見出し画像

瓶を売る男 第一話~雨と友~ 3/8

小林Ⅱ
 
 あれから十日は経つだろうか。K市は今日も雨である。
「遠藤さん」
「ん?」
 小林の問いかけに、遠藤は声だけで答える。今日の遠藤はパソコンを広げて何やら作業をしている。その内容は分からないが、何か大きな局面に向けての準備をしていることが分かる。
「坂上さんの瓶、まったく満たされませんね」
 棚に仕舞われてある坂上の瓶を見て小林は言った。坂上の心に足りぬ何かをあの瓶に詰めなければこの仕事は完了できない。坂上は心に穴が開いたまま生涯を送ることになる。それなのに店に流れ着いたあの瓶は、一向に満たされる気配が無い。
「坂上さんに送ったあの小瓶」
「ああ、俺が作ったやつか」
 瓶は二種類ある。この店に流れ着く“漂着瓶”と、人為的に作り出す“人工瓶”だ。駅のホームで坂上に与えたのは後者で、遠藤が作った人工瓶である。
「あの瓶は坂上さんの“プレッシャー”を入れる瓶ですよね」
「ああ、十代はそもそも数多の不安を抱える年頃だし、それに加え受験というのも不安要素の塊だ。坂上くんの志望校は自分の成績よりかなり上の学校らしい。相当なプレッシャーだろう。そのプレッシャーを取り除き、見えない負担から解放されれば、すこぶる気が楽になるはずだ」
「でも漂着瓶の方はあまり変わっていません」
 坂上に送った人工瓶が正常に機能していたとしても、漂着瓶に進展は無い。つまり目先の問題を解決できたとしても、本題を解決できていないということだ。
「小林、君の言いたいことはわかる。たしかに俺が作った瓶では彼の漂着瓶、根本的な心の穴を塞げていない」
「ではあの小瓶は何のために送ったんですか?」
「彼はね、おそらく自分の心の問題に気づいている。しかしそれに踏み込むほどの勇気がまだない。だから受験勉強に没頭し、逃げているんだ」
 小林は机の上のファイルを手に取り、めくった。そこには漂着瓶の主である坂上の情報が記されてあった。この情報は、漂着瓶に刻まれた情報だ。
「彼は親友と仲違いしているようだ。瓶によると二か月ほど前だろう。クラス替えの時期か?そのことが彼の心を淀ませ、結果この瓶が発生し、この店に流れ着いた。これがお客人の経緯だ」
「ならその仲違いについて手を打たないと解決しないのではありませんか?」
「その通りだ。だがそれは俺のやり方じゃない」
 小林は先ほどの言葉を思い出した。—彼はね、おそらく自分の心の問題に気づいている—。
「坂上さんが親友と仲違いをしていることが坂上さんを苦しめていると気づいて、受験勉強に没頭してそれを忘れようとしているってことですか?」
「そうだ。いわば苦しみから逃れるために別の苦しみを背負って現実逃避しているわけだ。これじゃあ何も解決しない」
「受験ということは、もしかしたらその親友とは来年から会えなくなるかもしれないんでしょうか?」
「会えないことは無いかもしれんが、少なくとも今よりずっと疎遠になるだろう。そうなれば心の修復は難しい。だから今のうちに解決させなければならない」
 確かに早く解決させなければならない。しかしその割には遠藤の声や態度に焦りが見られない。
「僕らにできることは何でしょうか?」
「何もすることは無い。これは彼自身で解決することだ。だから彼は、自分から動かないといけない」
 そう言った遠藤は紅茶を一口含んだ。左手でソーサーを持ち、右手でカップの取っ手をつまむように持つ飲み方には優美な品格を感じる。
「坂上さんが自分の悩みに向き合うのをただ待っているだけなのですか?」
「いや、もう手は打った。彼に送ったあの小瓶、受験勉強のストレスやプレッシャーを彼の心から取り出して詰める瓶だったろう?」
「ええ、その瓶があれば彼は勉強の不安やプレッシャーは感じないということですね」
「そうだ、だから彼はすぐにでもこの店に来る」
 そう言った矢先、ドアのベルが鳴った。店のラウンジに誰か来たようだ。
「応対してくれ」
 遠藤に言われ、小林はラウンジに向かった。そこにいたのは学ランを着た男子中学生だ。濡れた傘を閉じて提げ、戸惑ったような瞳でこちらを見る。
「あ、あの時の」
 小林を見るなり彼は言った。駅のホームで会ったときと違い今はスーツを着ているが、小林のことは覚えていたようだ。
「お久しぶりです、坂上様」
「え、どうして名前を?」
 坂上はさらに戸惑った。名前を知っていることと、こちらの言葉遣いが変わったことだろう。スーツを着るとつい敬語になってしまう。そして本人は気づくまいが、日頃から感情の乏しい小林の表情は、スーツを着るとさらに無表情になる。それを不気味に感じる者もいれば、むしろ心惹かれるという変わり者もいる。
「ご来店ありがとうございます。アルバイトの小林と申します。本日はどのようなご用件でしょうか?」
 冷たく、脈動の無い声だ。機械より不愛想な声だと遠藤に言われたことがある。目の前の坂上もおそらくそう思っているのだろう。店の中をキョロキョロと見まわしている。小林以外の人間を探しているのだろうか。
「この前貰った瓶、あれを開けてほしいんだ」
 観念したように言った坂上は学ランのポケットから小さな小瓶を取り出した。結晶で封じられた小瓶の内側は、真っ黒かあるいは透明な液体で満たされていた。瓶を覗く角度によって中身は夜空より濃い真っ黒に見えたり、空気より薄い透明に見えたりする。在るのか無いのか分からず、あるいは急に現れ、見えたとしても得体の知れぬもの。これが“不安”というものか。
「かしこまりました。こちらへどうぞ。傘はそちらの傘立てをご利用ください」
 小林は坂上を第二客室へ案内した。第二客室に入ると、先ほど同様、遠藤がパソコンに向き合っていた。
「遠藤さん」
 小林の呼びかけに、遠藤がこちらを向く。
「おや、いらっしゃいませ。瓶のご相談かな」
 遠藤が微笑んで坂上を椅子に促す。坂上が遠慮がちに椅子に掛けると、小林は二人分の紅茶を淹れ直し、遠藤の隣後ろに立った。
「改めまして、当店の店主、遠藤と申します」
 遠藤が静かにお辞儀をする。坂上もお辞儀を返すが、何やら落ち着きがない。この部屋には窓も時計も無く、外の音が一切入ってこない。加えて壁を埋めるように敷き詰められた瓶の棚に囲まれては、元の世界から切り離され、別世界に閉じ込められたような錯覚を起こす。
「あの、瓶について扱ってるって聞いたんですけど」
 そう言って坂上はあの瓶を出してテーブルに置いた。中の液体がゆらゆらと揺れ、濁ったり透いたりしながら坂上の内心を表している。
「ふむ、どうして開けたいのかな?」
「えっと、この瓶をもらってから、勉強がすごく楽になって、気分的にも調子が良かったんです。でもこの瓶がいっぱいになってから、疲れが溜まりやすくなって、その、とにかく調子が悪いので、この瓶をもう一度空にして欲しいんですけど、できますか?」
 坂上の心に蓄積するはずだった不安、疲労、プレッシャーを、この瓶が代わりに背負っていた。しかし瓶の容量に限界が来たため、再びそれらは坂上の心に蓄積するようになった。たしかに瓶を空に戻せば再び坂上の心の負担は瓶に移すことができる。だがそれでいいのか。この瓶は小さい。受験が終わるまで何度この作業を繰り返すのだ。それに瓶の中身は消えない。他の瓶に移すか、他の誰かに背負わせるしかないのだ。それについて坂上には説明していない。いや、説明するなと遠藤から言われている。
 現実逃避。たしかに遠藤の言ったとおりだ。自分の負担を他の物に代わりに背負わせているだけだ。あるいは、未来の自分にそうさせているのだ。
「そうか、それは大変だ。いいだろう。三日以内にその瓶を空にしてあげよう」
 驚くほど簡単に遠藤は承諾した。しかし坂上はそれでも不服そうだ。
「三日もかかりますか」
「すまないね。この瓶は小さいが作りは複雑だから時間がかかるんだ。瓶は預かっておくよ。空になったら届けさせる」
 坂上は煮え切らぬ顔をしていたが、ひとまず納得したようだった。
「要件は以上かな?」
「はい。また三日後にここに来ればいいですか?」
「いやいや、こちらからお届けするよ」
 三日後に現実逃避先が再び蘇る。煮え切らぬとはいえ、坂上はどこか安心しているように見えた。
 
 
 坂上が店を出た後、遠藤は小瓶を何度も傾けながら瓶の濁りの変化を楽しんでいた。
「他人の不安がそんなに楽しいですか」
「楽しいに決まっているだろ。この瓶少し温かいな。うら若い少年の新鮮なストレスだ」
「悪趣味」
「ありがとう」
 遠藤は微笑んで答えた。
「ところで小林、彼の制服、お前の学校とは違うな」
「K南中ですね」
「よし、そこに潜入してもらう」
 そう言って遠藤はパソコンの画面をこちらに見せた。
 K南中、三年、野木。
「この野木という生徒と接触してくれ」
 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?