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COIN~コイン~ 3-3 死んだ道

COIN~コイン~ 3-3 死んだ道
著:増長 晃


 山を降りてから約一週間。朽ちかけた街道を通り、いくつかの廃れた農村や集落を宿代わりに泊まりながら東を目指した。道も建物も時を経て野生化し、かろうじて原型を留める程度だった。
 王都を目前に夜が訪れ、一行は王都の城門から少し離れた民家に泊まった。およそ十年は放置されたレンガ造りの家だ。
 トスはヴィアに乗って本部に補充物資を取りに戻り、アクシアは動物を狩りに、モールスは周囲の精霊を鎮めに家の外に出た。
「大きいお城だとか、見たことの無い人や物なんかがたくさんあると思ってた。この有様だと私がいた山よりひどく荒んで見えるね」
 昼間に獲った鹿を解体するアクシアが言った。家から離れた所の木に吊るした鹿の内臓を引き抜いている。今晩の夕餉の準備だ。
 アクシアの言う通りだ。王都の廃り様はあまりにもひどかった。石畳の道路は石の隙間から雑草が生えてひっくり返り、風雨に削られて黄色い地面と溶けあっているようだ。途中通った集落も腰のあたりまで雑草が生え、時に鳥や獣の巣になっている家もあった。
「トスも言ってたね。動物が多すぎるって」
「鹿、猪、狼や獅子。獲物に事欠かないのはありがたいけどね、でもやっぱり人の住む領域ではないって気がする」
「でもでこぼこした土地を避けて道や家を作ったり、水のある所に人が集まりやすかったりするころなんかは人間らしい気はする」
 モールスは言った。ここにあるのはあくまで人間の抜け殻だ。人間は大霊災の時に全員逃げ、残った人々の生きていた痕跡だけがここにあり、少しずつ自然に消えていく。人類の活動領域が少しずつ精霊に奪われていくように。
 道も家も、人が使わなければ廃れていく。血が通わなくては手足や臓器が死んでいくように、人が人の営みを続けなければ、人の生きていける領域は侵されていく。
「火、足して」
 アクシアが言った。日が落ちてきたため、焚火を焚いて光を作っている。動物を解体するとき、手元が見えないのは危険だ。
 モールスは積んである薪を火に足して明るくした。モールスははっきり見えるが、他の皆は結晶眼鏡越しに物を見るため、本来より暗く、青く見えるだろう。だがどこかモールスは嬉しかった。
 これまで野外で見える景色を共有したことは無かった。自分は見えていても、他の誰も見えていなかった。結晶団とて布越しの景色を見ていた。モールスはある種の孤独の中にいたが、今は違う。皆と一緒にいる。そんな気がして、胸の内に温もりを感じるのだ。
「こっちの肉持って行っていいよ」
「分かった。義姉さんと焼いとくね」
 モールスは捌き終えた肉を大きい木の板に乗せて家に運んだ。中は結晶灯で照らされ、四人分の寝床が用意されている。
「義姉さん。アクシアが捌いてくれたよ」
「あら、ありがとう」
 青いローブを着たテーラが肉を受け取り、竈で焼いた。老いた鹿だったのでそれほど多くの肉は取れなかったが、四人で食すにはそれでも多かった。食べきれない分は乾燥させて保存食になるだろう。王都は目前、つまり保存する分は帰りの分の食糧だ。
 テーラは錬金術で草木から抽出した油や調味料で肉に味付けしながら焼いている。ここまで来てようやく文明らしいものに触れた気がする。村の仮住まいや森の小屋と違って、この小屋は厨房もリビングも複雑で丈夫な造りをしている。柱に刻まれた細かい傷、義姉に聞いたところ、子供が背丈の成長を記録するために柱に残すものらしい。もう柱は腐りかけてほぼ見えないが、見れば傷の横に日付が書いてある。
 モールスは人間らしい、文明的な生活を知らない。しかしコロニーで目にしてきた人々の営みに似通っているものの、その延長をこの旅で見てきた。感覚的に人間らしさを覚えてきた。そして同時に自分はどこにいるのか分からなくなった。人が作る社会のなかで、いったい自分はどこに位置するのだろう。
モールスは文明を作れない。義姉やトスのような文明の担い手の一員にはなれない。これまでコロニーにおいて自分と周囲とを比べてこのように思うことは無かった。
 人間らしさを知る代わりに、そこに自分らしさが無いことを知ってしまった。王都を復興したところで、自分はどうやって生きるのだろうか。かつての王国に、モールスが適合できる社会があるのだろうか。少なくとも今は、この国に溶け込める自分が上手く想像できなかった。
「モールスくん、ちょっとスープの様子見てくれる?」
「あ、うん」
 結晶団名物コーンスープだ。この道すがら、野生化した畑をたくさん見てきた。穀物など所詮人類の食べ物で、人が手を加えなければ雑草や獣に敗北し、小麦もトウモロコシも畑から消える。
 道も、家も、畑も、死んでいた。
 三人分のスープを椀に注ぎ、食卓へ運んでいった。腐りかけていたテーブルは壊して竈に使い、石の床に布をひいて食事を並べた。
 モールスは文明を作れない。壊して燃やすだけだ。
「アクシアを呼んでくる」
 そう言って外に出ると、夜闇の中に焚火の光を探す。しかしそこにアクシアはいなかった。あるのは木にぶら下がる鹿だった何かだ。
 すると首筋に冷たい何かが走った。闇の中で、アクシアがこちらに矢を向けていた。
「ああ、あんたか」
 モールスの姿を認めると、アクシアはゆっくり弓を降ろした。
「ごめんね、この辺に何人か呪受者がいたから」
 モールスには見えないが、受霊者がいたらしい。アクシアの矢はテーラがガラクタから作った金属の矢じりが使われ、受霊者から精霊を追い出すことができる。加えて狩人の目は闇でもよく見える。
「ご飯できそうだよ」
「外に置いといて。トスが戻ってくるまで見張っとく」
「うん、分かった」
 そういってスープと鹿肉を玄関の外に運び、アクシアに見張り番を託した。トスが戻ってくればモールスと交代するのだ。
 自分は文明の一部ではない。狩人のアクシアも人の世から離れた山奥に暮らしていた。アクシアは何を感じているのだろう。いや、アクシアには自分の住む世界があるではないか。
 ならばモールスだって同じだ。コイン王国の一部として生きられずとも、義姉と共に生きていこう。そしてきっと、兄も——。


 その後、トスがヴィアと共に補給物資を持って帰ってきたと同時にモールスが見張りを交代した。焚火に温まりながら夜を明かし、無事に朝を迎えた。相変わらず薄暗い空だ。
「なあ、あれが王都?」
 トスが東の壁を指さした。東の空の光を背負った、見たことも無いほど高い壁が地平線を隠していた。
「そう、王都の城壁」
 テーラが答える。
「おお!やっとか!」
 トスが歓喜の声を上げる。
一行は古びた道を通って城門へ進んだ。すると城門に受霊者が何体かいた。呪いが酷く進行し、かつての巨人ほどではないが結晶で体が歪に膨れている。大霊災から逃げ遅れた者たちだろう。
モールスは剣を抜き、一振りしてソリスを呼んだ。族長の元で剣技と精霊術を修めたモールスは、以前より深く精度の高い精霊術を身に着けた。
剣を振って、空まで届きそうなほど澄み渡った音を出す、するとソリスは爆ぜるように燃え上がり、ずっと先にいる城門まで滑るように飛んでいった。すると城門付近で赤い爆発が起きた。モールスにしか見えない霊気の大放出で、広範囲の受霊者がその爆発に呑まれただろう。
「モールス、何かした?」
「うん、そこに受霊者がいたから、まとめて祓っといた」
「おお、すごいな」
 トスの反応は思いのほか薄かった。モールスにしてみれば大いなる成長なのだが、精霊を目視できない限り、義姉にさえこの成長を分かってもらえないのだろう。
 義姉や兄のためには精霊術が必要だ。だが精霊遣いとしてのモールスは、より一層自分を孤独にする。孤独を癒すために、刹那の孤独にすがるのだ。
「わあ、ずいぶん古びてる。そこらじゅう草だらけ」
 城門をくぐると、義姉が呟いた。トスも頷いている。二人はかつての王都と、生き残った街を知っているのだ。
「これからどうする?テーラさん」
 アクシアが問う。しかしモールスが答えた。
「まず兄さんの場所を見つける。兄さんはここにいるすべての精霊と繋がっているから、精霊を介して兄さんの気配を掴む」
「そのためにはどうしたらいい?」
「霊気の一番強い所を目指す。そうすれば精霊から兄さんの気配を辿りやすくなる」
「危険じゃない?」
「僕は危険じゃない。でも皆は危ないだろうから僕一人で行く」
「じゃあその間俺たちはどうする?」
 トスが尋ねた。手綱を握られたヴィアが毛を震わせる。
「あそこに行ってみない?」
 アクシアが指さして言った。その先にあったのは、一際大きい建物だった。屋根は卵のように丸く、尖った塔が空に向かっていくつも伸びている。おそらくこの都市で最も大きな建物だ。つまり——。
「あれは王宮。王様のお城ね」
 テーラが言った。
「おお、街の城よりずっと大きい!」
 トスが声を上げる。そしてこう言った。
「王宮にはたしか錬金術師の工房や結晶師の研究室があるよな。国いちばんの大規模な。そこに行けば霊禍のヒントになる資料があるんじゃね?」
「霊禍が発生したその日に王都は滅んでるんだから何も記録されてないでしょ。記録人がこの街にずっといて王都の全てを記録し、研究しているわけじゃあるまいし」
 アクシアが反論する。だがその記録人は確かにいる。兄だ。
「とにかく王宮の研究資料を持って帰る価値はある。コロニーの生活に役立つものもありそうだし、それに探せば大霊災に関する何かも見つかるかもしれないだろ」
 トスが言った。アストリストの言葉を思い出す。——精霊の恩恵を驕った者により、王国は滅ぶ。大霊災はある程度予測され、国はそれを否定しなかった。アストリストの言う通り、王や学者たちは何かを知っていたのかもしれない。
「そうね、王宮に行ってみましょう。でもそこは大霊災の震源地、逃げ遅れた研究員が多く、きっと呪われている。呪われて十年経っているわけだから、きっと重症の受霊者がたくさんいるはず」
「なら僕が行くよ」
 モールスは言った。多くの受霊者がいるというなら、兄の気配を探りやすい。
「私も行くわ。王宮の地図は頭に入ってるし、研究資料を扱うなら私が行った方がいい」
「じゃあ私は宿舎を見てみるわ。しばらく滞在するとしたら拠点が必要だしね」
「トスくんはアクシアちゃんと宿舎に行って精霊避けの準備をしておいて」
「分かった!」
 こうして一行は王宮を目指した。途中、大型の受霊者に幾度も遭遇した。その都度モールスとアクシアが撃退しながら道を拓いていった。城門から大通りを通って王宮を目指すのだが、その道もやはり年月を経て朽ちかけていた。が、受霊者たちの通り道になっていたのだろう。雑草や鳥獣の糞尿は思いのほか少なかった。
 だがそれは人類の、文明の痕跡とは言い難かった。かつて人間だった異形が、人間の足跡を残しているだけだ。
「テーラさん、あれは何?」
 トスが指さして言った。石で地面に円形の輪を作り、そこに水が溜まっている。苔や藻で緑に濁り、水面には浮草が浮いていた。
「あれは噴水広場。池の底から水が噴き出していたのよ」
 義姉が言った。どうやらここは都民の憩いの場だったらしい。
「見て!作りかけの建物がある!」
 またトスが何かを見つけた。基礎は出来上がっているが、その上にはまだ石柱しか建っていない。巨大な石の塊と、木で組まれた足場が立っているのみで、何の建物かも分からなかった。木でできているものは腐り、石でできているものは苔を被っている。
「ところでさ、なんで道が二つあるの?太い道の両脇に細い道があるけど」
「ああ、それはね、中央の太い道は馬車が通る道で、両脇の細い道は人が通る道なの」
「へぇ、あ!道が分かれて曲がってる!あの建物に続いてるけど、あれは基地?」
 トスの疑問に、テーラはくすりと笑う。
「違うわ。馬車をひく馬も生き物だから休ませないといけないの。あれは馬車馬を休ませつつ、御者も休むための施設よ」
「へえ、外の集落には無かったね」
「そうね、王都の外はそういう集落そのもので休憩する人が多かったし、道の狭い所にその施設を建てて営業しても儲からないからね」
 それからトスと義姉の会話は弾んだ。あれは店だ。ここは公園だ。このレストランではこういうメニューがあり、あの本屋にはよく通った。
 道に従って文明らしさが残っている。建物やその跡地で、この都市の人々が暮らしている光景が目に浮かぶようだ。大通りを歩く人々、噴水広場で休憩したり、買い物を楽しむ人々。
 だがその景色の中に、自分はいなかった。どうしても自分がこの巨大な文明の一部になることが想像できなかった。自分はどんな仕事に就くのか。学校で何を学ぶのか。もしこの地上に人類の繁栄が戻ったとして、モールスはどんな形で社会の一部になるのか分からなかった。
「この道はよくお兄さんと通ったんだよ」
 義姉が言った。そうだ。ここは義姉と、兄の思い出の場所でもあるのか。少なくとも義姉の記憶の中では、この都市は兄の居場所だった。ならばどこかにモールスの居場所もあるかもしれない。
この都市は死んでいる。この道は腐っている。転がった玩具、看板の売り文句、錆びた銅像の周囲に散らばった硬貨(コイン)の錆びた死骸。誰も使わない硬貨(コイン)は、錆びて死んでいくのだ。体外に出て巡らなくなった血が腐っていくように。その死んだ世界にこそ、精霊遣いモールスの生きる意味がある事が、なんとも居心地の悪い。
だがこの文明の死骸を見て、義姉は鮮明な記憶から本来の姿を思い出し、今ここにいる自分たちにかつての姿を伝え、思い描かせている。次第に死んだ街から生気を感じるようになった。
きっと、モールスもこの都市の一部となり、義姉やみんなと暮らせるだろう。義姉といると、不思議とそういう気持ちになるのだ。
「見えてきたよ」
 義姉が言った。数十メートル先に王宮の入り口がある。門が開かれているのは、中の人が逃げ出すときに開けっ放しにしたからだろう。
 急に心臓が冷たくなった。体中の毛が逆立つのを感じる。
——あの光景を知っている。見たことがある。
 あの開かれた門を、モールスは知っている。ひどく鮮明に、しかし胸に苦しみを伴って思い出した。思わず足が崩れる。
「モールスくん!大丈夫!?」
 義姉が心配して膝をつき、モールスの様子をうかがう。
「義姉さん、僕は、あれを見たことがある」
 モールスは城門を指して言った。モールスが王宮の門を知っている。それ自体は何も問題ない。だが王宮の門を知っていて、何故かこの都市のことは何も知らない。噴水も大通りも、初めて聞くことだ。
「義姉さん、教えて、物心つく前、僕はどこにいたの?」
「モールスくん、休もう。今はそんなこと考えないで」
「モールス、こいつに乗れ。早く宿舎を確保しよう。探索はその後だ」
 トスがそう言った。アクシアの手を借りてモールスはヴィアの鞍に腰を下ろした。石の道を踏むヴィアの蹄の音が心地よい。歩くたびに体が揺れ、だいぶ落ち着いてきた。
 ややあって一行は王宮に入城した。石でできた広い広場があり、テーラの案内で向かって右へ進んだ。やがて五階建ての大きな廃墟があり、馬舎も併設してあった。
「ちょっと待って」
 鞍に乗った状態でモールスが言った。霊気を感じる。精霊が棲みついているようだ。モールスは剣を振り、シンクを呼び出した。下半身が動かなくても舞いの型は変わらない。水の音律を作り出し、シンクを深い深海に繋げた。クラゲの精霊は渦巻くように宙を泳ぎ、その大きな波で宿舎を包んだ。
「精霊が棲みついていたから、祓った」
「精霊が?けっこう危ない場所なんだな。それより気分は大丈夫そうか?」
 心配してくれるトスに、モールスは頷く。
「ところでこの宿舎、ずいぶん頑丈な造りをしてるけど」
 アクシアが内部を見渡しながら言った。獣や受霊者が散らかしたのか、床には多くの物が散乱している。だが太い柱や厚い壁はヒビも入っていない。
「ここ、王国騎士たちの兵舎に似てる」
 トスが言った。
「そうね、出入り口をしっかり固めれば安全そう」
そうしてモールスとトスは兵舎の周囲の安全の確保に取り掛かった。トスが柵とロープを取り出し、柵で兵舎の周囲を覆ってそれらをロープで繋ぎ、小さな鈴をロープに提げた。昨晩補充した物だ。あらゆるコロニーから集めた金属で作った物らしい。貴重な金属資源を無駄にするわけにはいかないのに、それだけの期待を背負っているのだ。
 兵舎全体を精霊避けが覆う頃、陽が落ち、兵舎の一階の窓のひとつが明るくなっていた。肉の焼ける匂いがする。
「ふう、疲れた。やっとここまで来たなモールス」
「そうだね」
 王宮近くの暗闇の中で何かが動くのが見えた。が、こちらまで来ようとしない。風に揺れる鈴の音に怯えているようだ。受霊者を退けることはできている。
「ひとまず飯だな。明日はいよいよ王宮探索だ」
 トスが笑って言った。モールスとトスは兵舎に戻った。


「王宮の地下は鉄製の守りが厳重だから、精霊や受霊者はほとんどいないはず」
 朽ちかけた食卓を四人で囲み、明日の行動を計画する。王宮内部を良く知っているテーラが話を進めた。
「地下は精霊の影響のない純粋な錬金術を研究するための工房になっているの。鉄の壁と扉で囲まれているから、精霊はいない。逆に王宮の上階は天文台でもあったから、精霊は上階に集まっているはず」
「なら僕は上の階に行って精霊を介して兄さんを探してみる」
「私はテーラさんと同行する。呪われたやつがいないとも限らないから」
「俺も下に行こうかな。上が危ないならモールスの邪魔になりそうだし」
 モールスが王宮の上階、他三名が地下を探索することになった。それぞれの立ち回りが決まり、食事を摂ってすぐ四人は眠った。


 翌朝、四人は朝食を摂って王宮を目指した。兵舎を出ると、柵を恐れるように受霊者が彷徨っていた。モールスは前に出て剣を抜く。剣を空で切ってうねるような音を鳴らし、ソリスを呼び出す、昔はモールスの腕に止まる程度の小さな烏だったが、今ではモールスの背丈より大きい烏を呼び出すことができるようになった。
モールスは剣を振って旋律を作り、赤く輝くソリスを低く飛ばせた。ツバメが地表の虫を喰おうと低く飛ぶように、ソリスは受霊者を巻き込みながら赤い翼で石畳を焼き尽くした。
剣を鞘に納めると、音が空中に溶けて消えるように、赤い煌めきが徐々に薄れていった。そこに残ったのは屍のように動かなくなった受霊者たちだけだ。
王宮の入り口は開けっ放しだった。そのせいで鳥の巣や獣の痕跡がそこかしこにこびりついていた。泥や糞尿、小動物の皮や骨が床に散らばっており、それゆえ臭いもひどかった。
「臭いし汚いなあ」
 トスが言った。
「避難してからずっと放置されてるから、王宮でさえ野生化するんでしょうね」
 テーラが言った。確かに動物や雑草のせいで自然の一部に溶けかけているが、それでもかつての栄華の面影は確かにあった。高い天井、白い石の広大な床、細かい彫刻の刻まれた壁に、無数の石像。時とともに色褪せてなお、その文明の力の壮大さを十分に感じる。恐ろしいとさえ思う荘厳さだ。これが国家の——全盛の力か。
「地下室はこっちよ」
 義姉の案内で一行は王宮の中心へ進む。廊下を進むと、広い部屋の前を通った。部屋の中には埃をかぶった実験器具や大小さまざまな霊素結晶が散らばる机があった。それに壁を埋めるような本棚に複雑な式が書かれたボード。結晶師の研究室だろうか。
 四人掛けの机が十個ほど並んでおり、どの机も散らばっている。インクは乾き、野ざらしにされた紙は朽ちている。厳重にしまった資料でなければ読めないだろう。
「この廊下の奥に出入り口がある」
 テーラの案内で一行はその研究室の前を通り過ぎ、大きな階段に至った。壁に掛かった松明はとっくに燃え尽き、腰に提げた結晶灯の明かりが無ければ何も見えない暗さだ。階段は上に続いているが、一階の壁に鉄の扉がある。両開きのそれは酷く錆びていて、重そうだ。両扉を繋げるの鍵の代わりに、立方体の紫の結晶が埋め込まれている。
「この扉は結晶で施錠されている。結晶に鍵となる結晶を合わせると開くの」
 そう言ってテーラは左手の指輪を結晶に合わせた。すると扉の向こうで金属音がして、テーラが扉を押し、開かれた。義姉の指輪は兄との誓いの印であり、鍵でもあったのだ。
「これこの指輪でも開く?」
 モールスが自分の指の指輪を見せて言った。思わず“僕の指輪”と言いそうになったが、これは兄の指輪だ。モールスはただ預かっているだけだ。
「ええ、開けるわよ」
 テーラは答えた。三人は地下で調べ物をする。この先に霊気は感じないし、アクシアがいるから問題ないだろう。モールスにはやるべきことがある。
「じゃあ僕は上に行ってくる。そっちに行くときは指輪で知らせるね」
「うん、気を付けてね」
「また後でなモールス!」
 トスの声を最後にモールスは三人と別れ、一人階段を上った。
 上に行くほど動植物による風化は減ってきたが、代わりに風雨による摩耗が目立ってきた。受霊者たちもたくさんいた。ソリスを呼び出して一体ずつ撃破しながら周囲の安全を確保する。二階のある一室に、大きな部屋があった。本棚と机、それに薬品の瓶やガラスの実験器具。部屋の形や広さは先ほどちらりと見た結晶師の研究室と似ているが、器具や設備の形が少し違う。
 この部屋に受霊者はいないようだ。モールスはその部屋に入り、散らかった床の空いているところに座り込んだ。
 目を閉じて深く息を吐き、下半身を固定して上半身を上に伸ばすように軽くする。族長との修業に加え、アストリストの記憶の継承から瞑想の感覚を体がよく覚え、上質な瞑想を行えるようになった。
 徐々に体の輪郭が消え、魂を霊の世界に混ぜる。
 啓けた。
 深く、混沌とし、しかし秩序に正確な精霊の世界と繋がった。双霊の術と似ている。海流の様に激しく流動的で、しかし大地のように硬い見えない力を感じる。今まで感じたことの無い巨大な霊気だ。それが、はるか下方の深くから感じる。無数の秩序が正確に機能し、一目では混沌に感じる。その最も深い所に、“最初の秩序”を感じる。
 拍動だ。
 急に吐き気がして、モールスは目が覚めた。頭痛が激しく、上下の間隔が曖昧だ。暗い視界が少しずつ光を取り戻し、錬金術工房の姿を取り戻した。
 命だ。それに触れ、感じ、自分の感覚の一部になりかけた。思い出すだけで足が震え、汗が止まらない。
 入り乱れる見えない力。これはおそらく霊気だ——それも生命の本質に限りなく近い性質を感じる。そしてその深くにある一つの巨大な秩序。拍動に似たそれは、一つの命だ。ひとつの命が、無数の命の流れを整えている。そしてそれが、自分のものにひどく似ていたのだ。
——リトはこの雲の下の全ての精霊と繋がっている。
 アストリストの言葉は例えではなかった。事実だった。あの拍動は兄のものだ。
『モールス、そこにいるのか?』
 どこからか声がした。いや、聞こえた。自分が言ったかもしれないし、ただ頭に浮かんだ言葉かもしれない。この工房には誰もいない。しかし目に見えない声は確かに届いた。
「兄さんなの?どこにいるの!?」
『モールス?いるのか?いるなら来てくれ。僕は祈ることしかできない』
 聞こえる、というより感じるような声だった。兄の居所はおそらく遠くない。目覚めてすぐ、夢で見た景色を思い出すように、我に返ってすぐあの見えない力に流される感覚を思い出した。先ほどより強い拍動を感じる。そこに兄がいる。モールスは胸が高鳴った。
 目を閉じてもう一度あの感覚を蘇らせる。深く、暗くて硬く、重く冷たく、しかし確かに命が流れて通っている、その先の奥深くに兄の気配を感じる。
 地下か——。
 モールスは立ち上がった。しかし眩暈がして足が崩れた。思わず机に手をついたが、手をついた先に薄平たい木箱があり、その木箱が机からずれ落ちたせいでモールスも床に倒れた。眩暈が治まるまで座り込んでいたが、箱からはみ出た紙の文面に目が止まった。
——リト計画。
 思わず息を呑んだ。モールスはその紙を取り出し、上から読んだ。


——リト計画 第二検体“モールス”観察記録

●月 ■日
 第一検体リトから精霊術を教わる。精霊を介するコミュニケーションであるため、観測不可。
 〇時に昼食を摂り、運動時間の後図書館へ移動——。


 腹の底が冷たくなる思いだ。読み進めるほどに手が震え、口の中が乾き始めた。それはモールスの知っていることと相違なく、それどころか時折忘れたことをこの書から思い出すほど正確だった。ただ日付や時間を把握して生活する習慣のないモールスには分からない記録もあった。
丸く優しい字で、書き手の品格が伝わる書だった。それがなおさら、モールスの心を乱した。
記録者の氏名はこう書かれていた。——テーラ。

3-4 へ続く

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