瓶を売る男 第一話~雨と友~ 1/8
プロローグ
日本のどこかにある海に面した町、K市。さらにその町のどこかにある小さな仕立屋。そこにはこんな噂が流れている。
——その店の店主は魔法使いで、人の心を瓶に詰めて盗むのだという——。
小林Ⅰ
服を着替えることは、一時的に別の自分を作り出すことだ。小林は最近そう思うようになった。
放課後の夕方五時、いつも通りスーツを着て第二客室に入る。これは中学生の小林のために店長が繕ってくれたスーツだ。黒のジャケットとベスト、白いシャツに紺のネクタイと黒のスラックス。中学一年の小林は、初めはスーツを着ると緊張していたが、二か月もこのアルバイトを続ければもう何も感じなくなった。
「おはようございます。遠藤さん」
第二客室に入り、店長に挨拶する。時間帯にかかわらず出勤時は「おはようございます」が挨拶らしい。
第二客室は9畳ほどの広さで、窓も時計も無く、モスグリーンのカーペットに紺の壁紙と、時間感覚を失いそうな内装をしている。部屋の中央にある木の長机には紺色のテーブルクロス、その上には燭台とティーセットが置いてあった。家具は見当たらないが、大きな棚がいくつも設けてあり、その中には大小色とりどりの瓶がしまってある。
「ああ小林、お疲れ」
壁際の棚の整理をしている遠藤がこっちを向いて返事をした。シルバーグレイのスーツに黒のシャツ、赤のネクタイという大人の風格を感じる装いだ。
この遠藤という男が、この店——“TWENTY“の店長である。歳は三十半ばだろうか。ストレートの黒髪をワックスで整え、時々その上にハットを被るときがある。小林がこの店で働き始めて二か月しか経たないが、この男が自分の身だしなみに並々ならぬこだわりを抱いているのが分かる。
当然だ。なにせこの店の表の看板は仕立屋なのだ。
「梅雨だな。今日も朝からずっと降っている。お客さんもお出かけする気分じゃあないだろう」
「お客さん少ないですか?」
「いや、季節の変わり目だから夏用の衣類が売れ始める時期でもある。ただ悪天候というのは人を鬱屈させるものだろう」
「ウックツ?」
「気分が上がらないってことだ。やりたいことがあっても体が重くて何もできず、フラストレーションばかりが溜まる。雨の日が苦手な人にとっては最悪のシーズンだ」
遠藤はそう言ったが、小林にはよく分からなかった。晴れの日も雨の日も、小林の空模様は変わらない。気分はいつだって無色で平坦、温度も無ければ感触もない。この心は未だかつて一切震えたことは無い。
小林とは、そういう少年だ。
「まあ、天気の話はどうだっていい。それより仕事だ。面白いお客さんが流れ着いたぞ」
そう言って遠藤は棚から一つの空き瓶を取り出し、小林に渡した。軽くて小さく、ひどく薄く、そして脆そうに見える。空虚であるだけで精一杯の瓶だ。何かを詰めればすぐ壊れそうだ。
「この瓶、すぐ壊れそうですね」
「ああ、そうだな。その人の心には何もないように見えて、逆に今にも張り裂けそうなほど手一杯なんだろう。正体の見えない不安に苦しんでいるようだ」
大いなる不安を、そのまま体現した瓶。薄氷のように薄く、羽のように軽い。息を吹きかければ壊れそうなほど脆いその瓶は、まさに己を削り続けた何者かの心を表していた。それがこの店に流れ着いた。
この店にはこういった瓶がよく流れ着く。誰かの心そのものが瓶の形を借りて漂着するのだ。
この瓶は誰かの思い残しや悔恨、不安や苦手意識、憎悪や渇望。目に見えない“心の要素”を満たし、その人を苦難から解放するための道具だ。瓶の中身や持ち主は、瓶に情報として刻まれている。
「今回の仕事もその瓶を満たすことだ。必要なら瓶の持ち主と接触しても構わない。その持ち主の苦しみを晴らすほどに瓶は満たされる。適切な内容物で瓶を完全に満たせば仕事は完了だ」
「瓶の持ち主の情報は?」
「調べてあるぞ。これだ」
遠藤は机の引き出しから一冊のファイルを取り出し、小林に渡した。瓶の持ち主、すなわち心の持ち主の情報だ。名前や職業、住所や経歴、まるで履歴書のように詳細に記されている。ここまで詳しい情報は瓶に刻まれた精神の情報だけでは読み取れない。小林や遠藤とは別の職員の仕事だ。
小林は瓶を鞄にしまい、外出の準備をした。
「では、行ってきます」
そう言って小林は部屋を出た。魔術師の弟子が、今日もひとりK市を歩く。