空を泳ぐ魚
「空を泳ぐ魚、見たよ」
「……え?」
「夕陽に染まる空を泳いでた。羽みたいに広がったひれがゆらゆら揺れてとても綺麗だった」
幼い私がそう言うと、母は一瞬眉を潜めてから苦笑して、そう、良かったわねと言った。
たぶん、作り話だと思ったのだろう。変なことを言う子だと思って、けれど絵本かなにかの影響だろうと納得して、適当な返事をしたのだ。
今も母は、私を少し変わった子だと評す。そうかもしれない。空想が好きで、お話が好きで。だから大人になっても、絵本作家なんていう、ふわふわした職業についているのだ。
母とは不仲というわけではない。けれど、卒業してから会社勤めで、そこで出会った男性と結婚、退職して出産という、お約束に順調な人生を送る妹に愛情が傾いているのは、気のせいではないだろう。
そんなものよね。苦笑する。たぶん、あの日の母とよく似た表情で。
仕方がないわ、そんなものよ。お話のように現実は運ばない。空を泳ぐ魚のように、綺麗に自由にはなれないの。
分かっているのに私の手は筆を取る。描き出すのは綺麗な夕陽。
でもねお母さん。私は嘘なんてついてないの。
目を閉じれば思い出す。妹が生まれて、少しした頃だった。
それまでは母と手をつないで行った公園で、一人で遊んだ帰り道。
遅くなってしまった。早く帰らないと。でも、なんだか少し、帰りたくない。
そうして俯いた頬を、ふわりと、風が撫でたのだ。
見上げた空は夕焼けで、遠くの屋根に太陽が下りていた。反対側は青空だったのに、と色の境を探したところに、その魚はいた。
空の両端の色を纏った、美しい魚だった。ゆらゆらと踊るひれは優雅で、つんと尖った顔は気高かった。青空と夕焼けを誘うように、あるいはどちらの手もかわすように、どちらでもない色の空を泳いでいた。けれどかすかに夕焼けが濃くなると、ふっと茜色にその身を浸す。
ゆらゆらと、揺れるひれの先は青が濃くなる。その色を遊ばせながら、沈む太陽を追いかけて、ゆっくりと魚は泳いで行った。
夕陽の中を泳ぐ、綺麗な魚。ひれの先を青く染めて、私は筆を止めた。
あの日、魚を追いかけるように、足早に家に帰った。それでもやはり遅い時間で、母からは叱られた。ごめんなさいと謝ってから、私は喜々として母に魚の話をしたのだ。
母は呆れて、けれど、頭を撫でてくれた。私はそれが嬉しかった。
絵を眺めて苦笑する。そう、結局、あれはただの白昼夢。寂しい子供が空想でそれを紛らわすのは、よくある話だ。大人の私は、もう現実を知っている。
筆に残った青を、そっと指先に刷いた。それでもあの魚が好きだった。あの美しい魚は、今でも私の心を泳いでいる。
ぼんやりと指先を眺めていると、玄関から慌ただしい足音が響いてきた。思わず笑みを浮かべる。しばしば挨拶を忘れる、可愛い姪が来たのだろう。
「おばさん! こんにちは!」
「お邪魔します、でしょう? 遅かったのね」
「ごめんなさぁい。みきちゃんたちと遊んでたら遅くなっちゃった」
結婚記念日に旅行をするという、相も変わらず仲のいい妹夫婦に変わって、短い間だけ姪を預かることになっていた。思っていたより来るのが遅くて、戯れに絵を描いたりしていたけれど。
手を洗いなさいと促して、自分もだと気が付いた。姪が笑いながら青い指先を掴んで、並んで洗面所に向かう。あのね、さっきね、と姪っ子がにこにこしながら私を見上げた。
「空を泳ぐ魚、見たよ」
「……え?」
「夕陽に染まる空を泳いでた。羽みたいに広がったひれがゆらゆら揺れてとても綺麗だった」
息を飲んだ。姪は掴んでいた指を離して、蛇口を捻る。
姪の指に移った青が、ゆっくりと、水の中を泳いで行った。
***
会話お題
「空を泳ぐ魚、見たよ」
「……え?」
「夕陽に染まる空を泳いでた。羽みたいに広がったひれがゆらゆら揺れてとても綺麗だった」
by みそら