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瓶を売る男 第二話 ~情熱伝導~

瓶を売る男 第二話 ~情熱伝導~
著:増長 晃


小林Ⅰ

 七月の今日は終業式だった。つまり明日から夏休みである。夏休み期間中も小林はこの店でバイトをすることになっている。TWENTYで着る制服も夏服となり、半袖シャツにノーネクタイといった格好である。学校の制服の夏服とまるで変わらない。
 服を着替えなければ気分が混在してしまう。学校にいるときは学校の制服を、バイト中はバイトの制服を着なければ、自分がこの世界の異物になってしまったような錯覚をするのだ。だから小林は店主の遠藤の許しのもと、ベストを着用している。喫茶店のウェイターみたいな格好だ。
 ひとまず気分はバイトモードにしっかり切り替わった。ロッカーを出て第二客室に入る。
「遠藤さんおはようございます」
 第二客室は相変わらず現実から切り離された別世界感のある部屋だった。9畳ほどの限られた空間の四方を背の高い棚が占め、その全てを大小色とりどりの瓶が、溢れんばかりに収まっている。壁に窓や時計は無く、外の音も一切入ってこない。耳に入るのは呼吸や衣擦れだけだ。
 部屋の中央に応接用のテーブルがあり、紺色のテーブルクロスと応接セット。普段は遠藤がそこにいるが、今回はどうやら他の人物がいる。テーブルに汗をかいたカップが二つ、どちらもアイスコーヒーだ。
「おう、来たか小林」
 振り返ってこちらを見たのは店主の遠藤だ。ネイビーの半袖シャツを着て、ワックスで短く切った黒髪を整えている。夏仕様の遠藤を見るのは初めてだが、相変わらずフォーマルで清潔感のある着こなしだ。そんな彼と向かい合って座る男が一人、中年の男がテーブルをはさんで向こう側に座っている。
「そうそう中村さん、この子がうちのバイト二号だよ。小林っていうんだ。よろしくな」
 中村と呼ばれた男は「どうも」と一言発してこちらに頭を下げた。小林も会釈を返す。中村は四十半ばに見えるが、まっすぐな座り方や肩幅の広さ、何より真一文字に結ばれた口元と強い目力から、芯の強さを感じ取った。生きることに疲れくたびれた大人とは違う、自分の中に確たる強さを有する人だ。
「アルバイトの小林です」
「K県警察本部、刑事課、盗犯係、中村警部補だ」
 中村はそう言って名刺を差し出した。小林はそれを受け取ると—正しい受け取り方が分からなかったが—、遠藤が横から口をはさんだ。
「中村さんは表向きは警察の方なんだが、今日は別の仕事なんだよ。この人は“結晶協会”の一員でもあるからな」
 “結晶協会”とは、遠藤のように霊素結晶を扱う専門業者が加入を義務づけられる団体である。遠藤は霊素結晶で瓶を作り、人の心を売り買いする。そういった店には結晶協会の管理が必要なのだ。
「で、中村さんはこの店の監査に来られたってわけだ」
「カンサ?」
「うちの店でルール違反が無いか調べるってことだ。つまり、穏便に済む話だろ」
「たわけたことを。遠藤ともあろう男が規約違反の一つも犯さん方が異常だ。叩けば、いや、叩かなくても埃が出る」
 中村がため息交じりにそう言った。調べなくても遠藤の規約違反を確信するあたり、遠藤は誰が相手でも“いつもの姿勢”を崩さないらしい。
「おおなんてひどいことを言うんだ、親愛なる中村警部補。貴方がこのK市の管轄になってから俺は一切の振る舞いに節度を持たせ、慎ましく真摯にこの仕事をしているというのに、いったい何が貴方の貴重な信頼を損なったというのか」
「先月だったかな。瓶を持った少年二人が土砂降りの中走っていたところを目撃してな。あの瓶はどう見ても霊素結晶の瓶だったし、蓋を開けた瞬間瓶が消えた。お前の店の商品だろう?」
 先月の瓶——。かつての客である坂上と小林が瓶を抱えて走っていた時のことだろうか。(第一話参照)あれを目撃されていたのか。中村がこちらを見つめている。しかし中村は一瞬だけ訝しく首を傾げ、視線を遠藤に戻した。
「新しいバイト君は、表情が変わらんのだな。お前がこの子の感性を盗んだのか?表情が無ければ、隠し事もし易かろう」
「そんなひどい。俺は人から性格や人格の一部を不当に盗んだことなど一度もない。ましてやこの店の都合のために人様の大切なものを盗もうだなんて」
 遠藤は声に悲壮感を含ませて言った。遠藤は人の記憶や感情を盗み、あまつさえ飲んだり飲ませたりしたことがある。しかもそれを旨いと言って愉しんでいた。まさに叩かなくても埃が出る男である。中村はそのような遠藤の人柄を知っているのだろう。それにしても、小林の表情の乏しさをこのような形で心配されるとは、遠藤の悪評のすさまじさというべきか、それとも小林の人間味の薄さというべきか。
「とにかく貴方の証言だけじゃあ当店の不正を証明できまい」
「では、この動画を見てもらおう」
 そう言うと中村はスマートフォンを取り出し、二人に動画を見せた。ひどい土砂降りの映像だ。奥から二人の少年が走る様子が撮られている。前の少年が抱える瓶を後ろの少年に投げて渡し、前にいた少年は画格から消える。そして三人目の少年が映り込み、ややあって瓶の蓋が開かれた。やがて瓶は空気に溶けるように消え、片方の少年が突然頭を下げた。
「この映像は?」
「先月中旬、場所はこの店のすぐ近くだ。三人の少年の内一人は背格好がこのバイト君に相当する。そして映っていた瓶は見たところ、霊素瓶。この店の瓶だ」
「土砂降りのせいで音も顔も不明瞭だし、背格好だけで人を判断するなんて警察らしくない。それに霊素瓶の取り扱いは結晶規約に従っているだろう?どこが違反だというのか」
 遠藤が冷静に反論する。対する中村もまた冷静だ。
「霊素瓶の扱いの規約は、霊情報の取引に双方の同意が必要であること。片方でも同意せずお前が無断で心や人格を瓶に詰め、盗み出そうとすれば規約違反だ。この動画にはその疑いが示されている」
「規約内容は知っている。俺はそんなことしてないし、その動画の証拠能力は不十分だろう?」
「だから、監査するんだ」
 そこまで言うと中村はアイスコーヒーを一口含んだ。そして再びこちらを一瞥する。
「それにしても、この坊やはまるで動揺しないな。まるでお前のようだ」
 遠藤みたいだなと言われた。心外だ。すごく心外だ。
「おい小林、お前さっきから馬鹿にされてばかりだが、ようやく褒められたぞ」
「御冗談を。僕なんか貴方の足元にも及びたくもないので」
「それを聞いて安心した。君はまだまともなようだ」
 中村がそう言うものの、表情は険しいまま変わらない。微笑を浮かべているのは遠藤だけだ。
「ひとまず監査の件は了承したよ。日時が決まったら連絡してくれるんでしょう?」
「ああ、今回も俺が担当だ。前回はごまかされたからな。今回は徹底的に洗わせてもらう。あのバイトの少女はもういないからな」
 中村はそう言ってコーヒーを飲み干すと、遠藤は微笑んで肩をすくめた。バイトの少女とは誰のことだろう?そういえば小林はバイト二号と呼ばれていたから、小林の前にバイトをしていた人がいるのだろうか。
「では失礼する。見送りは結構だ。監査は遅くても今月中になるだろう。君もあまり無理をするなよ。この男に悪い影響を受けるな」
 そう言って中村は立ち上がった。普段は警察であり、片や結晶協会の監査官。人を取り締まるという仕事柄か、他人に厳しくなりがちだが彼個人は温情を重んじる一面もあるようだ。二人に一礼して踵を返すとき、遠藤が口を開いた。
「中村さん、その靴は古そうだ。よろしければうちで新しく買っていきませんか?」
 この店TWENTYは表向きは仕立屋だ。無論、靴も扱っている。中村が履いている革靴は、この店で見たことのあるものだ。
 遠藤は立ち上がって中村に歩み寄り、一通の封筒を差し出した。黒地に金の表記でTWENTYと書かれている。
「当店の無料利用券だ。初回限定一名様限り。だが貴方は次のご来店を初回にカウントしよう」
「賄賂か?くだらん。貰っておくが、約束はせんぞ」
 遠藤から封筒を受け取り、鞄に仕舞って中村は背を向けて言った。
「靴はまだ履ける。この店が食い扶持を失った頃に、仕立屋の客として来よう」
 中村は背中で答え、そのまま部屋を出た。

「あーあ、監査かぁ」
 遠藤が椅子に座って背伸びしながら言った。
「で、どうする小林」
「何をですか」
「監査対策だよ。もちろん何もしなくてもこの店は法律を遵守しているが、念のため、あのオヤジが悪意を持ってこの店を潰しに来ないとも限らない。少しぐらいこっちが有利に傾くことをしなきゃならん」
 この国の法律に、人の心を瓶に詰めて売ってはならないという法律は無い。しかし法律で定めるまでもない善悪はある。
「おう小林、選ばせてやる。中村の弱みを握って黙らせるか、恩を売って黙らせるか」
「どっちにせよ中村さんを黙らせる方向なんですね。不憫だなぁ」
「そうだな。ちなみに俺は前者がいい」
 遠藤が笑って言った。もはや逃げも隠れも、しらばっくれるのも面倒になったという風だ。
「後者がいいです」
 小林が答えると、遠藤が立ち上がり、瓶の棚に歩み寄った。
「こっちに来い」
 温もりも冷たさもない声で遠藤はこちらを呼んだ。小林が近づくと、小さなリングケースをこちらに差し出した。黒地に、金の印字でDear TWENTYと書かれている。
「やるよ」
 遠藤が微笑んでそう言った。ケースを開けると、中には小さな赤い宝石が埋め込まれた銀の指輪があった。
「赤い霊素結晶はレアだぜ。最初の持ち主の魂に共鳴する。つまりお前専用の指輪だ。人前で着けるなよ」
 そう言うと、遠藤はこちらに左手を見せた。その中指に、先ほどは無かった指輪があった。小林が受け取ったものと同じ、赤い霊素結晶の指輪だ。この店の瓶もまた、霊素という同じ素材でできている。小林も同じ位置に指輪をはめてみた。少し重くて固い異物感がある。
「じゃ、今日も仕事だ」
「中村さんのことはいいんですか?」
「それもあるし、通常業務もあるだろ。今日のお客様はこれだ」
 そう言って遠藤は一本の瓶を棚から取り出した。この町のどこかに住んでいる誰かの、行く当てのない心の空洞が、瓶の形になってこの店に流れ着く。それも満たし、心の持ち主に返すのがこの店の仕事だ。その手段として人の心を売り買いすることもあるが、今回はどうなるだろう。
「その指輪があれば瓶を通じて瓶の持ち主の情報を読み取ったり、その人の霊情報を入れる瓶を作れる。試しにその瓶の持ち主を見てこい」
 受け取った瓶は見た目より軽く、傷も濁りも見当たらない。不気味なほど綺麗だ。瓶のラベルには、“│佐々木《ささき》│小夏《こなつ》”と書かれてある。
 この瓶が持ち主の心を表しているとすれば、彼女は心に傷も汚れも抱かず、しかし満たされぬまま正体の分からぬ苦しみを抱いているという事だ。
 心に痛みも感じず、何の苦しみも知らない。なんだか自分に似ているなと思ったが、そこに一切の感慨は無かった。

中村Ⅰ


 K市は毎年八月、K│夏祭《かさい》という夏祭りがある。祭りの時期は警察の仕事が多い、交通課はもちろん、祭りの現場は窃盗犯罪が通常より起きやすい。祭りはまだ先だが、これから忙しくなるため今抱えている仕事を減らしておく必要がある。
 中村が退勤したのは深夜十一時を回るころだ。明日も朝八時から仕事があるというのに、家に帰らず署に泊った方がいいような気がしてきた。しかし腹が減ってしまった。とりあえず中村は署を出て最寄りのコンビニに足を運んだ。
 同じ店でも深夜のコンビニは日中とまるで違った顔を見せる。そこにいる人間が違うからだ。夜勤の店員も、この時間に利用する客も日中とはタイプが異なる。店員は一人、商品の補充をしている。客は自分の他に女子高生一人と、小さい子を連れた不良夫婦が一組。
 刑事の勘というのは、無いようで、ある。犯行を起こしやすい条件が揃った場に出くわすと、無意識に警戒してしまうのだ。
「こんばんは」
 一人の女子高生に、中村は背後から声をかけた。返事は無い。しかし彼女の手は止まった。その手に握られた板ガムは、かごに入れるふりをして左手の袖に入れようとしていた。
「それを戻せば誰にも言わない」
 中村に言われ、少女は右手に持っていた板ガムを棚に戻した。夜とはいえ、七月下旬だというのに長袖のパーカーを着ている。棚に向かうのではなく横に立っていた。防犯カメラに背を向ける立ち方だ。
「よし、それでいい」
 少女は何も言わず、微かに震えていた。
 歩き方からして怪しかった。人の視線に敏感な素振りで、空のかごを提げて同じ場所にずっと立っている。手は動いているが、かごの中身が増えない。ただの買い物客の立ち居振る舞いではない。刑事課の目から見ればなおさら訝しい。
「その制服、K西高か?」
 中村が問うと、少女は頷いた。しかし中村は小さく笑って言った。
「君の丈に合っていない。それに鞄と制服が違う学校の物だ。他人の制服だろう?」
 少女は答えない。中村はため息をついて口を開いた。
「すぐに店を出よう。ご両親を呼んでここに来てもらうんだ。それまで一緒に待ってやる」
「お願い、親には言わないで」
 微かに震える声で少女は言った。しかしその声は震えていたものの、一切の温度を感じない。
「わかったよ。店の外にタクシーを呼ぶ。その前にちょっとだけ買い物をするからな」
 お茶とプリンを二つ買い、レジ袋を提げて店を出た。駐車場の隅、街灯も店の照明も届かない闇の中に彼女はいた。
「ちょっと待ってくれ、タクシーを呼ぶ」
 中村は携帯を取り出し、タクシー会社に電話をかけた。その間この少女について考えていた。下手な万引きだ。初犯ではないが、慣れていない。周囲に同学年と思しき者はいなかった。誰かに命令されてやったわけではない。気になるのは他校の制服で偽装したことだ。服の丈が大きすぎる。その不自然に自分で気づかなかったのか。それとも何か理由があったのか。
「あと十分で来るそうだ。ほら、食いな」
 そう言って中村はプリンを差し出した。少女はこちらに一瞥もしない。先ほどのように怯えてもいない。闇の中でも無表情が分かる。呼吸をしているのかも怪しいほど静かだ。
「なんでこんな時間に外に出ていたんだ?君は未成年だろう」
「別に」
「どこの学校の子だ?」
「なんでそれ言うの?」
「防犯のためだ」
「警察みたい」
「警察なんだよ。警部補の中村だ」
 中村は名刺を渡した。名刺を受け取った少女が一瞬だけそれに目を落とし、ポケットにしまって再び闇を見つめ始めた。
「君がここや他の店に迷惑をかけないために学校に連絡をしなきゃならん。何より、君みたいな若者を犯罪者にしないために、話を聞きたいんだ。青少年の深夜俳諧は犯罪に繋がりやすいからな」
「…佐々木」
「ん?」
「佐々木小夏」
 少女は小夏と名乗った。着ている制服は本人の物ではないのだろう。どこの生徒なのか分からない。
「そうか。この辺に住んでるのか?」
「さぁ」
「こんな時間に出歩いていた理由は?」
 煙草に火を点けながら中村は聞いた。ケント6ミリの最後の一本だ。さっきのコンビニで買っておくべきだった。
「退屈だったから」
「退屈なら寝てろ。あるいはネットかゲームでもしとけ。その方が万引きよりずっと健全だ」
「それにも飽きたの。全然楽しくない」
「万引きは楽しかったか?」
 言うと、小夏は黙った。
「夏休みなのはお前たち高校生だけじゃない。他県の大学生が帰省したり、あらゆる問題児が活発になるからトラブルも起きやすい。特に夏の夜は涼しいから外出する連中も多い。君が巻き込まれないために、深夜はおとなしくしてほしいんだ」
 小夏は相変わらず無言だ。年上の説教に納得した様子は無い。
 ふと中村はさっきのコンビニに目をやった。子連れの不良夫婦が騒がしく店から出てくる。小夏はその家族を一瞥し、すぐに目をそらした。興味がなさそうだ。
 近年、非行少年は減少傾向にあると言われているが、そんなものは見え方の問題だ。青少年の問題行動に気付きづらくなっただけで、SNSやソーシャルコミュニティでは少年たちの蛮行が蔓延っている。
 情報化社会の負の影響だ。有害な情報に触れやすくなったり、そう言った人間と接しやすくなったこと、またネット上であれば罪の意識が軽くなること。たしかに刑法に触れる非行は減っているが、それは決して、青少年の精神の成熟度が上がったからではない。
 ネットやゲームには飽きた。もう楽しくない。先ほど小夏はそう言った。彼女が重度のネットユーザーである可能性は十二分にある。そういった人間は時として、自分を構成する要素を他者に依存することがある。細胞の代わりに、他人の情報で自分を作るのだ。
 自分の血肉より他人から借りた要素を武器にする。中村はそう言った人間に嫌悪がある。なぜ自分の強さを信じない。なぜ返しもしないくせに他人の力を頼り続ける。借りたものに依存する。そんな人間は、弱く見える。
 お前のことだぞ。遠藤。
「お、タクシー着いたな」
 中村が言うと、小夏は目を上げた。眩しいヘッドライトが駐車場に入り込み、二人の側で止まる。ドアが開き、小夏が中に入る。
「すみません、これでお願いします。お釣りはその子にあげて下さい」
 中村が運転手に二万円を渡しながら言った。
 そのまま小夏と何も言わず、タクシーは発車した。運転手に行き先を伝えているようだが、相手の目を見ず、窓の外の暗闇を見つめていた。そこで違和感を覚えた。スマートフォンを持っていないのか?
 中村は小夏が重度のネットユーザーであると思っていたが、彼女は一度もスマートフォンを見ていない。それどころか、渡した名刺も一瞬だけ見てそれ以外はずっと暗闇を見ていた。膨大な情報の海に汚染されたのではない。むしろその逆で、虚無だ。
 虚無の少年。TWENTYでのことを思い出した。この少女は他人に依り続け混沌に溺れる遠藤というより、どこまでも虚無な小林という少年に近いのではないか。
 気付けばタクシーは光の尾を残して遠くへ消えていた。音も光もない、静かで冷たい闇の中に身を投じられた気分だ。
 これが現代の若者のいる世界、その一つか。

小林Ⅱ

 この店は十一時開店、夜八時閉店だ。小林は普段、夕方五時から八時までのシフトに入っているが、夏休みに入ったことで小林はフルタイムで働けるようになった。最近知ったことだが、中学生のアルバイトは労基で禁じられているらしい。その点この店は監査で一発不合格になるのではなかろうか。
 そして今小林が何をしているかというと、女性用の浴衣を着せられ、そして女性用のメイクを施され、写真を撮られてネットで晒されている。
「よしよし、いい感じだ」
 満面の笑みを浮かべるのは遠藤だ。どうやらこの夏の期間中、紳士服だけでなく浴衣も仕立てるらしい。その宣伝のため、小林をモデルとするようだ。小林は線が細く少年の割に顔が整っている—と遠藤が言っていた—ので、女子学生向けのモデルに最適なのだという。色とりどりの浴衣を何着も着せられ、顔を何度も変えられた。異性の格好をさせられる不快感は無かった。メンズの浴衣の写真も撮られたが、レディースと同じ気持ちだった。
 ちなみに大人用のメンズとレディースの浴衣は遠藤本人がモデルとなり、小林が写真を撮った。遠藤は普通の男性より少し背が高く肩幅も広い。それなのに女性の浴衣を着てメイクをした途端、その佇まいは女性の物となる。加えて自分の線を細く見せるカメラの角度や、帯の結び方に工夫があるのだという。遠藤の元々の体格と浴衣を着た際の線の細さを比較する写真を撮り、それも宣伝した。たちまちホームページに女性客の予約が殺到したという。
 浴衣はオーダーメイドとレンタルの二種類あり、レンタルは学生でも手を付けやすい値段である。そのため、同級生も何人か客として来た。ゆえに遠藤は、小林の身元がばれないように小林を変装させた。
「中学生が働くのは労基違反なんだ。だからお前を変装させるし、俺の親戚ってことにするぞ」
「それは分かりますが、なんで僕が女装なんですか?」
「宣伝になるからだ」
「じゃあなんで遠藤さんは紳士服なんですか?」
「宣伝になるからだ」
 小林は藤色の浴衣を着てロングのウィッグを被り、簪まで着けられた。対して遠藤は半袖の白シャツにベスト、首からメジャーを垂らすいつものテーラースタイルだ。
 生きた看板となった小林は女性客の注目の的となった。中にはツーショットをせがまれ、SNSに上げたいと言い出す客もいた。遠藤の承諾を得て小林は了承したが、なんど写真を撮られても、小林は笑顔になれなかった。「人形みたいでミステリアスなのが良い」という感想を貰ったが、それなら人形に服を着せて立たせればいいのではないかと小林は思った。
 その日は看板だけでなく客の案内や予約の受付などあらゆる業務をこなした。浴衣は重い。一日中浴衣で仕事をしていれば額に汗が浮かび、それを拭うとメイクが崩れる、ということが何度もあった。そのたびに遠藤が直すのだ
 そんな忙しい一日の夕方、客足が減ってきたころに休憩に入った。小林はいつものスーツに着替え、メイクも落とした。
 これから遠藤から、特別授業がある。貰った指輪の使い方と、“霊素”の理解を深めるものだ。

 霊素、それは霊魂を形成すると言われている物質で、生き物の体の外では結晶として存在する。その結晶を材料に瓶を作り、取り扱うのがこの店TWENTYである。
「霊素が観測されたことは無い。電子顕微鏡やx線でもその姿を捉えることはできない。ただ霊的な世界に繋がりを持つ太古の特殊な能力者のみがその存在を知覚できる。平成の日本では関係ない話だ」
 遠藤はそう言いながら第二客室の瓶の作業をしていた。大小様々な瓶の中身を移し替え、漂着瓶を消費している。あれは誰かから買った感情を漂着瓶に移し、その漂着瓶に対応する持ち主の心を満たしているのだ。
「霊素に対する解釈はいろいろあるが、俺たち結晶協会の人間は霊素を粒子の一種だと解釈している。その粒子による結晶格子—つまり結晶の立体構造—の形に応じてそこに刻まれる霊情報—記憶とか感情みたいなやつだな—を記録する。ここまでついてこれるか?」
「粒子って何ですか?」
「あー、目に見えないほど小さい粒だ。今は使い方だけ理解できればいい」
 霊素や瓶については何度説明されても理解できない。ひとまず霊素がたくさん集まれば生き物の内部で霊魂として形成されることが分かった。それが生き物の外に出たら物体になる。その物体を瓶の形にして人の記憶や感情を封入できるらしい。
「霊素が霊魂を作るなら、この瓶は誰かの命から作られてるってことですか?」
「いや、霊素は自然界にいくらでも存在する。というより常に生き物から出たり入ったりしているんだ。人体でいうと、常に新しい水分と古い水分が入れ替わるようにな。生きた人間から取り出すようなことは決してしない。不可能だしな」
 遠藤は瓶を棚に戻すと椅子に座り、コーヒーを一口含んだ。遠藤によって中身を満たされた霊素瓶は少し小さくなった。遠藤曰く、ある程度漂着瓶を小さくすれば—つまりある程度その人の心の空白を埋めれば—自分でそれをケアできるケースが多いらしい。現に遠藤によって小さくされた漂着瓶は、みるみる小さくなっていき、もう無くなりそうである。
「だから小林。くれぐれもその指輪や瓶を使うときは慎重にな」
 珍しく遠藤が真剣な顔でこちらを見た。
「どうしてですか?」
 小林が問い返すと、遠藤は同じ表情で答えた。
「本来なら人の記憶やそれについての心情は見えないし、触れられないものだ。だがうちの店の瓶はそれを可能にする。他人の心に触れるし、この目で見れるし、なんなら他の誰かに譲ることもできる。人の心が本来何であるのかを見失いがちだ。そういった意識が希薄になるのがこの仕事だ。だから覚えておけ小林。心は物じゃない」
 そう思うならなぜ心の売り買いをしているのだろう。小林はそう思った。たった今目の前で誰かから買った心の一部を他の誰かの瓶に移し、その人の空白を埋めたではないか。人の心を物として処理したではないか。言っていることとやっていることが伴っていない。そう考えていたら、遠藤が椅子から立ち上がってこちらに小瓶を手渡してきた。
「まぁお前は分別のある子だから特に問題は無いだろう。人の心云々はどうせお前には難しい。それよりこれをやる」
「何ですか?」
「俺の記憶のコピーだ。霊素結晶があれば記憶の複製を瓶に入れることもできる。この瓶に霊素瓶の扱い方の記憶を入れた。最初はこの瓶で指輪の使い方を覚えろ」
「それって貴方の一部を物扱いしてませんか?」
「手続き記憶に人格があるか?自転車の乗り方なんてみんな同じだろ。それと一緒だ」
 技術や能力に関する記憶は手続き記憶という分類に入るらしく、霊素瓶にはこういった記憶を入れられるらしい。小林が受け取ったこの小瓶には、遠藤がもつ霊素瓶の扱い方の記憶が入っており、この瓶を開ければその記憶が手に入るのだそうだ。
 つまり遠藤の霊素瓶の扱い方の記憶はそこまで遠藤の人格の含有量が多くない。データをUSBに入れて他の端末に覚えさせるのと同じだ。
 学ばずに覚える。賢い人の記憶を盗めば学校の試験で楽ができそうだなと思った。それを見透かされたように、遠藤は言葉を継いだ。
「言っておくが“覚えること”と“身に付ける”ことは別だ。俺の技量は“貸す”。お前自身にその技量を馴染ませるには実戦経験が要るぞ」
 遠藤はそう言って、こっちを向いて左手でコップを掴む形を作り、それを飲むふりをした。小瓶の中身を飲めと言っているようだ。小林は小瓶の蓋を開け、遠藤の記憶を飲んだ。
 まるで目覚める前の夢を思い出すように、見たことが無いはずのあらゆる“理解”が頭に入ってきた。人間社会の空白を満たす霊的な粒子を掴む感覚と、それを人の心に共鳴させて瓶を作る記憶。左手の指輪の異物感が少しだけ軽くなる。
「感想は?」
 薄ら笑みを浮かべる遠藤が尋ねた。
「はやく試したい」
 言うと、遠藤は小さく笑った。
「節度は守れよ。行ってこい」
 小林は小夏の漂着瓶を持ってロッカーに行った。早く着替えて、彼女を見つけたい。それは覚えた技術を実践したい焦燥に似て、逆に突然覚えたばかりの技能に対する恐怖を和らげようとする防衛意識にも思えた。

中村Ⅱ


 夏祭りまであと三日だ。今日も遅くまで残業したが、これで山積みだった仕事のほとんどが片付いた。デスクに就いた中村は大きく腕を伸ばし、肩回りをほぐした。時刻は夜七時。歳をとると残業したくても体がもたない。仕事がおおよそ減ったとはいえ、体力は限界だった。区切りのいいところでパソコンを閉じ、中村は退勤した。
 夜七時だというのにこんなに窓の外が明るい。不思議な時間感覚になるこの季節が、中村は気に入っている。

 重く固まった肩をほぐしながら駐車場に向かった。そういえばTWENTYへの監査の日程が正式に決まったのだ。結晶協会役員。人知れず中村が務めている副業だが、この仕事との出会いのきっかけは少年時代の遠藤だ。思えば遠藤の若いころはいつも波乱に満ち多忙であった。自分が刑事として、結晶協会役員としても未熟であったことと、勢い盛んな遠藤の悪事を取り押さえるのに追われていた。おかげで窃盗犯罪の取り締まりに強くなり、結晶協会の副業に片手を塞がれても警部補にまで上り詰めることができたが、最近はどうも、熱が冷めてきた。
 何のために仕事をしているのか。なぜ自分は刑事なのか、答えの無い無駄な問いに余計な時間がとられるようになった。朝早く出勤し、いつもの仕事を処理して、いつもの昼食を摂り、いつもの仕事仲間と会話し、いつもの道で帰る。その繰り返しだ。最近は息子も愛想が悪く、それで妻も居心地が良くない。家に帰っても父親というのはあまり家族から歓迎されない。
 若い頃はもっと充実していたような気がする。しかしキャリアを積むにつれて職務への希望が色褪せるのもあるだろうし、だんだん自分の限界が現実的になってくるのだ。仕事が日に日につまらなくなってくる。かといって辞めようと思うほど冷めてもいない。
 このどっちつかずの気持ちを抱えたまま生涯を終えるのだろうか。深くそう考えぬよう雑念を振り払いながら駐車場に付き、愛車に乗った。

開催場所である中央通りには祭りの看板が立ち並び、市民も浮足立っているようだ。特に若者たちの雰囲気が明るくなったなと、通勤中の中村は思った。
 帰省の時期でもあり、つまり家族や旧友との再会である。その思い出を彩るのも祭りの役目である。中村はK市の生まれで、妻子もこの町にいる。地元の祭りに対し、郷愁の類はあまり感じない。
 中村は帰路にあるコンビニに立ち寄った。煙草を切らしたのだ。
 中央通りに面したコンビニに車を停め、財布だけ持って入店した。店は仕事帰りのサラリーマンや運動部の学生が多い。ピーク時に来てしまった。レジに列ができている。中村は仕方なくその列の一番後ろに並んだ。すると、一人前にいるサラリーマンが背中を向けたままこちらに話しかけてきた。
「おや警部補、こんな時間までお仕事でしょうか。ご苦労様です」
 人をからかうような上ずった声がした。ああ、こいつはサラリーマンではない。あいつだ。
「お前こそ、営業時間は八時までのはずだが、仕事はサボってきたのか?遠藤」
 遠藤は肩で笑った。
「運悪く煙草を切らしてしまったもので。それより手ぶらでレジに並ぶとは、まさか警部補、コンビニ強盗でもしに来たのか?」
「お前こそ手ぶらだろうが。俺も煙草を買いに来たんだよ。お前の方こそ万引きでもしてないだろうな」
「まさかまさか、万引きするならせめて事前に店の人に伝えてから盗むさ。その方が盛り上がるだろう?」
 遠藤は浮ついた声で笑いを含ませながら言葉を返してきたが、中村は何も言わなかった。
「中村さん、前回とは違って、俺は逃げも隠れもしない。正直な姿で監査に臨むつもりだ。“あの子”と違って小林は隠し事が上手くないし、きっと向いていない。もし監査の結果、あの店が表向き通りただの仕立屋になったとしても、俺には俺のやり方がある」
 一度も振り返らずに遠藤は語った。人をからかう声色は感じなかった。
「どうだかな。お前のことだ。一万通りの誤魔化し方を用意しているだろう」
「そのうち九千九百九十九通りはあんたに見抜かれるさ。俺のことは熟知しているだろう?」
 遠藤の言う通り、遠藤の人柄は理解しているつもりだ。遠藤はよく噓をつくし、屁理屈や誤魔化しをいくつも知っている。この男については何も信用できない。ただ確かなことが一つある。こいつは相手の目の前でしか嘘をつかない。
「言ったなコソ泥。そう言うからには全力ですべてを調べ上げてやろう。逃げも隠れもせんというなら、結晶協会から永久追放されるほどの証拠を見つけてやる」
「やだなあ警部補殿、初心を忘れたのかい?相手がクロだと決めつけて捜査すればすべてがクロに見えて、真実を見失いがちになるだろう?公平に調査しないと」
「たわけが。お前は疑ってかかる方がちょうどいいわ」
「まったく、ひどい人だ。俺は善良な人間だぜ?その例を見せてやる」
 話しているうちに前の客が会計を済ませ、遠藤は列の先頭に立っていた。
「すみません、ケントの6ミリってあといくつあります?」
「おい、やめろ!」
 中村は小さく叫んだが、遠藤は振り向かなかった。レジの店員が煙草の残りを数え、遠藤に向き直った。
「すみません、あと三箱だけになります」
「じゃあ三箱下さい」
「遠藤!お前!」
 中村は大きなため息をついた。ケント6ミリは中村が愛煙する銘柄だ。それが遠藤に最後の在庫を買い占められてしまった。
 会計を済ませ、遠藤が振り返って笑みを見せた。
「ほら善い行いもするだろう?あんたを肺癌から守って差し上げた。俺のお気に入りとは違う銘柄だが、たまにはこういうのも新鮮だろう。では、おやすみ」
 不愉快な笑みを浮かべた遠藤が店を出た。どうしてくれるんだあの野郎。
 仕方なく中村はアイスコーヒーと、ケント6ミリのスリムを買った。

小林Ⅲ

 見つけた。理解より先に確信した。夜七時中央通り、小林より年上の少女が一人で歩いていた。薄手の紫のパーカーを着ているが、その下は学生服だ。おそらくK高校、夏休みのはずだが、学校で用事でもあったのだろうか。
 遠藤から“借りた”技術で漂着瓶の脈拍を掴み、それと同じ脈拍を持つ人間を探した。見えない糸に引かれるように、瓶の持ち主の居場所を掴むことができた。この広いK市で、記憶でできた羅針盤を頼りにただ一人を特定した。そしてその一人に近づくにつれ、彼女の居場所は明確に分かるようになった。そしてここ中央通りにて、ついに見つけた。
ひとまずあの少女こそが佐々木小夏で間違いなかった。理由のない確信に小林は強く従った。指輪の反応が店に流れ着いた瓶と同じだからではない。もっと人間的な核心部分で悟っていた。あれはおそらく、小林の同類だ。
「あの、すみません」
 肩にかかる短い髪の少女が振り返った。小林が無意識に声をかけたのだ。小林より背の高い彼女が温もりの無い眼差しでこちらを無言で見下ろす。小林は焦った。何の用意もなく気が付けば声をかけていたのだ。何を言えばいいのか、何を聞けばいいのか、まるで分らない。こんなに焦ったのは今までで初めてだ。小林の仕事のことは言わない方がいい。だとしたらどのように会話を切り出すのか、あるいはこのまま立ち去るのか。そうしたら仕事がしづらくなる。そうだ、仕事だと思えばいいのだ。
「僕、今とあるお店でアルバイトしていて、それでアンケートに答えてほしいんだけど、今から時間大丈夫?」
「何そのよくあるナンパの切り口」
「え、そうなの?」
 しくじった。この仕事はきっとうまくいかないだろう。ではもう仕方ない。仕事より自分個人の興味を優先してやる。
「僕と貴女は、同類だと思う」
 小林と向き直った彼女は表情を変えず、こう言った。
「で?」
 ああ、やはりそうだ。この人は自分と同じだ。心に何も入っていない、人の姿をした空虚。自分は何者でもないし、何者にも慣れない。確信に近いそれを抱いている人間だ。ようやく出会えた。自分と同じ胸の内を持つ他人。同じ気持ちを共感できると、過ぎた期待を抱いた。
得も言えぬ昂り、内から湧き上がる不明瞭な衝動。求めているのは、この人と時間を共にすること。
 初めて自分と似た人間に出会った。それは確かに小林の興味を引いた。だがこの激しい思いはなんだ?昨日まで無かったこの感情はいったいなんだ?
 そうか、遠藤だ。小林は遠藤の記憶の瓶を飲んだ。遠藤の記憶や能力が彼の人格の一部であるなら、遠藤の人格の一部を取り込んだことになる。小林は自分に“自分らしさ”が無いことを知っている——それが苦にすらならないほどに——。ゆえに遠藤の人格の影響を大きく受けたのだ。キャンバスの余白が大きいほど、他人の加筆がより大きく目立つ。
 ならばこの内なる衝動は抑えるべきだ。こんなもの自分の心ではない。遠藤から伝染された不純物だ。
「貴女と話したいことがある。どこかに座らない?僕この辺り詳しくないんだ」
 しばらく辺りを見回した小夏が、通り沿いのハンバーガーショップを指して言った。
「今から晩ご飯食べるとこだったの。一緒にどう?」

 ハンバーガーショップ“じゃんぐる”にて、二人はハンバーガーセットを注文した。全く同じメニューだが、ドリンクだけが違った。小林は烏龍茶で、小夏はグレープソーダだった。
「貴女はK高校の人?」
「そうだけど」
「今日も学校だったの?」
「いや、塾の帰り。うちの塾制服じゃないといけないから」
 ポテトをつまみながら彼女は言った。
「友達はいるの?」
「あんたは?」
「いないよ」
「あっそ」
 会話が続かない。遠藤から話術も借りてくればよかった。だがなぜか、居心地は悪くない。
「あんたのバイトって何?」
 意外なことに小夏の方から問いかけてきた。だが真実は明かしがたい。
「TWENTYっていう仕立屋のバイト」
 一瞬、彼女の目つきが変わったが、すぐに表情を戻して塩の付いた指を拭いた。
「バイトしてるのは本当なんだ」
「貴女はバイトか何かしてる?」
「何も。学校に行って塾に行って帰っても勉強して、それだけ」
「退屈そう。もっと自分を楽しませた方がいいのに」
「は?」
 小夏の目つきが鋭くなった。それを見て小林の心が揺らいだ。小夏が、やっと巡り合えた同類が、少しだけ遠ざかった気がした。
「うちのクズ店長ならそう言うと思って」
「あっそ」
 小夏の表情が少しだけ和らいだ。いや、隠したのだ。隠された。それが小林に冷たく刺さった。体の芯が冷えていく。それを誤魔化すように、小林は言葉を継いだ。
「最近、何か悩みとかつらいことは無い?」
「無い」
 それが悩みなのだろう。小林は思った。小夏は壁が厚く、そして自分を隠す。彼女の心は本当に虚無なのかもしれないし、あるいは心を隠しすぎて自分を虚無だと勘違いしているのかもしれない。
 彼女が自分と同類であれば同じ痛みを理解できたかもしれない。だがもしかしたら、彼女は自分とは違うのかもしれない。それならば、助けにはなれない。小林はハンバーガーに齧りついた。そこまで空腹でないせいで、あまり旨くない。
「僕は貴女かもしれないし、あるいはそうじゃないかもしれない」
 小夏は沈黙だ。小林は続ける。
「時折自分が分からなくなるんだ。僕は好きなものが無い。何も思いつかない。学校の感想文とかそういうのがずっと苦手で、自分の言葉で自分を説明することもできない。でも最近は、それが苦しいとは思えなくなってきた」
「だから?」
「僕はきっと、取り返しがつかない人間だ」
 それ以上は続かなかった。自分を明かすだけ明かしたが、何も返ってこなかった。打ち明けた心の空虚が冷たさを増して胸に満ちた。烏龍茶ではなく炭酸ジュースにしておけばよかった。自分を刺激しなければ、心の底の“淀み”を誤魔化せない。深く沈む心の“淀み”は重く深く内臓を圧迫し、息苦しさをもたらす。この苦しみを共有できる人間が現れたかと思ったが、もしかしたら小夏は違うのかもしれない。
 小夏には、自分を構成する材料がある。小林には、なにも無い。
「ごちそうさま」
 小夏が立ち上がった。すでに晩ご飯を平らげていた。
「じゃあ、またどこかで」
 淡白に言い残した小夏が立ち上がり、店を出ようとした。
「待って」
 小林は思わず引き留めた。これ以上何か伝えることもない。そんな資格は無い。だが気付けば最後の悪あがきをしていた。
「これだけ渡しておく。貴女は、空っぽなんでしょう?このお店に尋ねてみて」
 黒い紙に金の印字で店の名前と住所を記した招待状だ。小夏は無言でそれをしまい、店を出た。最後の一言は彼女を傷つけたかもしれないし、あるいは、いや、傷つけたに決まっている。
 だからきっと助ける責務がある。この指輪は、そのために託された。

小夏Ⅰ


 塾の定休日の朝、その店を訪れた。黒い紙に金の印字で記された住所には確かに、TWENTYと看板に書かれた一階建ての洋風な店があった。ネットで調べると、仕立屋であることが分かった。紳士服だけでなく、今は夏祭り用の浴衣のレンタルや仕立てを安く行っているらしい。
 ドアを開けて中に入った。混んではいないものの、数名の女性客がいた。カタログを開きながら列に並ぶ客や、カウンターにて貸し出し手続きをする客などがいる。そしてカウンターには、半袖のシャツを着た黒髪の男がいる。
「いらっしゃいませ」
 柔らかい声がした。声の方を振り返ると、空色の浴衣を着た少女がこちらを見ていた。おそらく年下だろうか。長い黒髪を後ろで結び、招待状と同じ、ラベンダーの香りがする。
「本日はどちらをお求めでしょうか?」
「あの、この紙を男の子から貰ったのでそれについて来たんですけど」
 招待状を見せると、彼女は頷いてカウンターの男に言った。
「遠藤さん、第二客室に行ってきます」
 シルクのように柔らかい声であった。
「おう、行ってらっしゃい」
 カウンターの男に見送られ、小夏は少女に案内されて店の奥へ行った。細い廊下を進むにつれ静けさが満ち、そして廊下の突き当りのドアに案内された。ドアの先は異様な景色だった。壁に窓も時計もない。いや、壁を埋めるように背の高い棚が満たされ、大小色とりどりの瓶が敷き詰められている。部屋に入りドアを閉められると、その静寂が完成した。自分の息づかいと衣擦れしか聞こえない。浴衣を着た少女でさえ、音も空気の揺らぎもない。水中を無音で泳ぐ魚のような静けさだ。
 部屋の中央にテーブルがある。少女に座るよう促され、そのまま座った。
「お飲み物はいかがされますか?紅茶とコーヒーがありますが」
「アールグレイのアイスで」
小夏が言うと、頷いて服だけでなく顔立ちも整っている。薄いベースに赤いアイシャドウ、艶のあるリップが幼さの中に女性らしさを際立たせている。それでいて空気を一切揺らさぬ静けさと穏やかさがある。マネキンより無機質で、しかし確かに人間である微かな温もりを感じる。不思議な雰囲気を持つ少女だ。
 少女は机上の茶器からポットを取り出し、アールグレイの茶葉を入れてお湯で溶かした。
「本日はどういったご用件でしょうか?当店のサービスはご存じですか?」
 温度の無い、羽毛のように柔らかい声で尋ねられた。
「いえ、どういうお店なのかは分からないのですが、町で知り合った男の子に誘われて様子を見に来ました」
 少女は頷きながら、茶葉を溶かしたポットから茶こしを使って別のポットに移した。茶の香りのする湯気が心地よく香る。無機的な部屋にようやく暖かみを得た心地だ。
「ではご説明いたします。当店は仕立屋であると同時に、お客様の心を取り扱う店でもあります」
 客の心?ばかげた話に聞こえるが、思わず続きを傾聴したくなる雰囲気がある。このおかしな部屋と店員がそうさせるのだ。
「記憶や感情、また技術や能力、性格の一部など、心だけでなく胸の内にあり、しかし他人に分け与えることができないものを当店では買い取ります。そして、求める人に売って差し上げるのです」
 茶葉をこしとられた紅茶がポットから氷の入った二つのグラスに注がれた。微細な茶葉が透明なグラスの中で美しく舞い、赤茶色の熱が大きな氷を解かす。音もなく、そして温もりが死んでいく姿だ。美しい。
「貴女はうちの店員から紹介状を受け取ったようですが、その店員から見て貴女は何かが足りぬ、あるいは持て余していると見たのでしょう。お心当たりはございますか?」
 小夏は少し考えた。自分に足りぬ、あるいは持て余しているもの。どちらもない。いうなれば、あの少年に一目会いたかっただけだ。
「私自身というより、招待状をくれた男の子について興味があります。あの子は私と同類だと言って近づいて来たけど、思い返せばそうだったかもしれない。私よりずっと物静かで、何考えてるか分からない。あの時は突き放してしまったけど、今になって、もう一度会って確かめたいと思うようになりました」
「それは当店の従業員、小林ですね」
 少女は続けて言った。
「申し送れました。私、ヨハクと申します」
 少女はヨハクと名乗った。そういえば小夏はお互いの名前を明かしていなかった。
「佐々木小夏と言います。それで、小林くんは今日はいないんですか?」
「申し訳ございませんが、あいにく彼は本日休みでして。彼にお伝えすることでしたら私の方からお預かりいたします」
「いえ、お休みなら大丈夫です。このお店のサービスについて興味があります。私の嫌な部分も売れるんですか?」
「ええ、買い取りましょう」
 ヨハクは右手を左手に重ねてこちらに向き直った。手の組み方は、左手を上にするのがマナーのはずだが、この少女は逆だ。
「先に申しますが、我々が買い取りますのは貴女様の内面、人格の一部です。他人に売ることで貴女様の人格の一部が失われ、また見知らぬ誰かがそれを抱えて生きることになります。逆もまた然りです。その覚悟はおありですか?」
 先ほどと変わらない声の色と温度だ。しかし胸に刺さる鋭さを帯びている。小夏は正直に答えた。
「覚悟はありません。後戻りできないのなら帰ります」
「後戻りなら可能です。お客様がそう願えば、瓶の効果を一時的なものに限定できます。時間が経てば、瓶に詰めた貴女の心をお返しします」
「瓶?」
「失礼、ご説明が遅れました。当店ではお客様のお心を特殊な瓶に詰めて売買いたします」
 それにも驚いたが、別の理由ではっとした。この瓶を、小夏は昔見たことがある。いや、あんなものは過ぎた思い出だ。今の自分には必要ない。
「それでもご心配でしたら、逆にどなたかのお心を試しに買ってみてはいかがでしょう?」
「え?」
 ヨハクは立ち上がると、壁に歩み寄って小瓶を一つとってきた。
「これは、当店が買い取り続けた“寂しさ”です。多くのお客様がこれを売りに来られます」
「それで私に在庫処分ですか?寂しさなんて好んで買う人なんていないでしょう」
「いますよ。己の内なる寂しさ、人恋しさを強く恥じ、その堰を切るきっかけとして身に余る寂しさを摂取して、人と関わろうとするお客様が、とくに情報化社会以降、増えてきているようです」
 己の寂しさや人恋しさを恥じ、人を拒む人間。ああ、小林が同類と呼んだのはそれか。たしかに小夏は自ら望んで孤独に身を置いている。しかしそれは恥の類ではない。罰だ。
「お客様から、罪悪感の気配がします」
 ヨハクが小さく言って、小夏は驚いた。冷水を浴びせられたな心地だ。胸の内を探られた、あるいはこちらが表してしまった何かを汲み取られた。どちらにせよ、不快だ。
「後ろめたさなど、臆病者の無意味な自責です。何の役にも立たぬ時点で、捨ててしまいなさい。貴女様にはその権利がおありです。他人の小心をお借りなさい。貴女様の中で“渇望”となったそれは、貴女様を突き動かす原動力となりましょう」
 身に余る“寂しさ”を過剰摂取し、後ろめたさを捨てる。たしかにそうすれば堰を切った“寂しさ”が、今までより強く人肌を求める。寂しい寂しいと強く感じれば、人と関わることに抵抗が無くなるだろう。
 あの痛みを、罪を、忘れられるかもしれない。
「買います。ありったけください」
 小夏の言葉に、ヨハクは頷いて箱一杯の小瓶をテーブルに持ってきた。それを一つの大きい瓶にまとめ、その瓶を箱に入れて丁寧に梱包した。中身を失った小瓶は、音もなく空気に溶けた。そして一本になった瓶は、一升瓶ほどの大きさになっていた。
「まともであれば気が狂います。少しずつ、一週間以上かけて飲んでください。一度に飲み干せば、原動力どころか取り返しのつかない衝動となりかねません」
 今の自分は乾ききっている。あらゆる衝動を殺してきた。きっと何という事もないだろう。そう思いながら、彼女から瓶を入れた箱を手に取った。そして、その重さに驚き、同時に恐怖を伴った。
 いや、この臆病がいけない。自分を閉じ込め続けた臆病、小心、それが無ければ、自分はもっと人に心を開けたはずだ。傷つくのが、そして傷つけるのが怖かった。人と仲を深め、それに裏切られるのが怖かった。その恐怖を誤魔化せば、きっと変われるだろう。
 少なくとも、この瓶は人の心を変える力がある。小夏はそれを、むかし、目の当たりにしたことがあるのだ。

小林Ⅳ

 K夏祭当日、小林は朝9時から出勤し、浴衣のレンタルの対応に追われていた。名簿にある客に浴衣入りの箱を渡し、代金を受け取る単純作業である。しかし多忙極まる着付けは遠藤だけでは手が足りず、ヘルプで訪れた少女が手伝った。
 遠藤とその少女が着付けをし、小林はレジと接客を任された。午前のピークが過ぎ、十三時に昼休憩を挟んだ。ヘルプの少女は外食すると言って出ていき、遠藤と小林は控室でコンビニのおにぎりと、エナジーゼリーを食べた。
「暑いとすぐ腹に溜まるな」
 遠藤が言った。たしかにあまり食欲が無い。店内は冷房が効いているといえど、これほどの重労働であれば汗が滝のように流れる。小林も接客の空き時間で着付けを手伝ったが、着物がこんなに重いとは思わなかった。
「お前もメンズの浴衣着て祭りに行くか?」
「いえ、特に興味はあまりないので」
「つまらんこと言うなよ。ここのところ瓶の仕事も順調じゃないか。ほら、一昨日だって“寂しさ”の瓶を十本ほど売ったじゃないか」
「なんだと?」
 聞き覚えのある声が聞こえた。振り返ると、“準備中”の看板を無視して店に入ってきた中村がいた。
「それは本当か?」
 冷たく、しかし怯えているような声だ。小林は言い淀み、代わりに遠藤に尋ねた。
「その瓶は精錬済みなんだろうな?」
「店頭に置く時点ですべて精錬済みだ。問題ない」
「だが十本だぞ?つまり十人分の“寂しさ”を摂取することになる。過剰だ」
「いっぺんに十本分飲み干すわけではあるまい。ちゃんと小林は説明したし、売るときに同意書を書いて、店で保管してある」
「だからお前たちに落ち度は無いと?」
「あのね警部補。俺たちが扱うのは人の心だ。物質で管理や束縛なんてできないし、毒にも薬にもなるものだ。しかしそれは売買したお客様当人の責任だ。そうでなきゃ、我々はお客様の心をこちらで管理する名目で、支配してしまう。最終責任をお客様に委ねるのは、そういったパワーバランスを保つためなんだよ」
「ああ、それは分かる。だが聞かせろ。その客は誰だ」
 中村の声が重くなった。一体何がここまで中村を掻き立てるのか。何かただならぬことが起きたのだろう。
「こちらには、お客様のプライバシーを保護する義務がある」
「俺は結晶協会の監査員だ。言え」
 小さくため息をついた遠藤は、こちらに目配せした。
「佐々木小夏という女子高生です」
 小林は答えた。中村は何も言わず、踵を返した。
「悪い意味で予想通りだった、って感じですね警部補」
 遠藤が浮いた声で中村の背中に言うが、返事は無い。「何か問題でも起きましたか?」。遠藤が尋ねると中村は足を止め、背を向けたまま答えた。
「行方不明になった」

小夏Ⅱ

 その感情には、いつも誰かの記憶が込められていた。明確な区切りもなく友人と疎遠になった時、家に帰って静寂を感じたとき、旧知の友が他の誰かと親しくしていたり、ペットが死んだとき。まるで物語の一部を切り取ったかのように、寂しさに付随する誰かの記憶が腹の底でぐるぐると蠢いている。
 小夏は、あの瓶を飲んだ。一息で、すべて飲んだ。飲んでみれば空気より軽く、しかし砂よりも乾いていた。小夏の心を瞬く間に乾かせた。あらゆる栄養素を吸い取られた気分だ。たしかにこれはまともであれば発狂する。しかし小夏は、やはりまともではなかったのだろう。
 気付けば眼前には海が広がっていた。空は赤みがかり、じっとりとした不快な暑さと潮の香りに気分が重くなる。他人の“寂しさ”をこれほど摂取したにもかかわらず、まだ自分は、ここを惜しんでいるのだ。まだ苦しみ足りないのか?まだ傷つきたいのか?
 こんなに寂しい思いをした。誰かを求めれば、また失うだけだ。それなのに何故この場所にいる?誰かとの思い出と繋がろうとする?いや、きっとそうじゃない。もうわかっているんだ。自分でそれを認めたくないだけだ。やるべきことは、これだろう。
 小夏はスマホカバーに挟んでいた、中村の名刺を取り出した。

中村Ⅲ

 二日前、佐々木小夏の父が警察署を訪れ、彼の娘の行方不明を告げた。K市において若者の家出は珍しくない。それに未成年の家出であれば数日で自ら家に帰るケースも多い。中村は初め、特に気にかけていなかった。少し前にコンビニで万引き未遂の現場を見かけた程度の縁だ。しかし今回は、嫌な予感がした。刑事の勘というものは、危険こそ知らせようとする。
 TWENTYを訪れたら案の定だった。あの少女が、瓶の規定量を守らない可能性は十分にある。あの少年にそれが見抜けなかったのは仕方がないが、遠藤が何も考えなかったはずがない。意図してこの事態を招いたのだ。であれば遠藤を頼るわけにはいかない。自力で佐々木を見つけるのだ。おそらく彼女は今危険な状態だ。
 すると、携帯に知らない番号から着信があった。

 昼過ぎ十五時半ほど、中村は車を走らせてある場所へ向かった。電話の主から、そこに来るように言われたのだ。指定された場所はK市の東の海岸だ。中村をはじめとする結晶協会の人間であれば冷や汗をかく場所だ。彼女にその意思があるのかは分からないが、もし無意識であれば警戒する必要がある。この海岸は結晶師にとって特別な場所だ。
 堤防付近に車を停めると、一人の少女、小夏の影がそこにいた。デニムのジーンズに半袖のシャツ。短い黒髪の少女のその背中は、どこか不安になるほどありふれた乾きをまとっていた。瓶を大量に購入した翌日に行方不明。何かあったに違いないと踏んでいたが、むしろ何ともなさそうに見える。瓶とは関係ない別の事件性を疑った。しかしその疑念は、向こうからの呼びかけによって絶たれた。
「こんにちは警部補」
 かつて聞いた声とまるで変わらない。重大な心の負荷に耐えかねて家出した少女には思えなかった。
「聞いたぞ。あの店で瓶を買ったらしいな」
 小夏は無言だ。しばし波の音がこの間を満たした。
「瓶はどこにある。使ったのか?」
 ぬるく生臭い海風が頬を撫でる。その海に放り捨てるように、小夏は言った。
「全部、使い切った」
 何という事だ。十人分の寂しさを一息でその一心に受けたというのだ。あれは決して細やかな寂しさではない。耐えようにも耐えがたく、縋る思いでTWENTYを訪れ、壊れそうな心を守るべく取り除いた寂しさを瓶に濃縮したものだ。瓶一つで精神に差支えが生じるほどの重みがある。それを十本も一度に取り入れて、あの少女の心がまともであるはずがない。それなのに、不気味なほど正気を保っている。瓶を乱用したことよりそっちが心配だ。
「気分はどうだ。不安や衝動のような不調は無いか?」
「なにも無いよ」
 そんなわけがあるか。言おうとしたとき、小夏が口を開いた。
「一つ目の瓶はとある社会人の物だった。職場の人付き合いが鬱陶しくて早めに帰宅しても、自宅に着いた途端訪れる急激な静けさに胸が苦しくなった」
 海を向いたまま小夏は淡々と語る。
「二つ目は高齢の人だった。三つ目は独身女性。四つ目は管理職の中高年だったかな。五つ目はフリーター」
「お前が取り込んだ寂しさの持ち主か。そこまで鮮明に感化されたなら、きっと心の負荷が尋常じゃあないだろう」
「それがね、何とも思わないの」
 小夏は息を吸い、何かの意を決して言った。
「瓶を取り込むと、胸の奥にある何かが欠けるような喪失感があるけど、すぐにそれが薄れるの。砂浜を踏んだ足跡が、たちまち波に掻き消されるように。一時の寂しさだけ感じてすぐに消されてしまうの。だから何度も瓶を使った。人それぞれの寂しさが違う感覚になって表れていた。でも使い切っても、何も残らなかった」
 小夏は少しだけ目線を上げて言った。
「たぶん私は元から普通と違う。人が本来備え持っている寂しさという感覚が欠落している。だから私はきっと、生涯克服できない欠点がある。決して人と分かち合えない感情がある」
 その声は淡々として、まるで海に話しかけているようだった。こみ上げる何かを押し殺す声色だ。
「私は人と馴染めない。でもそれを良しとする自分がいる」
 単調の声が微かに震えた。初めて窺える彼女の心根の一片であろう。
 彼女は自分が周囲に対してある種の不和を感じていた。それがストレスだったのだろう。不和の原因を探ろうとTWENTYで買った瓶に頼ったところ、それは手の打ちようのない不和であったことが分かったのである。小夏を家出という逃避行動に突き動かした原因がこれだ。
 自分だけ理解できない感情がある。それが周囲と和を成す差支えとなるを強く思っているのだ。寂しさを感じない分、今自分が感じている不安の正体が分からないのだ。
「お前のお父さんから捜索願が出ている。だが、気持ちの整理をする猶予をやろう」
 中村は言った。かつて彼女に渡した名刺に自分の連絡先がある。先ほどの着信で連絡が取れることが分かったから、もう心配はないだろう。だがこのまま家に帰しても何も解決しない。小夏の苦しみはすぐに取り除けるものではないが、それでも何かしらの区切りが必要だ。形の無い不安はそうやって対処することができる。
「感情に名前があるのはどうしてか知ってるか?」
「は?」
 中村の唐突な問いかけに、小夏は怪訝な顔でこちらを見る。
「形が無くて認識が難しいものに名前を付け、認識しやすくするためだ」
 結晶師の価値観にも近い考えである。特に結晶術は西洋から伝来した技術であるため、その根幹には西洋的な思考もある。かつて感情を制圧し、分類し、管理しようとした者たちの作り出した技術だ。分類とは、支配の第二歩である。
「名前の無いものに名前を与える。そうすることで人の祖先は感情を支配しようとした。そうでもしなければ人類は自分たちの感情に敗北してしまうからだ。
 人は本来、自分の感情に敗北してしまうように設計されている」
「じゃあ名前の無い感情には敗北してしまうってこと?」
「そいつには勝手に名前を付けろ。そして勝て。他者と分かち合えない自分だけの苦しみというなら、自分だけの名前を付けて咎める馬鹿などあるまい」
 現代では鬱の予防にも使われる。不明瞭な苦痛や不安の正体を明らかにし、対処しやすくするのだ。そのためには、無名の苦しみに名前を付け、向き合うかあるいは遠ざけるといった対処ができる。
 瓶なんて必要ない。自分の心は本人が守れる。中村はそう信じている。
「自分の心に向き合い続けるのは疲れるものだ。たまには目を逸らせ。そしてふと思い出した時にまた考えればいい。時間はあるんだ。幸いにも十人分の孤独を追体験できたんだ。ゆっくり消化すればいい」
「目を逸らすってどういう風に?」
「普段やらないことをやるんだ」
「普段やらないことって?」
「ふむ、そうだな」
 中村は少し考えた末、佐々木をある場所へ誘った。

小夏Ⅲ

 17時過ぎ、夏の蒸し暑い空気が少しずつ冷えていった。普段は車が行き交う中央通りは屋台が列を作り、車道を参加者が埋めていた。匂いが違う。コンクリートやアスファルトの埃っぽい匂いの代わりに、お菓子や食べ物の香ばしい香りが満たしている。行き交う人々も服装が違う。十代の女学生は煌びやかに着飾り、浴衣を着ている若者も多い。それに音も違う。普段の中央通りは車や雑踏の騒音に満たされ、理由も目的も無い音が満ちている。しかし今は付近のステージの音響や場内放送など、普段と違う空気感が作られている。
 都市の中心部は、ただ機能的に役割を果たすだけの単調なデザインをしている。こと日本においては都市設計に遊びが欠ける。小夏はそれを退屈に感じていた。しかしこうやって非日常を着飾ることがある。建物の配置も路面も何一つ変化していない。しかしこの町は、まるで別の町のように見える。
「夏祭りにはよく来るのか?」
 中村が問う。
「六年ぶり」
「そうか。俺は十か二十年ぶりだ」
 そういう中村の手には焼きトウモロコシが握られていた。いつの間に買ったのだろうか。
「なんでここに連れてきたの?」
「気分転換だ。“普段と違う何か”というのは心の休憩に向いている。それとも祭りじゃあ不満か?」
「祭りはそこまで非日常じゃないでしょ」
「他の奴らは、そう思ってないようだが」
 中村が言うのはこの会場にいる無数の参加者だろう。たしかに普段見かける姿とは違う。普段はスーツや制服といった目的を有する姿を多く見かける。しかしここにいる参加者は人それぞれの望む姿を身にまとい、日常の役割から解放されている。
 隣にいるスーツ姿の中村が少しだけ浮いているように感じるが、彼はリラックスした歩き方や屋台を物色する姿から参加者に溶け込んでいる。焼きトウモロコシを一口齧ってから、彼は言った。
「俺は警察官になって最初は交通課だったんだ。交番に駐在し、市民の“いつも通り”を守る仕事だ」
 中村は言いながらゴミ箱を探している。
「しかし一年目のある時にとあるガキが厄介を起こしてな。それ以来俺は窃盗犯罪係に異動した。
 交番で身近な人たちを守る仕事にやりがいを感じていた。でも部署が変わり、おまけに昇格して現場から離れると、自分が何のために刑事になったのか忘れるときがある」
「今の仕事がつまらないの?」
「かもな。最近は昔よりずっと頻繁にそれを考える。自分の居場所は正しいのか、このまま無感情で自分をすり減らすことが正しいのか。昭和の経済成長期の美徳でもなければこの心は日に日に疲れる一方だろう。疲れるために朝起きて、明日また疲れるために帰って寝る。それを毎日繰り返している気分だった」
 すれ違う人々の視線がたまに気になる。スーツ姿の中年が女子高生とともに歩いて仕事の愚痴をこぼしているのだ。怪しむに決まっている。だがそれが、どこか楽しく感じた。
「だから俺には、定期的に思い出す習慣が欠けていたんだって気付いたんだ」
「何を思い出すの?」
「熱源」
 中村はトウモロコシを平らげて包み紙で包み、屋台の横にあるゴミ箱に捨てる。
「自分の原点は覚えている。だがその場に戻って同じ風に触れることはしなかった。なんだか最近は自分が刑事を志す初心に近い体験が多くてな。俺の、俺にしか目指せないものを思い出した」
 不意に、中村の語調に変化を感じた。微かな脈動とでも言おうか、中村という人間の深い部分から生じた言葉、そんな印象だ。この声にはどこか、自分の血に熱が流れるのを感じる。
「最初は自分の身の回り、自分の故郷だけ守れればいいと思っていた。だが刑事が昇進すると、興味のない市民まで守らなければいけなくなる。それは俺のやりたい事じゃない」
「それは、刑事として無責任じゃない?」
「そうだ、その無責任こそが俺だ。興味のない奴らに興味は無い。だが守ると決めたら必ず守る。それが俺の熱源、刑事である理由だ」
 体を巡る熱が高まった。きっと何かに触れたのだ。
「ありがとう佐々木。おかげで初心に帰ることができた」
「初心ねぇ」
「お前にもきっと、今を思い出して前に進もうとする未来が来る」
「別にそんな未来に期待してないけど」
「否応なくそうなるんだ。むしろ、望まない方が適いやすい。自分らしさと、その不和には必ず直面する。そうなったときに最も頼りになるのが過去の自分だ」
「それで、私には清く正しく健全に生きろってこと?」
 大人は皆すべての若者を支配下に置こうとする。そういう在り方が小夏は気に食わないのだが、中村の言い分は少し違った。
「説教するつもりはない。ただ自分の過去は必ず自分に返ってくる。それだけを覚えておけ」
 そう言う中村の声はどこか遠くへ向けられているように聞こえた。すると誰かがこちらに手を振っている。短い金髪の男性だ。
「どーも中村さん、今日お休み?」
 金髪の男性は耳や唇にいくつもピアスを開け、黒地に派手な金と白の柄のシャツを着ている。
「非番は非番だが、捜索願の出ている少女を保護したところでな」
 中村はそう言ってこちらを指で指した。知らないうちに捜索願が出されていたようだ。
「あらまあ、見つかってよかったっすね。で、これから署に行くところ?」
「それも構わんが、面倒を見てやってくれ。本人が疲れたら親の元に返すといい」
「お、いいねぇ夏してるねぇ!でも俺出店の手伝いに来たんだけどさ、店の手伝いでもいいかな」
「本人がそうしたいというならな。節度は守れよ、都城(みやしろ)」
 そう言って中村はこちらを男の方に促した。身を置く場を変えることで感じる新しい熱がある。今日目の当たりにしたのがそれだ。数人分の寂しさより、自分にしかない熱が必要なんだろう。ならば今日ここで、一つでも試してみるのも悪くない。
「じゃあ、行ってくる」
「ああ、親御さんには連絡するんだぞ。それから、これをやる」
 そう言って中村は小夏に一通の封筒を渡した。薄くて軽い。何があるのか分からないが、あとで確かめればいい。そうして小夏は中村と別れた。
 別れ際、中村は参加者の一人に歩み寄っていた。

中村Ⅳ

「いるんだろう?小林」
 一定の距離で尾行する小さな影があった。それに霊素結晶の反応で眉間の辺りがムズムズしていた。結晶師からの尾行と言えば、心当たりは一つしかなかった。
「佐々木が気になっていたのか?女装までして」
「正体がばれないようにって頼んだのに、遠藤さんが勝手にこれにしたんですよ」
 小林は空色の浴衣を着て長い黒髪を後ろに結んでいる。元より童顔ではあったが、メイクによりさらに嫋やかさが際立っており、一目で小林と見抜くことは難しいだろう。
「佐々木は信頼できる男が保護している。もう心配はない」
「それならよかったです。それと、遠藤さんからの用事があるのですが」
「ああ分かっている。監査は心配いらないと伝えとけ」
 ここ数日で自分の乾きと、それを満たす初心を思い出すことができた。遠藤とは“あの頃”から同じ時間を過ごしているというのに、彼は軸がまるでブレていない。徹頭徹尾、一つの信念に従っている。まともであれば初心は色褪せるが、遠藤はそうじゃない。“あの頃”から彼が見惚れた人間の混沌、全人類が人間の本質に触れるようになるという、おぞましくそして汚れた野心、彼はそれを忘れたことは無い。
 小林が、未来ある無垢な少年が遠藤の汚れた野心に触れさせるべきではない。
「ところで小林、遠藤が何者か理解しているか?」
「いえ全く。あの人に興味を持つのはこの世で一番不健全ですので」
「はは、その通りだ。なら良いことを教えてやる。あの男の正体は結晶協会の誰も分からない。登録している顔も、名前も偽物だ。住所も本籍地も生年月日も、すべて偽造されている」
「結晶協会って偽の情報で登録できるんですか?」
「できるわけないだろう。だがそうせざるを得ないんだ。嘘情報でいいからあの男を協会に縛って管理下に置かなければ、何をしでかすか分からない。あの遠藤という名前も偽名だ。公の情報網をどう探ってもあいつの本名が分からない。警察でさえもだ」
 中村は熱を帯びて話すが、小林は石のように動じない。揺れない水面に話しかけている気分だ。
「それに君は知らないだろう。顔も名前も隠しているあいつが、しかし他人の内面を扱う仕事をしている。君は知らないだろうが、あの男にはおぞましい動機があってその仕事をしているんだ。悪いことは言わない。彼には近づかない方がいい」
 遠藤の危険性をもっと具体的に伝えるのは危険だが、それでも小林ほど聡い少年なら理解できるだろう。そして石のように揺らがぬ少年が、やっと口を開いた。
「僕の小林という名前も、偽名ですよ」
 一切の熱を含まない声でそう言った。その声に感情が込められていない分、中村は冷静に怯えることができた。何という事だ、この少年もまた、遠藤に呑まれている。いや、今なら引き返せる。この少年をあの男から引きはがさねば。
「昔お二人に何があったか何も知りませんが、中村さんが仰りたいことは分かります。それでも僕があのお店にいるのは僕の意志です。あのお店でしか触れられないものがあり、それが僕には必要なんです。ご心配なく、僕の頭にあるのはそれだけです」
 そう言って小林は一礼し、踵を返して去っていった。
 やってくれたな遠藤、あの子は、まさにお前ではないか。こみ上げる胸の澱みを鎮めるため、中村は煙草を取り出した。遠藤のせいで買い損ねたいつもの銘柄をこの身が求めても、その不和を胸に含ませるだけであった。
 暮れかけの空は、赤く濁っていた。

小林Ⅴ

 監査はつつがなく終わった。難しい事務的な話は分からないが、とにかく問題なしの判定だった。浴衣の返却が殺到したその日の営業日に監査員数名と中村が店に訪れ、隅々まで調べていったのだ。遠藤の指輪も調べられた。当人の了承無く心を盗むという違反行為の痕跡が指輪に残っているらしいが、どういうわけかそれは発見されなかった。
 小林の指輪も調べられた。指輪が未登録なので、期限以内に結晶協会のデータベースに小林と指輪の情報を登録しなければならないらしい。どうせ、遠藤が偽造するのだろう。
 監査は午前中に終わり、遠藤は肩の荷が下りたように大きな息を吐いた。
「やっと終わったな。よくやったよ小林。今年も問題なしだ」
「どうも」
 二人はTWENTYのエントランスで話していた。小林はエントランスの掃除、遠藤は商品棚のメンテナンスである。そして今日はもう一人いる。店の裏で、返却された浴衣の片付けとクリーニング屋の手配をしているヘルプの女子高生が一人。彼女の勤務は今日までだ。
「どうだ、警部補は面白かっただろう」
 棚のネクタイを整えながら遠藤は言った。
「遠藤さん、中村さんと昔なにかあったんですか?」
「まあな。俺にとってはいい思い出なんだが、向こうはそう思ってないらしい」
 からかうばかりで具体的に何も教えてくれない。すると、ドアが開いた。
「いらっしゃいませ、おや、また来てくださるとは」
 来店したのは小夏だ。汚れもしわも無い整った制服を着て、顔色は悪くない。寂しさの過剰摂取が心配だったが—遠藤曰く、買った人の自己責任だから小林が気にすることはないらしい—、どうやらあまり深刻ではなさそうだ。
 あれ以来、小夏の漂着瓶は回復傾向にある。薄く軽い瓶は透き通るように艶やかになり、手に取れば重みを増していた。少しずつ中身が満たされるだろう。
「これを貰ったんだけど」
 小夏が一枚の紙を差し出した。黒地に金の字の表記でTWENTYと書かれてある。以前遠藤が中村に渡した無料利用券だ。服飾品が一つ無料になる。さらに学生であればもっと対象範囲が広い。
「おお、確かに当店でご利用いただけるチケットになります。ご案内いたしましょうか?」
「靴を貰いに来たの。風格があって、それでいて動きやすい物」
 こちらを一瞥しながら彼女は言った。おしゃれは足元から。足という体の先端は人の注目されやすい部分であり、さらに足元はその人の立ち方や歩き方の姿勢に大きく関与する。この店で衣服を作るという事は、新しい自分を作るという事だ。
 先を越された。小林がずっと迷っていた一歩を、彼女は先に進んでしまった。なんだろうか、胸の内に拳一つ分の穴が空いたようだ。この感情の正体を小林は知らない。自分に近しい存在だと思っていて人が、実はそうではなくて、それでも自分の先を行かれたら、まるで置いていかれたような寂しさに見舞われる。こんな感情が、自分にふさわしいのだろうか。自分は、独りだというのに。
「はい、靴の仕立てですね、ではこちらの席へおかけください」
 遠藤が受付テーブルに小夏を座らせたところ、奥の部屋からヘルプのあの人が出てきた。
「遠藤さん、着物箱に詰めてクリーニング屋さんに連絡したんだけど——あれ」
 現れた女子高生と小夏が一瞬目を合わせ、しかし小夏が逸らした。
「あらあら、この店に来てたんだ。久しぶり、高校別になってから会ってなかったよね」
 そう話しかけられても小夏は無視している。かつての知り合いだろうか?小夏から見たら険悪そうだが、もう片方はそうではない。
 彼女の名は│高千穂《たかちほ》たかちほ│郷《きょう》。小林がこの店に来る前のバイトの先輩だ。

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