瓶を売る男 第一話~雨と友~ 4/8
野木
四時限目が終わり、昼休みのチャイムが鳴った。教師が退出するや否や、生徒たちは各々の机を動かして島を作り、昼食を摂っている。
以前なら坂上と一緒に昼食を摂っていた。彼がいないのは単にクラスが別になったからではない。坂上の性格ならわざわざ弁当箱を持ってきて空いた椅子に座って一緒に食事するはずだ。もう今は廊下ですれ違っても目をそらすようになった。そして今まさに、孤独の最中にいる。
窓の外の天気が悪い。雨の予報だったが、曇天が濃さを増し、黒い雲が現れはじめた。今日は雷雨だろうか。帰り道に靴も荷物も激しく濡れそうだ。ため息をこぼしながら、野木は一人で弁当箱を開けた。
たった一人親友を失っただけで、これほど冷たい孤独感を胸に抱くことになろうとは。そうだと知っていればあの日の言動は違っただろう。ああ、戻れるならあの日に戻りたい。
野木は幼いころから内気で、一人で何か行動をするという事が苦手だった。自分の行いに自信が持てず、新しい挑戦や意見の主張も苦手だった。
しかし坂上は真逆の性格をしていた。野木ができぬと諦めていたことを恐れずに挑み、野木の言うことや成すことをすべて受け止めてくれる。坂上は自分を嗤わないし、自分一人ではできないことに力を貸してくれる。時には言葉で励ましてくれる。
坂上ならこうするだろう。坂上ならこう考えるだろう。それを想うことで、いつしか野木は己の過剰なまでの卑屈を払拭していた。坂上の人柄は野木の勇気となっていた。
今年の四月、始業式前、旧二年生はかつての自分たちの教室に集まる。野木と坂上は同じクラスだったが、配られたプリントにはそれぞれ違うクラスに分けられていた。坂上とは小学校からの付き合いであるため、別クラスになることは初めてではない。中学最後も別のクラスになることは何とも思っていなかった。
野木はその時まで、坂上は自分と同じ市立高校に進むと思っていた。だが、どうやら違った。
——悪い、俺K高に行くんだ。
クラス替えの帰り道で、坂上にそう言われた。
中学に上がってからずっと通った道に、一本の川がある。その川には橋が架けられ、その橋がふたりの分かれ道だった。二車線で歩道は片側にしかない小さな橋、並木の桜は散っていた。
——そっか、K高って距離あったな。もしかして引っ越す?
——引っ越すか、寮に入るかも。
——そっか。じゃあ会いにくくなるな。
野木は嘆息を隠しながら言うと、坂上は信じられぬ言葉が返ってきた。
——いや、お前も来ればいいだろ。
思わず野木は足を止めて絶句した。K高は学費が高く、野木の家では三年も払えない額だ。それをこんなにも軽々しく誘うとは、あまりにも自分本位すぎやしないか?
——俺は無理だよ。お前じゃあるまいし。
野木の言い方と、言葉選びが悪かった自覚はある。だが坂上は思っていた以上の義憤を露にした。
——どういうことだよ。俺じゃあるまいって。
——だから、お前んちみたいに学校選べる余裕が無いってことだよ。
——俺が、家の金だけでK高に行くって言うのかよ。
——違うのかよ。
双方の声が徐々に低く震え始める。橋に差し掛かるところでお互い立ち止まった。この橋で別れれば、きっともうすれ違うこともないだろう。そんな冷たい予感が腹の底に沈んでいた。だが口から出た言葉が戻らない。一度堰を切られた怒りは胸の内を焦がし続けた。この男に蔑ろにされ、そして軽んじられた。頭より心で強くそう感じたのだ。
目の前の人間が、親友に見えなくなった。
——知らないくせに。
——それはお前の方だろ。
坂上が何か言い返そうとしたとき、気付けば野木の方が先に橋を渡っていた。坂上は呼び止めもしなかった。ああそうか。お前はこれでいいんだな。少なくともお前が謝る気は無いんだな。じゃあそれでいい。俺たちはきっとここまでだ。クラスが別で良かったな。
胸の内にこみ上げ続ける悪態を封じながら大股で橋を渡った。坂上の方を振り返りはしなかった。今思えば、振り返るのが怖かったのだ。謝るのが怖かった。時間がたつほどにこちらから謝るのが難しくなる。心を共にしたはずの親友が信じられぬほど凶悪に見えた。坂上以上の敵はいない。坂上に相対してはならない。過剰なまでの敵対意識は、紛れもなく己の臆病によるものだ。
あの日、すぐさま謝ればよかったのだ。言葉を正し頭を下げるならあの時が最も心の負担が軽く、効果的だったはずだ。火種が小さいうちにこちらから謝るべきだった。日を増すごとに謝りづらくなる。この気持ちが何故あの時に生じなかったのか。
あの日に戻ってやり直したい。些細な食い違いで先に怒りを露にしたのはこちらだ。たとえ許されなくても、いや、許されるまで謝りたい。せめて己の咎を正したい。これは野木の独りよがりかもしれないが、坂上の方も自分と同じように苦しんでいるのだとすれば、なんとしても今の仲違いを終わらせたかった。たとえ、自分が坂上の視野から消え失せることになってでも。
野木は手を洗おうと教室を出た。はやく謝りたいと思いながら、しかし坂上の教室の前を避けて通った。
「あの、すみません」
廊下を歩いていた時、後ろから声をかけられた。振り返ると、学ランを着た小柄な少年がいた。顔立ちがどこか少女的で、学ランが出なければ女子かと思うほどだ。上履きの色からして一年生だ。
「三年の野木さんですか?」
「そうだけど、どうしたの?」
少年は紙で包装された小さな箱をこちらに渡した。そのときスーツを着た男が瓶を持って背後に音もなく立ったことに、野木は全く気付かなかった。
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