盗まれた"霧の朝"
—霧の朝—その名を冠する名酒があるという。
いつしか権力者や富豪たちの間で流行り、持っているだけでステータスとなる逸品であるという。その酒の蔵元は誰も知らず、買える店も誰も知らない。しかしそれを手にした者がそれを他者に振舞えば比類なき至上の心地をもたらすことができる。いわば、この国の選ばれた有力者の、この上なきもてなしと、それによる信頼を得ることができるのだという。
「誰もかれもそれを求め、こぞって競り合ったものです。商談の約束に”朝の霧”を差し出す者や、詫びの証に一瓶の”朝の霧”を相手に送る者など——、一時は偽物も出回るほどでした。かくいう私も——」
「つまりご要望は?」
二人の少年の片方が男の話を遮った。男はこの町一番の富豪であった。男はある依頼のために探偵の少年と、商人の少年の二人を雇った。この三名は今、絢爛な応接室で仕事の話をしている。
「——ここ最近、”霧の朝”の流通量が減っているのです。つまり、供給量が減っているのですよ。有力者たちは皆怯えています。これまでの至上の社交が行えないのです。そこで、いち早く”霧の朝”の出所を探り当て、見事供給を回復できれば、私の失われた面子もきっと取り戻せましょう!そこで、お二人にはかの酒の出所を探っていただきたい。無論、相応の報酬をお支払いしますので、何卒」
男は二人の少年に深々と頭を下げた。
探偵の少年は言った。
「まずはモノを見せてもらおうか」
すると男は一つの瓶を机に置いた。透明だが重厚感があり、中身もやはり透き通っており、瓶の向こうにいる男の姿が見えるほどだ。透明な瓶には一枚のラベル—霧の朝—と書かれたそれが一枚貼ってあるのみだ。
瓶の中身はもうすぐで半分まで無くなりそうである。大きい瓶ではないが、どれだけの人間に振舞ってきたのだろうか。
「少量で結構ですので、サンプルとして少し分けていただきたい」
商人の少年が言うと、男は狼狽した。もう入手できないかもしれない幻の酒、その一片を差し出すべきか躊躇っているのだ。商人の少年はため息を隠して言った。
「僕の報酬の半分でお借りします。この小瓶程度で構いません。捜査のためですので、どうか」
そう言って商人の少年が差し出した空の小瓶は、大人の小指ほどの大きさだった。
「これっぽっちを渋るとか、器の小せぇおっさんだな」
月が昇る夜道、二人は歩いていた。探偵の少年が嗤うのを、商人の少年が諫める。
「言うなよリュウ。近づいてきたよ」
商人の少年は辿っていた。小瓶一杯分のサンプルでも、その正体から辿れるのだ。少年が用意した小瓶は特殊な振動数をもっており、内容物の振動数を拡張する。この酒は、酒ではない。
「ここだ。ここを、懐かしんでいる」
「よし、探してみるわ」
探偵の少年は特殊な感覚を有している。”彼ら”が発する熱、音、振動、心情の揺らぎ。それらを敏感に感じ取る。少年は目を閉じ、肌で熱の出所を探った。すると、人ならぬ熱の揺れを見つけた。
「そこの橋の上だ」
目を開けると、少年の目には蜃気楼に似た部屋が見えた。橋の上に一部屋の蜃気楼、部屋の住人は一人の女性。姿は大人びて、しかし心の揺れは少女のようだ。
「行ってくる」
「ヤバかったら引き戻すぜ。行ってこい」
商人の少年はハットを被ってそこに歩を進めた。商人の少年は”侵入”の、探偵の少年は”脱出”のスペシャリストである。
上下も左右も前後もあやふやな深い霧のような空間に少年はいた。景色も音もなく、感じる情報がなにも無い。ゆえに誰かの遺した心情だけが心に染みてくる。この空間の持ち主、橋の上で見たあの女性の感情の澱みの中を、少年は歩いている。
この国の権力者、有力者たちの間に出回っている”霧の朝”と呼ばれる酒、これは酒ではない。この女性のとある感情である。その何らかの感情が零れだしては滞留し、この場所にとどまっているのである。
感情は思い出に起因し、思い出は所縁ある土地にこそ根付きやすい。
ゆえにこの女性のとある感情、その起因となる思い出の場所がこの橋なのだ。
『お探ししました』
少年が胸の内で声をかけると、眉間に糸で撫でられるような感触がした。彼女の気を引いたようだ。
『そのお気持ちは元の持ち主の心の中にこそあるべきです。貴女の持ち主をお探しするお手伝いをいたしましょう』
少年は誰かの”感情”にそう言うと、それは頷いた。姿なき彼女はきっとこの霧のような空間—この誰かの感情—の持ち主であろう。
少年は空の瓶を取り出すと、瓶は静かに輝きだし、前後不覚の深い霧が瓶の中に吸い込まれていった。霧を閉じ込めた瓶は、依頼人の男が見せた透明の瓶とそっくりである。
こんなにも透き通っている純粋な想いが取引や接待に使われているのだ。到底、見過ごせる話ではない。少年は瓶に念を込め、中にある感情を、持ち主に返した。
瓶の中のそれは一筋の光となり、天へ向かって真っすぐ飛んだ後、緩やかな曲線を描いて東の空へ消えていった。あの感情は思い出を道しるべに、持ち主の胸の奥へ帰ったのだ。
飛んで行った光の先から、朝が昇る。
「おうおっちゃん。依頼失敗だぜ」
探偵の少年が言うと、依頼人の男は首を振った。
「いえいえとんでもない。瓶の中の酒は何故か煙のように突然消えましたが、聞くところによると他の持ち主にも同様のことが起きたようです。しかし、なにやら頭の中の霧が晴れたような、見えない枷が下りたような爽やかな心地です。きっとお二人のおかげなのでしょう。約束通り報酬をお支払いいたします」
男は言うと、厚い封筒を二つ、少年たちに差し出した。厚みは同じ。つまり商人の少年の報酬から小瓶の料金は抜かれていない。探偵の少年は彼を器が小さいと称していたが、見えない枷とやらが下りたことで心のありようが変わったのだろう。
「報酬、思ったより多かったな。飯行こうぜバヤシ」
「なぁ、リュウ」
商人の少年が相棒に言った。
「あの酒の正体が誰かの大切な感情だった。純粋で温かく、どこか懐かしい感情。あの感情はおそらく誰かの強い”郷愁”だとおもう。飲んで取り込めば懐かしさの追体験、つまりノスタルジーに浸って心地よくなる。嗜好品としては上級品で、市場では決して出回らない」
「ああ、買おうと思って買える代物じゃあねぇ」
「じゃあどうしてピンポイントで権力者や富豪、影響力や財力を持っている人たちの手に渡っているんだろう。そして急に供給をやめたのは?」
「悪質なセールスだな。優良顧客相手に無料サンプルで購買意欲を高め、供給を止めることで需要を引き上げ、高値で売ろうとしてた。って図が見えたぜ」
「だとしたら許せないことが二つだ。一つ、お客様相手に需要を操作し、自分だけに有利になるよう仕向けた極めて身勝手で悪質な販売戦略により商売人の看板を汚した罪。二つ、あれほど美しい心を、盗んで売り物にした罪」
「やっぱ盗品か」
「あの心が空に帰っていくのを見たろ?持ち主へ一直線に飛んで行った。盗まれた感情だったんだ。それにあの感情を呼び起こす思い出、情報量の重さからして特定の出来事じゃない。彼女はあの橋の上を日常的に懐かしむほど、心に残る時間が習慣化していた。最もその反応が強いのが朝だというのを考えると——」
「ひゅーう。毎朝誰かと待ち合わせしてたのかな」
「その線が濃厚だ」
「甘酸っぱい大切な感情を盗んで売り物にされた。外道だな。さて、どうする?バヤシ」
「業界の健全化は僕ら”常識ある”担い手の責務だ。外道者はおとなしく外道に帰していただこう」
常識あってもお前は常識無視してるだろ。相棒の少年は言った。
「人探しは任せろ。お前の商売はいつも面白れぇからな」
「その前に腹ごしらえだ。次は君が店を選ぶ番だ、リュウ」
K市の朝は霧を晴らした。