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砂となる

砂となる
著:増長 晃

「だいぶ老けましたな」
 亀は言った。しかしその声は水の膜がかかったように濁っており、見える景色も霞んでいる。自分で触れる肌は枯れており、伸びた髪は荒れていた。玉手箱により、本来の時の経過を取り戻したのだ。これで浦島は再び地の民となる。
「世話になった。行ってくる」
 片膝をついた浦島は亀に言った。自分でも驚くほど声が枯れていた。もう若い頃には戻れぬのだ。そう、あの頃には決して戻れぬのだ。
「姫様になにかお伝えすることはございますか?」
 亀が言った。胸にある思いを表せる言葉を探した。しかしやめた。
 乙姫と過ごした日々が蘇ってくる。かの姫君は陸の景色を知らぬ姫であった。花の色も、穏やかな日差しも、地の香りも、涼しき風も。同じく浦島も、深海の絶景を知らぬ男であった。
 二人は歌を交わし合った。名の知らぬ景色の名を教え合った。互いの世界を広めていった。稀に沈んでくる船の欠片やその積み荷を見つけては、それが何であるかを姫に教え、地の民の生活を姫は思い描いたものだ。
 故郷が恋しいを思ったことはない。むしろ俗世の穢れから身を置くことができ、深海の冷たく優しい闇が心地よかった。底知れぬ深海の闇の中では、常に乙姫が手を取ってくれていた。鈴を転がしたように小さく笑い、風に揺れる花のような笑みを浮かべるのを見ると、闇夜に月光を見出すような心地になるのだ。
 離れたくない。帰りたくない。だがしかし、断腸の思いで乙姫に背を向けた。どうしても行かねばならぬ。それは乙姫のためであり、せめて互いのためであって欲しかった。
「伝えることは何もない。俺は老い、ここで死んだと知らせよ」
「よいのですか?何もお伝えせず?」
 亀が言った。いいのだ。これ以上は何も残せぬ。もはや俺と姫が相まみえることは叶わぬ。ならせめて二人の間に叶わぬ願いを残したくなかった。それは未練となり、互いを呪い続けるであろう。
 もう会えぬ。二度と会えぬ。あの麗しい声で俺の名を呼んで下さることはない。星のような笑みをこちらに向けて下さることもない。そうだ、俺のことは忘れていただこう。浦島は亀に言おうとした。——どうか俺のことは忘れ、俺の遺した物はすべて焼いて捨てられよと。そう言おうとした時、背後から声がした。
「其処許(そこもと)、何奴よ」
 振り返ると、鎧を着た男が砂浜に立っていた。高級な武具と具足を見るに、おそらく貴人だろう。気性の荒さと、烈しい野心を感じる。ああ、この男か。この海を侵しに来たらしい。男の傍らに弓を持った青年がいる。日に焼け、服の裾や袖が短い。船乗りだろうか。
「我、大伴(おおともの)御行(みゆきの)大納言なり。かぐや姫に捧げる竜の頸の玉を獲るべく漕ぎ出ずる者なれば、今すぐそこをどけい!」
 大納言と名乗るその男が言うと、その後ろに兵隊が浜を覆わんばかりに、ぞろぞろと並び始めた。やがて船団も揃うだろう。そうなる前に亀を逃がさねばならぬ。
「行け」
 立ち上がった浦島は背中で亀に言った。亀は何も言わず、海に帰る音が聞こえた。
「——私は幸せでした」
 しまった。浦島は、つい心根を口に出してしまった。ああ亀よ、姫の遣いよ。もし聞いていたらどうか伝えないでくれ。その言葉は彼女にとって呪いになる。二度と戻らぬ俺を思い返す言葉になるやもしれぬ。俺との思い出を、その心に残さないでくれ。
 振り返れば亀は既に水面に消えていた。届けるな。届けないでくれ頼む。俺はあの男と闘って死ぬのだ。この海を守るため、貴女様を守るためこの命を捨てて曲者を退けるのだ。
「何をしておる、早うどけ!その海の先に麻呂の野望があるのじゃ!」
 大納言が怒声を上げた。そうだ、俺は何をしているのだ。この命に代えても姫を守ると決めたではないか。浦島は太刀を抜き、大納言を見据えた。太刀もまた、浦島と同じく時の経過により、錆びついていた。かつての白い輝きは二度と戻らぬ。
 構うものか。
「お前、何を背負っておる?」
 大納言の傍らにいた弓取りの青年が言った。なんだこの男は、独特の深みを感じる。まるで海と話しているようだ。
「でしゃばるでない高野(たかの)、もうよい、麻呂が斬る!」
 大納言が太刀を抜き、こちらに歩み寄ってきた。風が吹き雲が流れ、鈍色(にびいろ)の曇天が広がった。今にも雨が降りそうな曇り空だ。鼓動が速まるのを感じる。浦島は太刀を握りしめた。
 竜宮城に古くから伝わる剣術。それは深海の重みと呼吸術により鍛え上げた“芯”の強い力を武器とする流派である。浦島はそれをおよそ五十年かけて習得し、その練度を玉手箱に入れ、時の経過とともに仕舞っていた。
 たとえ太刀が錆びようとも、この体が老いさらばえども、浜を覆うほどの兵が相手でも、この秘めたる剣技をもってすれば一騎当千の兵力を発揮できよう。
 だがしかし敵わぬだろう。浦島一人でこの兵団を全て斬るのは不可能だ。大半を壊滅させることはできても、おそらく一部は生き残る。
 だが構わぬ。この身が死んでも心は折れぬ。落ちた魂で守ってみせよう。そう思うと、風が強まるのを感じた。
 ああ姫よ、どうか幸のあらんことを。貴女様とともに過ごした日々は、忘れ難き程に幸せでした。それはこれからも変わりませぬ。もはや願うことは何一つ叶わぬ。だがそれでいい。俺はこの身に過ぎるほど貴女から貰いすぎた。今度はお返しする番でござる。貴女様の安寧こそ、この浦島の最期で最大の願い。それを今から果たして参る。どうかご自愛を、そして俺の名を幾度も呼んでくださり、ありがとうございました。
 なんだ、言えるではないか。こんなにも自分の心根を正直に吐き出せるとは、最初の一言の気が重かっただけではないか。亀にもっと伝えておけばよかった。だが構わぬ。言葉も時も、過ぎれば戻せぬ。ゆえにそれこそが尊いのだ。言葉の尊さ、時の尊さよ。
 今際(いまわ)の際(きわ)にてその尊さを知るとは、俺は最期まで乙姫に貰ってばかりではないか。浦島は小さく笑った。ならばその恩を、しっかり返さねば。
「何を笑っておる、知れ者め」
 大納言は数歩先まで迫っていた。いよいよ曇天が濃くなり小雨が降り出した時、高野と呼ばれた弓取りの青年が叫んだ。
「大納言様、この風雨は不自然でございます!おそらくその男が怪しげな気を放っておる!お退がりを!」
 高野の叫びを聞いて、大納言は足を止めた。風は波を荒げ、遠くで雷が吠える。微かな焦りを制するように大納言は口を開いた。
「お主、何者じゃ!」
 浦島は急激に伸びた髪を結い直し、長い白髪を風に預けて言った。
「我が名は浦島、この海の守り人なり」
 さあ来い、この浦島が死んでも海がお主らを拒むぞ。浦島が太刀を掲げると、横殴りの雨が稲光と共に降りだした。その風は海の香りを運んできた。海風は、いつだって涙の香りがする。
 さらば乙姫。俺は今日この地で、砂となる。

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