こし、兵士や近くの者たちが皆倒れた。
「リト…」
 精霊酔いを受けたテーラが、消えかけの意識の中で名を呼んだ。その声を聞き流し、倒れている兵から鍵を取り出した。ここから先にモールスがいる。しかし精霊を連れていくことはできない。だが、弟を守る存在は必要だ。
「…テーラ」


 景色が途切れた。モールスは目を開けたが、見える景色は異常だった。無数の光の粒が水流のように広い空間を流れ、石と結晶の入り混じる異質で歪な空間を浮き上がらせていた。ドーム型の石の地下空間は大小さまざまな霊素結晶に石の壁を覆われ、本来の姿を失っているように思えた。そのドームの中央の、床と天井を繋ぐ一本の巨大な結晶の柱があった。さながら木の幹のように、床と天井に結晶が広がって地下室を支えている。
 その結晶の中心にいる人物と、目が合った。
『大きくなったな、モールス』
 モールスの口からその言葉が出た。それをモールスは疑わなかった。何故ならこの光の景色は双霊の術の反作用、つまりモールスは自分の意志で覚醒していない。精霊と近い存在になった兄の霊魂がモールスと双霊し、この体を動かしている。自他の境界が曖昧だが、そもそもモールスと兄は体が全く同じ構造をしており、初めから差異などない。ほぼ同じ体で、しかし別物の魂を受け入れている。ゆえにこれは呪いに満たない、別の何かだ。
『こっちに来て、終わらせるんだ。お前を、精霊遣いではなく、一人の人間にする』
 自分の喉から出た兄の声に従い、モールスは一歩ずつ進む。兄が喋るたびに、兄の記憶が新しい順に頭に流れてくる。
 結晶に閉じ込められる体。その前はテーラがモールスを抱えて地下室を出る。その前は自分の指輪をモールスの指に託す。その前は一人で泣きじゃくるモールスを抱き上げる。その記憶が最も温かく、自分で自分を心から許せる時だった。
「兄さん」
 結晶の中にいるのは、十年前から老いていない兄、リトだ。十年前のリトは、今のモールスと同じ年の頃に見える。眠っているようなその表情は、生きているとも死んでいるとも見えない。人というより物体に近い。これが呪いの究極だろうか?
「兄さん、ずっとここに精霊を引き留めていたんだね」
 兄はずっと自らを呪い続け、雲の下の生き残りたちを少しでも精霊から遠ざけようとしていた。国の中央に高密度の霊素結晶を作り、精霊が国の中央に集まるようにしたのだ。まさに人を中に込めた柱を作り、国を守っていたのだ。しかし全ての精霊を留めることはできなかったが、国の辺境の霊気を薄くすることはできていた。
『モールス、お前に霊名を授ける。そうすれば人類と精霊の影響力は等しくなり、人間も精霊の呪いに対抗できる。だがお前に頼みたいのは別のことだ』
「何をするの?」
 このときモールスとリトは一言も口を開いていない。全ての会話がモールスの魂の中で完結しているのだ。
『精霊の排除、全人類から精霊を剥奪する』
「え?」
『僕の魂は精霊の世界に属している。そしてお前の魂は人間の世界に属している。僕とお前の両方でそれぞれの世界を切り離すんだ。そうすれば人類は霊気の影響を受けず、霊素を認識することもできない。精霊の方も然りだ。この世界から、精霊の呪いが消える』
「待ってよ!そしたら兄さんはどうなるの!?」
 兄は答えなかった。しかしその代わりに胸の内に重く冷たい何かが圧し掛かった。不安と寂しさ、兄と心を共有して感じたそれは、最後の別れを示していた。
『霊名を授ける』
「待ってよ兄さん!義姉さんはどうするの!?」
 その義姉は自分のせいで呪われた。兄のせいでこの惨状に巻き込まれ、モールスのせいで呪われた。自分たちのせいで散々な目に合ってきたというのに、都合のいいときだけ守るべき存在として突き付ける。いや、自分たちは守られてばかりではないか。
「大丈夫、呪いは解けるわ」
 背後で肉声が聞こえた。温かな安堵と、重苦しい不安が同時に胸に広がった。
『テーラ!どうして!?』
 リトが声を荒げた。テーラは赤い翼を背負い、片足を引きずりながらこちらに寄ってくる。モールスは思わず駆け寄って義姉の傍に立つと、義姉の片足が崩れ、モールスに寄りかかった。
「見えたの…構造式が…」
 義姉に託したはずのソリスの気配を、義姉の中に感じる。精霊術か、それも双霊の術だろうか?それともソリスに呪われたのだろうか。
 義姉が来た通路の先に、二人の人間と一頭の獣の霊気を感じる。トスとアクシア、それにヴィアだ。彼らが義姉を連れてきたのだろうか、それともソリスと魂を共にした義姉を追ってきて、この地下通路の霊気に阻まれたのだろうか。
「義姉さん、呪いが深刻だ。精霊が義姉さんの魂に深く結びついているんでしょ?すぐに全ての呪いを解くから、義姉さんは…」
「でも、ためらってるんでしょ?」
 義姉が潰れた目でこちらを見て、小さく笑った。
「どうして…?」
「だって貴方達、二人とも、お互いを、あんなに大事に、思ってたから——」
 義姉が咳き込んだ。気管支まで結晶に侵食されている。もう永くない。モールスはテーラを寝かせた。
「聞いて、モールスくん。今、わたしの頭に、記憶結晶ができている。この記憶の中にある魂の構造式を使えば、人間の、呪いを、解ける…。自分が呪われて、初めて分かった。人は病気になって、その治し方を知る。私の記憶を、思い出を使って」
「そしたら、そしたら義姉さんは…!」
 自分の頬に熱い涙を感じた。義姉は呪われて、モールスと長年連れ添った精霊と一つになり、魂の構造式を理解した。精霊に触れられる錬金術師など今までいなかった。その義姉の記憶を継承すれば、人の魂と、それを侵食する精霊の魂とを分解できるという。しかし記憶結晶は、一生涯の記憶を完結させ、脳から取り出さなくてはならない。
「義姉さん、だめだ」
『テーラ!すぐ僕たちが精霊と人々を切り離す!そうすればその呪いも治る!だから——』
「リト、私たち人間は、貴方達に何をしたの?」
 リトが言葉に詰まった。
「貴方達兄弟が、本来あるべき家族の情を禁じられ、それでも、貴方は弟を守った。世界が求めても得られない、あるべき人の姿。それを、私は、守りたい」
『守りたいのは、僕も同じだ!君がいなければ僕は人の心を理解できなかった。それなのに君をひどい目に合わせた!せめて最後だけでも、弟と、君を守りたい』
「リト、貴方は、この子の、ただ一人の家族なの。かけがえのない、でも私は違う。だから、二人で幸せになって。私の、ために」
『テーラ…』
 胸の奥で何かが激しく揺れた。どうしてだ。どうして両方救う道が無いのだ。モールスは拳を握りしめた。
『モールス。こっちに来るんだ。テーラを救うぞ』
「モールスくん、ごめんね。ずっと、窮屈な思いをさせて。でもこれからは、お兄さんと二人で…」
 モールスは心臓が押しつぶされそうな圧迫感を感じた。兄に従い、この世から精霊を失くしてすべての呪いを解くか、あるいは義姉に従い、呪いに対する治療法を得るか。
 兄も、義姉も、モールスにとっては捨てがたい半身だ。世界のために、どちらかを失わなければならない。兄に従えば全ての呪いを解き、そして呪いの再発をも防げるだろう。兄を失い、そして自分も精霊遣いとしての生き方を失う。だが義姉がいれば、きっと大丈夫だろう。そして義姉に従えば、兄とともに国中の精霊遣いに治療法を伝え、誰しもが呪われても治る術を獲得する、いわゆる集団免疫を得る。
 どちらも救われる人の数は同じ。しかしモールスは、家族のどちらか片方を失う。
 決められない。だが義姉の呪いは少しずつ進行していく。モールスは涙が更に溢れた。兄か、義姉か、どちらを失うか決めなければならない。息を吸って虚無を胸に満たした。ポケットから、お守りの錆びた硬貨コインを取り出した。本当は自分で選ぶべきなのだろう。だが人類が、いや、初代コイン王がこれを発明したのは、きっとこういう時のためだ。決め難きを選び決めるとき、一人の決心にはあまりにも過ぎた決断を下し、その先を進むとき、これを投げて決めたのだ。モールスは硬貨コインの表裏に運命を託し、宙に投げた。


——完——

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