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針の繭(上)
針(はり)の繭(まゆ)
増長 晃
月曜日
時間が灰色になる場合は人それぞれ違うだろう。北郷(きたごう)恵(めぐみ)の場合朝課外がそうだ。時間を無駄にしていることを自覚しながら時間を無駄にしている。
鬱陶しいほどの朝日が校舎を照らし、コンクリートの壁の凹凸や傷を浮き彫りにする。日の光は平等だと誰かが言ったが、それを受け止める大地が均されていないのだから結局太陽の恵みも不平等なのだ。
神様と呼べるものがいて、それが人々に公平な幸福をもたらすとしてもそれを享受する人類が皆不平等なのだから、神様なんてあてにならないと思い始めた。
それはつまり、私が多少人を害しても神様なんて見てないのだからそれが返ってくることもないだろうと、いつしか恵は考えるようになった。というより、これから自分のすることに対する自己暗示だった。
こんな私を見たら誰が失望するだろうか。親か、友人か、それらは皆すべて、恵へ自分の求めている印象を押し付けているからこそ勝手に失望するのだ。
鞄の中で携帯が振動した。見つからないようにそれを開くと、一通のメールが届いていた。
『明日外せない用事ができた。ごめんね、明後日によろしく』
それを見て心なしか安堵した。しかしそれは実行日が延期になっただけでむしろ一日分の重みが増した。
やがて終業の鐘が鳴り、挨拶をして教師が退出した。それに続くように生徒たちも机を片付けてくつろぎ始めた。恵も教材をしまって次の授業の準備をしていたところ、黒板が消されていないことに気付いた。
日直の名前を確認すると、その日の日直に該当する生徒は二人いるうち片方は席を外し、もう一人はクラスのグループのひとつと雑談している。雑談している生徒はこちらの視線に気づくと口角を上げて目配せする。恵はため息をついて教壇に上がり、黒板を消した。日直の生徒は何もなかったかのようにグループとの談笑を再開した。
恵は幼いころから大人の言うことばかり聞いてきた。大人たちの言うことはすべて筋が通っており、それに従っていれば正しいことに思えてきた。それはつまり、恵は誰から見ても模範的な人間だということだ。
頼み事は断らず、人が困っていれば率先して手を差し伸べる。その人柄は周囲からはもちろん高く評価され、恵自身にも当たり障りのない平穏な生活をもたらしてくれた。
それが自分にとっていつの間にか当たり前になっていた。しかし周囲がそれを当たり前だと認識するのとは話が違う。先ほどのように恵が人に何か為になることをして、恵が何を思うかなど一切考慮しない。それが十数年かけて恵自ら培ってきた教科書通りの生き方だ。
火曜日
実行期限日は明日だが、なるべくギリギリの方がいいだろう。発見が遅れてくれた方がいいという理由だが、単なる後回しの言い訳であった。
昼前の四時限目、自習だ。自習を自習と解釈する者は非常に稀で、大抵は自由時間と誤解している。もしかしたらその認識すら模範的な生き方を是としてきた恵の抱く誤認かもしれない。自分以外の大多数がそうしているのが正解かもしれない。
だとしたら今まで自分が正しいと信じてきたものはほとんどが真逆の意味を持つ代物になる。周囲のためにと行ってきたことが周囲から疎外されることに繋がってしまう。それに気が付いた後、今までの生き方を捨ててそれに代わるものを用意するのは簡単ではない。
騒がしい教室の中で恵は席を立ち、外へ出るときクラスメートのひとりから声を掛けられた。
「北郷さんどこいくの?」
「進路希望調査書を出しに行くところ」
といっても職員室に持っていくわけでもなく、廊下のポストに放り込むだけだ。
「ならついでにこれ持って行って」
そう言って恵に放ったのは日誌だった。朝の提出に間に合わなかったならまだいい。自分で負うべき責任の後始末を人に押し付けるとはいかなることか。
「あ、じゃあついでにこれもよろしく」
また別の生徒が今度は英語の課題を寄越した。それを見た誰かが我も我もと恵に用事を押し付ける。重なった荷物はさほど重くはないが、恵の心はそこにのし掛かる負荷をそれ以上に感じた。
廊下を歩くと、誰もいない演習室に入った。そこにある忘れ物をとって来いと言われたのだ。
今手元に無くて差し支えなければ後で自分で取りに行けばいいじゃないかと思ったが、人の言うことに従うことだけを覚えた恵はその主張を失っていた。
ドアを開けて中に入ると、明かりのついていない部屋の奥の隅に人影がいて驚いた。確か自分と同じクラスの女子生徒だ。
恵が居ることに気付いてか気付かずか、ノートパソコンを凝視している。名前は確か高千穂(たかちほ)郷(きょう)だっただろうか。思わず恵は声をかけた。
「あの、高千穂さん。何してるの?」
郷はノートパソコンから一瞬目を上げた。その目の奥に宿る光の距離が掴めなかった。恵を拒絶もせず受け入れもしない、そんな印象だった。
やがて郷は再びパソコンに向き直って答えた。
「バイトかな」
答えになっていない。恵は部屋の電気をつけ郷に歩み寄り、再び話しかけた。
「パソコン持ち込み禁止なの知ってるよね?」
「じゃあチクるの?優等生北郷さん」
優等生という単語が胸の奥で鈍く痛んだ。
「別にいいけどね。もしかして私が教室にいないだけで探しに来たの?」
「いや、忘れ物を取りに来たの」
「さっきの授業であなたが座ってた席には何もなかったけど?」
クラスの人の忘れ物だなんて言えない。言ってしまったらその人の人の悪さを暗に晒すようなものだ。
「どうせクラスの人の言いなりになったんでしょ。真ん中の列の一番後ろの席にクリアファイルがあったからたぶんそれ」
不意に恵の胸の内を読まれ一瞬戸惑ったが、荷物を机に置いて言われた通りの席を見ると、白いキャラクターの描かれたクリーム色のクリアファイルがあった。それをとって郷のもとへ戻ると、恵は郷に尋ねた。
「なんで分かったの?その、私が頼まれごとしてるってこと」
「頼まれごと、ねえ。綺麗な言い方してるけどつまりは使い勝手がいいからパシられてるんでしょ」
「そんなひどい言い方…」
「だってその荷物の量ちょっとした頼み事の域じゃないし。認めたら?あんた他人に都合が良すぎる人間だってこと」
郷は相変わらずパソコンの画面から一目も離さず淡々と語る。そんなことは本人が一番わかっているのだ。なのにこの人は遠慮なしにしかも知ったよう口ぶりで人の心を土足で踏み散らかす。
「もう行くね。先生には言わないからもうパソコンいじっちゃダメよ」
恵が荷物を持って教室を出ようとしたとき、郷がその背中に問いかけた。
「北郷さんてご自宅どこだっけ」
唐突に後ろ髪をひかれたような問いに恵は立ち止った。
「そんなこと聞いて何になるの?」
「いや、もし東通りを通って帰るんなら気を付けた方がいいよってこと。あそこにあるファルコンっていうクラブには行かない方がいい」
恵はファルコンの名を聞いて冷たい水を背中に掛けられたような心地になった。
恵は郷の警告には答えず、そのまま演習室を出た。
土曜日
あれは先週の土曜日のことだった。土曜課外、部活を終えて暗くなってから帰る頃、本屋に立ち寄ろうと思った。家の近くの書店に目的の本が無かったので、あまり立ち寄らない東通りを訪れた。暗くなるほど明るさを増すその町は往来も活発で恵の自宅の周辺より多くの店であふれていた。
ファルコンと看板に書かれている店に差し掛かった時だ。恵と同じ学校の制服を着た女子生徒が店先で派手なスーツを着た男と言い争っている。先輩か後輩かも分からないが、恵の知らない生徒だった。
関わるだけで危うそうだと思い、目を逸らしながら立ち去ろうとするも、思いもよらないことにその女子生徒から腕をとられ引き留められた。
「あなた北郷さんでしょ?お願い、助けて」
彼女はすがるような眼で囁いてきた。
「あの、私急いでるんですけど」
「見て分からないの?普通この状況で見て見ぬふりなんてしないでしょ」
何を基準にそんな馬鹿げたことを言っているのだろう。だったらそういう自分は人に迷惑を掛けまいとする意思はないのかと言い返したかった。
「ねえ、もういいでしょ。相手にしないで」
彼女は男たちに言った。
「じゃあ無銭飲食で訴えることになるけどそれでいいの?」
男は言った。
「あんなぼったくりの値段払えるわけないでしょ」
彼女は声を荒げた。
「だからうちは素材の品質にはとことんこだわってるし、本場で十年の修業を積んだシェフが作ってるメニューだからあの値段になるんだって、ちゃんとオーダーの前に説明したよね?」
具体的な値段を伝えず提供後に高額請求することは詐欺で訴えれば勝算はある。しかし彼女にはそれが分からないのだろうか。
「それともこっちのお嬢ちゃんが払ってくれるのか?」
男が冷たい目をこちらに向けながら歩み寄り、肩を掴まれた。恵は心臓が破裂したような恐怖心にとらわれ、小さな悲鳴を上げて逃げ出した。
あの女子生徒も同じように悲鳴とともに走り出した。夢中で駅まで走ったため、男たちが追ってきているかなど分からなかった。しかし肺の中が空っぽになるほど息を切らして走りついた後、駅には自分一人だった。
息が乱れ、脳が酸素を欲しがっている。ゆっくりと呼吸を整え足の震えが止まる頃、恵はようやく冷静になった。
恵はあの店では特に問題は起こしていないし、このまま無かったことにすれば今まで通りつつがなく過ごせるだろう。ただ、買う予定だった本は諦めなくてはならない。
帰宅すると、家の電話に着信が入った。恵が出ると、その相手の声に背筋が凍った。
『こんばんは。北郷恵さんのご自宅であってるよね?』
ファルコンの店員と思しきあの男の声だ。
「いいえ、違います」
『いやいや、恵ちゃんの携帯に“自宅”って書いてある番号だからそうに決まってるじゃん』
恵は言われて電話を持ったまま自室へ走り、鞄の中を隅々まで確認した。無い。無くなっている。
『携帯失くしてるでしょ?だから取りに来て欲しいんだよね』
「最寄りの交番に預けてください」
『そういうわけにもいかないんだよ。ほら、君のお友達が食い逃げしたでしょ?その子と今全然連絡つかないから代わりに頼みごとがあるんだよね』
「そういったことには協力できません。これ以上は通報します」
『じゃあこの携帯は返せないな。ほら、こんな個人情報の塊さ、俺らみたいなのがずっと持ってたら君だけの迷惑じゃないでしょ?』
確かにその通りだった。住所や連絡先が流出すれば共に住んでいる親にも迷惑になる。耳の奥で心臓叫ぶのを聞きながら恵は決心した。
「分かりました。伺います」
『明日日曜日だよね、時間はいつでもいいからよろしく』
日曜日
朝9時、もう二度と訪れたくないファルコンに再び訪れた。日曜だけあって往来の盛んななか、ファルコンをはじめとするいくつかの店は準備中だった。恐らくクラブの一種だろう。
店の前にはゴミ出しに出ている昨夜の男がいた。彼は恵に気付くと笑顔で手招きした。
促されるまま店に入ると、バーカウンターに二人で掛けた。
「携帯を返していただきたいのですが」
「そうだね、けどその前にあの子のツケをどうにかしてもらわないと」
「私あの人と面識無いんですけど」
「いや、そんなのは別に問題じゃないんだよ」
一方的な理屈だ。しかも彼は金銭の償いに金銭を要求しなかった。
「誰のでもいいからクラスメートの財布を盗んでくれないかな。それを持ってきたら携帯と交換してあげるよ」
「そんなことできません!」
思わず声を荒げた。
「できないならいいよ。あとこれ、連絡用にあげとくね」
恵の反論も聞かず彼が手渡したのは、学生が使うにはあまりにも派手で、年季の入った携帯だった。この携帯も他の誰かからくすねたものだと分かった。
「うち月曜は店閉めてるんだわ。だから火曜日によろしくね」
そういって彼はシャンパンを一杯奢ってくれると言ったが、恵は断ってその店を後にした。
水曜日
火曜の約束が何らかの理由で延期になったため、今日中に誰かの財布をくすねてファルコンにもっていかなくてはならない。
最期の授業が終わり、ほとんどの生徒が帰宅した。教室には鞄がひとつ、持ち主は居残って勉強し、職員室へ質問をしに行ったのだろう。今この教室には誰もいない。赤く染まる空が恵の心を急かした。早く終わらせてしまおう。
まじめに勉強している人の財布を自分のために盗む。その思いが頭をよぎって苦しくなった。しかしこの性格ゆえに優等生のレッテルを貼られたのだと思うと、その自己嫌悪を原動力にして鞄の一番外のチャックを開き、革製の財布を取り出した。
恵は自分が息をするよりも速く、それを自分のカバンにしまった。鼓動が激しくなって額に汗が浮かび、足早に教室を後にした。その時廊下に居る誰かにぶつかった。
「ご、ごめんなさい」
恵はその人物の顔もろくに確かめず過ぎ去ろうとした。しかしぶつかった相手が引き留めた。
「ねえ」
聞き覚えのある声で、恵は背筋が寒くなった。
「高千穂さん…」
演習室で出会った時の高千穂は座っていたので気付かなかったが、郷は恵より頭一つ分背が高く、窓から差し込む夕日に照らされたその顔には、まっすぐな鼻梁が長い影を伸ばしていた。
「今帰るの?」
温もりも冷たさもない声で郷が尋ねる。
「うん。行くところがあるから」
「ところでこれ、あんたの?」
郷の手には先ほど盗んだはずの財布が握られていた。恵は足がすくみそうだった。
「うん、そう。ありがとう」
「でもこの中に入ってる学生証はあんたのじゃないみたいだけど」
恵は言葉に詰まった。最もやってはいけない失敗をしてしまった。頭の中がだんだん白くなっていく。
「お願い、見なかったことにして」
「いや、学生証なんて見てないんだけど」
「え…」
「なるほど、盗んだわけね」
「違うの…仕方なかったの。お願い、見逃して」
目の前の郷に対し、自分がかつてファルコンの前で助けを求めていた女子生徒と同じことをやっていることに気付いた。もういっそ無様でも迷惑でも構わない。本能はもはや自分のことしか考えていなかった。
すると、思ってもいなかったことが起きた。郷が財布を返してくれたのだ。
「それ、持ち主に返しときなよ」
そう言うと、郷は恵の脇を通り過ぎていった。
「そよりさ、行くとこあるんじゃない?」
「え?」
「女子高生にシャンパン奢ってくれるいいお店見つけたの。明日一緒にどう?」
そう言った郷の声は、微かな熱を帯びていた。