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COIN~コイン~1-1(起) 精霊少年

 ある男が国を興し、王となった。その王は金属を練り上げ、精霊と言葉を交わし、結晶を作った。
 その国は、滅んだ。精霊の呪いによって滅んだ。王は民を率いて西に逃げ、瓶の街を築いて閉じ籠った。
 かつて国だったそこは荒れ果て、呪いが彷徨い、しかし、わずかな生き残りが今も暮らしている。
 ある男が国を興し、王となった。その王は自らの名を国に与え、コイン王国と名付けた。

COIN~コイン~1-1(起) 精霊少年
著:増長 晃


 精霊は眠らない。モールスは眠りの中でも彼らと話していた。深い水中にいる心地だった。やがて日が昇り、モールスは目覚めた。かつてコイン王国の領土だった広い荒野は、今は紫の厚い雲の下にある。精霊が跋扈する“霊域”だ。
 モールスは座禅を解き、リュックを背負って立ち上がって体をほぐした。モールスは十二歳の少年で、精霊と言葉を交わし、使役する“精霊遣い”の一人である。
 精霊遣いはその身に一切の金属を身に着けてはならず、服もなるべく自然に近い形をしている。モールスは青い無地のチュニックを着て、歩きやすさを重視したズボンと底の厚い靴を履いている。左の腰には剣を差し、左手の中指に指輪を着けている。短い黒髪は、義姉に切り揃えてもらった。
 モールスは周囲を見渡した。“受霊者”の姿は無く、曇天に広がる白い光に鳥の群れがちらりと見えるばかりである。この辺りには木も水も無ければ、獣もいない。
 日が昇ることで精霊たちの活動が昼型に変わった。水筒の水もわずかになり、空腹を感じてきた。重い瞼に抗いながら、モールスは帰路につくことにした。
 するとどこかから、烏の声がした。
「ソリス!」
 モールスがソリスと呼んだそれは、少年の差し出した左腕に停まった。不確かな輪郭は烏の形をしており、長く尖った嘴で器用に羽繕いをしている。蜃気楼のように揺らめき、夕焼けのように—モールスは本物の夕焼けを見たことが無いが—赤く光っている。
 これはモールスが召喚した精霊だ。モールスが眠っている間、この周囲の霊気を鎮めていた。
 烏の精霊は、精霊医学において【火】の性質をもち、つまり、「浄化」や「正常な代謝」を意味する。モールスはこの精霊を使って。霊気の乱れを落ち着かせ、人に害が及ばないように整えていた。
「じゃあ帰ろうか。義姉さんが待ってる」
 モールスがそう言うと、応えるようにソリスはこちらを見つめた。モールスは左腕を振り上げてソリスを空に飛ばした。宙に羽ばたいた精霊は、そのまま空気に溶けるように消えていった。精霊とはそういうものだ。本来認識できるものではなく、定まった姿を見せるのはほんの一時に過ぎない。
 再び訪れた静寂と孤独の中でモールスは深く息を吐き、左手の指輪に念を込めた。すると、指輪にはめられていた赤い結晶が光り、その光は一筋の線となって西に伸びた。この光の線の先に、帰るべき場所、帰りを待ってくれる人がいる。
 この指輪は二つで一対だ。片方はモールスが持ち、もう片方はモールスの義姉が持っている。モールスの指輪が光ったことで、義姉が持つ指輪も呼応して光っただろう。モールスにとっては帰路の道標で、義姉にとっては、モールスが帰還する知らせである。その知らせが義姉にとっては吉報であり、義姉の喜びはモールスの喜びである。
しかしモールスはその喜びの反面、それと同等の寂しさもある。この指輪は元々、兄と義姉との結婚指輪なのだ。


 その集落は“コロニー”と呼ばれ、精霊の呪いから逃れて人々が暮らすことにできる領域である。そこはファスティスという特殊な花で囲まれ、悪しき精霊が入ってこないようにしている。そういったコロニーが、この地にいくつも点在している。
 一分の隙も無い大量のファスティスの囲いに、一筋だけの道が伸び、その道の脇を鉢植えされたファスティスが並んでいる。その通り道の先に扉の無い門がある。モールスはそれをくぐり、村に戻った。
 この村には老人が多い。ゆえに、皆早起きである。そして老人というものは集まるほど声が大きくなるものだ。村は朝日が昇りたてという時刻でもすでに老人たちの笑い声や話声で満ちていた。ある者は畑へ向かい、ある者は道具作りに勤しんでいた。そうだ。報告をしに行こう。
 モールスは村の中央にある村長の家を目指した。
 村長の家は屋根も壁も穴だらけで、息をするだけで崩れそうな家だった。その家には老いた村長と、三人の壮年の男が住んでいた。男たちは“結晶団”の一員だ。結晶団とは、コロニー、つまりこの世界の生き残りの集落の存続のために、コロニー内外問わず生命線を保ってくれる組織である。
 結晶団の目標は、「青空の奪還」。国が亡ぶ前の、霊禍に襲われる前の、呪いの無い自由な世界を目指しているのだ。
 コロニーの外の、霊域に出れば人々はたちまち呪われてしまう。自由にコロニーの外に出ることができないのだ。彼らはその不自由を脱却するべく、そして霊域に囚われた生き残りたちのために活動している。
「おお、モールスよ。帰ってきたか」
 村長はモールスを見て言った。壁に大きな穴があるので、ドアをノックする前に気付かれる。
 モールスは頭を下げて家に入った。
「この辺りの霊気を鎮めてきました。結晶団もこの近辺なら歩けると思います」
「そうか、助かるよ。この近辺を鳩(コルン)が通る予定なんだ。ありがとう」
 結晶団の男がモールスに礼を言った。鳩(コルン)とは、結晶団の中の組織で、霊域を歩く集団である。なぜ危険な霊域を歩くかと言うと、コロニーと他のコロニーの間を行き来し、物を運ぶための集団だからである。ひとつのコロニーは独立して生きていけない。足りない物を他の場所から補う必要がある。
例えばこのコロニーは水が潤沢なため作物をたくさん作れるが、木材が足りない。なのでこのコロニーで作った麦を、森林に近いコロニーに持っていき、木材と交換するという貿易が行われている。
 そこで麦と木材を運ぶため、結晶団の鳩(コルン)という組織の出番である。彼らは呪いから身を守る特殊な対策をしており、霊域を渡り歩く。しかし危険性が皆無というわけではない。比較的霊気の弱い場所を進路として選び、どうしても呪いのリスクの高いルートは通れない。そこでモールスが霊気を鎮めることで、呪いのリスクを減らすのだ。そうすれば鳩(コルン)が通れる道が増え、コロニー同士の交流が活性化し、コロニーが豊かになる。
精霊遣いとして、重要な仕事だ。
「これはお礼だ。本当に助かったよ」
 男がモールスに小さな袋を差し出した。中には紫色の結晶の欠片がいくつも入っていた。嬉しい重さだ。
 王国が崩壊し、貨幣経済は死んだ。今ではこの結晶が貨幣の代わりだ。これだけの量があれば、牛を一頭買える。
「それじゃあ。僕はこれで」
 モールスは一礼して、家を出た。水筒の水を飲み干し、義姉のいる小屋を目指した。この村で数少ない、屋根と壁のある小屋だ。
 小屋の扉を開け、中に入った。曇天のせいで朝日は薄暗く、小屋の中はもっと暗い。しかし結晶団がもってきた“結晶灯”という特殊な光源のおかげで、中は明るかった。結晶灯が灯っているということは、小屋の主はもう目覚めている。
「あ、モールスくん!おかえり!」
 長い銀髪の女性がモールスを迎えた。彼女は朝食の支度をしていた。肩を少し越える長い銀の髪を一つ結びで整え、青いローブを身に着け、革のサンダルを履いている。ローブは錬金術師の正装だという。
 彼女はコイン王国の錬金術師、モールスの義姉、テーラだ。
「疲れたでしょ。ご飯できたから好きな時に食べてね。それとも先に寝る?」
 今朝の朝食はパンにソースをかけたものと、トマトのスープのようだ。ソースはテーラが錬金術で作り、村の皆と分け合ったものだ。精霊遣いのモールスと、錬金術師のテーラはこの村で重宝されている。
 食器はテーブルに二人分あるが、しかし棚にもう一人分あるはずだ。もう長いこと使われていない、兄の食器だ。
「外で寝てきたから大丈夫。それにお腹空いた」
「そう、じゃあ一緒に食べましょうね」
 モールスとテーラは共に席に着き、朝食を摂った。野外の早朝は寒く、温かい朝食は実にありがたく。味もさながら、温かさが染みわたり、そんな幸福を一口ずつ飲み込んでいった。
「あの、これ」
 モールスはテーブルの上に、結晶団から貰った報酬の袋を置いた。テーラは中身を検めると、笑みを零した。
「すごいわねぇ、たくさんもらって。モールスくん頑張ったもんね!」
「あ、うん」
 エメラルド色の瞳を輝かせてテーラが労うので、モールスは気恥ずかしくなった。するとテーラは、結晶の袋をそのまま返した。
「はい、これはモールス君が自分で好きなことに使いなさい」
「え、いいの?」
「うん、これは君が頑張った分だもん!」
 テーラに言われ、モールスは二三度迷って結晶を懐に入れた。この村は物々交換が基本で、結晶と交換できる品も、さほど豊かではない。
 それより気にしていたのはテーラのことだ。今こうしてモールスが食べているパンは、テーラの稼ぎから割かれているものだ。テーラは日が昇れば村の子供たちに勉強を教え、夕方以降は錬金術師として各地で働く。水や土の浄化。薬の精製。保存食の加工など、農村であるこの村での仕事は多く、いつ休んでいるのか分からないくらいだ。
しかしその稼ぎは独り占めせず、モールスを養うのに使う。それなのにモールスの稼いだ分はモールス自身のものだという。
子供ながらにモールスは申し訳なく思いながらも、義姉に従った。きっと兄も同じことをモールスに言うだろう。
「さて、今日は学校がおやすみだから、お姉ちゃんとゆっくりする?」
 パンをちぎってスープに漬けながら、モールスは考えた。せっかく報酬をもらったのだから、何かに使いたいとも思っていたが、特に欲しいものもない。だがモールスは外の世界に触れたいと思った。知らない世界を知りたいと思った。どこに居るか分からない兄を探すには、そうするしかないと思っていた。一刻も早く、大人にならないといけないと思っていた。
「村を散歩したいかな」
「うん。じゃあ一緒に行こうね」
 テーラはモールスにいつも付いて来たがる。過保護なのかもしれない。それともモールスと同じように、大切な人を失うのが怖いのかもしれない。モールスは兄と遠く離れ、テーラにとっては夫と遠く離れたのだ。
 テーラもモールスと同じくらい寂しい思いをしているのかもしれない。そう思うからこそ、尚更うまく義姉に甘えることができずにいた。テーラは今でこそ、その寂しさを隠すように明るく振舞っているが、兄が行方知らずとなった頃はモールスに隠れて泣いていた。モールスを見つけると涙を拭い、別人のような笑顔を見せて幼いモールスを抱いた。その笑顔と優しい抱擁に昔は安心していたが、今となっては怖くもあった。
 日に日にテーラは笑顔が増していった。彼女の心の中で、兄の存在が少しずつ減っているのではないかと心配になった。
 兄のことを忘れないで。しかし兄のことを思い出せば、テーラはまた泣いてしまうかもしれない。それが怖かった。テーラが弱っているのを見ると、モールスは息ができないほど不安になる。自分を守ってくれる人、兄の大切な人が消えてしまうのではないか。そんな不安に襲われるのだ。
 ふと、テーラに頭を撫でられて我に返った。食事の手が止まっていた。スープを吸って崩れたパンが、テーブルに落ちてシミを作っていた。
「ご、ごめんなさい」
 慌てて謝ると、テーラがモールスをそっと抱き寄せた。いつの間にかテーラはモールスの隣に座っていた。
「大丈夫。疲れてるもんね。昨日のお仕事も、引っ越してきたこの村のことも、お兄さんに会えないことも、ずーっと大変だったよね。偉いよ。二人でお兄さんを見つけて、今までの事ぜーんぶ自慢して、お兄さんにたくさん褒めてもらおうね」
 そう言ってテーラはモールスの頭を撫でた。ああ、よかった。兄に会いたい気持ちは一緒だった。同じ寂しさを共有することは、別の方法で絆を強くするのかもしれない。しかし兄が見つかり、共通の寂しさが解消されたとき、自分たちの絆はどうなるのだろうか。今モールスを抱いているこの腕は、代わりに兄を抱くだろう。
 兄に会いたい。その気持ちが揺らいだことは一度も無い。だがこの荒野でモールスの帰るべき場所、縋りたい希望である義姉が、それを分からなくした。義姉がいなければ兄を救うことはできないだろう。心細いモールスには何もできない。
 何も答えることができず、モールスはテーラの背中に腕を回し、そっと抱いた。それに応えるように、テーラも優しい力と温もりを込めた。


 村には子供と老人合わせて百人余りいて、それに駐屯の結晶団が数十人いる。この呪われた荒野に盗人など居るはずも無いが、野獣や防風避けに壁で村を囲っている。東向きに空いた門があり、しかし扉は無い。扉に使う木材が不足しているのだ。
「やあテーラ先生にモールス坊や、今日はお休みかい?」
 二人に声をかけたのは、ロウソク屋の老人だった。
「ええ、こんにちは。この村に来て日が浅いので、一緒に見て回っているんです」
 テーラが応じると、老人は笑った。
「おお、そうかい!こんな村じゃあ見るところも少ないだろうが、ゆっくりしてっておくれ!」
 テーラをモールスは一礼して、その場を後にした。
「この村に来てどれくらいだっけ」
「んー十日くらいかな?」
「みんな僕らの名前覚えるの早いね。僕ほとんど覚えてないよ」
「そうねぇ、田舎は情報伝達が速いのよ」
 テーラは小さく笑った。モールスは生まれた時から霊禍で生活している。田舎と都会の感覚の違いが分からないが、こういう村は田舎と呼ばれるものなのだと記憶した。
「いい天気ね。風が気持ちいい」
 見上げても曇天しかない。 “いい天気”が何なのか分からない。モールスは霊禍以前の世界を知らない。つまりモールスと大人たちとでは、常識の基準が違うのだ。
 だがこんな世界にも楽しみはある。モールスとテーラは兄を探す旅で色々なコロニーを巡ってきたが、ひとつとして同じコロニーは無かった。みな何かしらの個性があった。この村の個性は、作物が豊かだが、代わりに肉や魚が少ない所だ。
 時折結晶団の鳩(コルン)が狩りをして肉を持ってくる他には、肉を得る手段は少ない。他のコロニーとの交易で肉や魚を手に入れるのがこの村のやり方だ。
 だからこそ交易の要である鳩(コルン)の活躍は重要である。
「だれか!医者はいないか!?助けてくれ!」
 大きな声が村中に響いた。先ほど笑っていたロウソク屋でさえ不安そうな視線を声のする方に向けた。
「ごめんモールスくん。ちょっと行ってくるね」
 そう言ってテーラは声のする方へ駆けていった。急に置いて行かれた不安感から、モールスは駆けて付いて行った。テーラは咎めなかった。無言でモールスの手を握った。
 そこは村の門だった。結晶団の鳩(コルン)の装備をした男が二人、そこにいた。片方は足を引きずり、もう片方の肩を借りて村に入ってくる。
「村長の家に行って結晶団を呼んできてください!」
 テーラは誰に向けてでもなく叫んだ。一人の老人が応えて村の中央に駆けていった。
「蓆(むしろ)はありますか?足を高くして寝かせてください」
 近くにいた男が蓆を敷き、怪我をした鳩(コルン)をそこに寝かせた。
 鳩(コルン)は精霊避けのために青くて薄い生地の布で目を隠す。そして金属の防具を身に着け、その光沢を隠す上着を着るのだ。怪我した男は呻きながらも、荒くて浅い呼吸を何とか保っている。
「熱が出ていますね、解熱剤は!?」
「もう使い切った…!」
 男が悔しそうに舌打ちしてケガ人を見下ろす。
「村に少しだけなら備蓄があります。それに消毒液も持って来ないと!モールスくん。お姉ちゃん少しだけここを離れるね。いい子で待ってて」
 テーラはそれだけ言うと、背を向けて村の奥にある診療所に向かった。不安そうな村人たちと、ケガ人の呻き声と、それを励ます男の声でその場が満ちた。
 大丈夫だ。絶対に助かる。彼女は医者だ。それにここは安全だ。見ろ、目隠しを外しても大丈夫だ。
 そう言って彼は青い目隠し布を外したが、代わりに表れたのは不安を湛えた目だった。そんな目で見られては、怪我人は余計に心細くなるだろう。それにテーラは医者ではない。錬金術と精霊医学の両方の知識を持っているだけだ。
 モールスは少し緊張したが、男の袖を引っ張って声をかけた。
「僕の目を見て」
「そ、空色の目…もしかして君は精霊遣いか?」
 モールスは頷いた。精霊遣いは、その証に空色の青い瞳を持つ。精霊に祝福された、特殊な目だ。霊域でも呪われることが無い。だからモールスは野外に自由に出ることができる。
 モールスは怪我人の足元に座り、目を閉じて霊気を感じた。右足の脛の骨から生命熱が溢れている。体を治そうと、熱が溢れているのだ。突然の体の破損と異常な発熱に、体と魂が混乱している。それを整えれば、楽になるだろう。
 モールスは剣を抜いた。驚く者もいたが、鳩(コルン)の男がそれを制した。彼は知っているのだろう。
 精霊遣いにとって、剣は武器ではなく祭具だ。精霊を操る触媒だ。
 モールスは座ったまま一歩退いて、空中で軽く剣を振った。剣は薄く、小さい力で震えるように作られている。練習が必要だが、定まった振り方をすれば、それに対応する音が鳴る。
 空気を揺らした剣は、繊細な鈴のような音がした。その澄み渡る音の心地よさたるや、混乱する人々が耳を奪われて静まるほどである。
 もう一度振った。今度は先ほどより純度の高い音が、静かに溶けていった。もはや誰も言葉を発さなかった。
 二三度振って音を繋げた。その動きは剣舞のように滑らかで無駄がなく、音は子守歌のように穏やかで、ひとつの曲を成していた。
——そう、これが、精霊術の基本だ。
 兄の言葉を思い出した。精霊術は兄に教わった。
 剣を振って音を出し、音を繋いで曲を作る。その曲を精霊が感じ取り、活性化した精霊からこぼれ落ちる僅かな祝福を受け取る。これが精霊術だ。
 今モールスは、【水】の曲を奏で、【水】の精霊に語り掛けている。精霊医学において【水】は「恒常性」を表す。悪しきものを洗い流し、必要なものを吸い取る。水面の波紋がゆっくり鎮まるような性質だ。
 今この男の患部ではそれが起きている。人体が自身の体を修復しようとすると、発熱や疲労、ストレスが発生する。【水】の精霊の力を借りれば、少ない負担で怪我を治せるはずだ。
 精霊が応えた。たしかに聞こえるわけではなく、確信に近い感覚がそれを気付かせた。モールスは【水】の精霊は得意分野ではないので、その精霊の姿は見えないが、剣の音色に答えてくれたのを感じた。
 モールスは一定の呼吸を保ちながら剣舞を続けた。小さな声で歌うような気分の高揚も感じた。
 生命の流れを頬に感じた。それが全身の毛穴から染み込んで、体の芯まで生命力で満たされるのを感じた。そして意識を目の前の男に向ける。
 彼を助けて。
 念じてはならない。精霊は言葉を話さない。怪我人を助けてほしいという願いを心中で言語化してはならない。なので受け取った生命力を、そっと目の前の男の折れた足に導いた。精霊たちは無言で了解し、モールスの体を満たしていたエネルギーが抜けていくのを感じた。
 少しずつ夢から覚めるように、意識が戻ってきた。モールスはそっと剣を鞘に納め、患者を観察した。
 額に浮かんでいた大粒の汗は乾き、浅く荒れていた呼吸は、鏡面の水面のように鎮まっていた。安らかな息遣いに合わせて胸が上下する。モールスはもう一人の男に言った。
「精霊が応えてくれました。怪我が治るのを手伝ってくれるでしょう」
「こ、こいつは助かったのか?助かったんだな!」
 男は声を上げた。すると、「うるさい…」と、怪我をした男が掠れた声で応じた。万全とはいえないが、紛れもなく生者の息吹きだった。
 そこにいた者たちは歓声を上げた。剣舞の間ずっと黙っていた彼らは、やはり緊張していたのだろう。その緊張の糸がいい意味で途切れ、歓喜を分かち合っているのだ。
「ありがとう少年、ありがとう!」
 男はモールスの手を取り、大げさなくらい感謝した。屈強な大人だというのに涙を零している。
 ただの骨折の手当てで喜びすぎだと思うが、彼らの喜びの理由はそこではない。この世界は精霊によって呪われている。精霊は恐怖と憎しみの対象で、この狭いコロニーに人々を閉じ込める元凶だ。だがモールスは、その精霊によって人を癒した。
 精霊は人の味方になりうる。その事実を目の前で見た彼らは、枯れかけた気力に大きな支えを得た。
「お礼を言うなら兄と精霊に——」
 そう言いかけたとき、後ろから誰かに抱き留められた。馴染みのある髪の香りがする。
「よく頑張ったねモールスくん。えらいよ」
 薬箱を持って駆けつけたテーラだった。
「僕よりも兄さんや精霊が…」
「そうだね。でも、助けようと思って自分から動いたのはモールスくんだよ。お姉ちゃんはそれが嬉しいの」
 そう言ってテーラはよりいっそう、モールスを抱いた。背中の温もりが脈打っている。
 そうか、人の心はこうやって癒すのか。
 精霊は言葉を話さない。だが、歌で会話する。
 言葉より原始的で、ゆえに容易く誰とでも分かち合えるもの。心は理解できなくとも、喜びを感じることはできる。
 モールスは笑みをこぼした。少しだけ、心中深くにある寂しさが和らいだ気がする。ずっとモールスを苦しめていた喪失感が、少しだけ軽くなった。
 だがその反面、不安が同じくらい増した。こうやって不安や寂しさが薄れるごとに、寂しさの根源である兄のことを忘れてしまいそうな気がした。この寂しさは確かな苦しみだが、これは皮肉にも、モールスと、微かな記憶に残る最愛の兄とを繋ぎ止める最も強い絆であった。

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