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『私は私の友達だろうか?』

毎年、年末年始に某所に在る祠の祀り事をしている。
元々小規模の地元の数家族で行っていたような小さな祠だが、今ではその存在を知る者も減り、我々家族、親が年老いてからは私がシャーマン的役割をしている。
とはいえ、やることは田舎の神式飾りと同じ注連縄に酒や餅等を上げるだけなので、現意のシャーマン(司祭)ではなく、語源として祠のシャマン(知る者)である。

お通夜という言葉がある。

それと聞いて大抵の方は人との別れ、告別式前の行事を思い起こすだろうが、祠にとってのお通夜は「おつうや」であり、10月末の神無月終わりに神のお迎えで夜通し灯して宴会することをそう呼んでいた(地域場所に依っては燎祭の名として残っているようだ)。もう、一人になってからは「おつうや」自体も行っていない為、私がいなくなれば「それは未来に存在しない行事」になってしまう。今も神が場所を迷うことがあるのではないかと思わなくもないが、夫婦神だから其辺は大丈夫だと思う。

山林信仰にせよ、地域信仰にせよ、シャマン不在によって失われた祀り事は、古今東西そこかしこで起きていることだろう。「ついえる」という言葉があり、潰える、無駄になってしまうという意味ではあるが、個人的には、「終得る」、つまり終わりを得ることでも良いのではないかとも思う。日本は特に続いた伝統も多い為、続けることに良さを感じやすいが、果てに護れぬものが出来てしまうのであれば、いっそ了として終わりを得たほうが良であろう。


もう何十年も前に一つのソフトウェアを見つけた。
その名前が題である。

やることは簡単である。有名人や知人、なんでもいい、その時に気になっている名前を入力し、パラメータを振り分け(例えば「友人になりたい」等)てみる。やることはただの表作成ではある。
今でも検索すると出てくる。統計学主成分分析を用いた自己分析ソフトウェアで、調べてみると作者様は統計学の方のようだったので使い方としても間違ってははいないだろう。
あの当時のフリーソフトウェアの紹介雑誌かホームページか何かで見つけて、何度かやってみたもののもうすっかり忘れていたが、何故か最近になってふと思い出した。

このソフトウェアは、何年前かの自分との自己対話ツールとして優秀である。

当時に興味を持っていた有名人や知人、またキャラクター達を未だに振り分けたカテゴリーに収めているのか否か、はたまた、その関係さえ消えているのか。カテゴリー自体にも今その振り分けを行う気があるのか否か。今の自分からの視点で過去を見がちな自己対話において、過去視点が存在しているのがとても良いと思う。ただ、最初期のデータについては、保管データの中に自己分析済みのデータが残っているかどうかも怪しい。あの当時は認識していなかったが、ハードウェアの入れ替え寿命やソフトウェアのバージョン変更の更新期間が短い為、このソフトウェアの特徴とする長期記録型の判定というのはなかなか難しいものかも知れない。
類するものとして日記やブログ等を読み返すこともあろうかと思うが、対象を限定させることで自己がどうなってきたのかを知ることもあると思う。興味が湧いたら一度やってみたらいいと思う。そして何年後かまで放置しておくのだ。



私は私の友達であるかどうかは分からないが、私の内にあるものを抱えて私は終得るまで私と友達でいようとは思う。
何年後かに対話するかも知れない自己への記録として。

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