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シリコンバレーへの想いー2005年の出会い編

ちょうど2005年の今頃、当地にいました。あれから17年。
今ぐらいの時期の晴れ切った秋空を見るとちょっと切なくなります。
人生に大きな影響を与えたシリコンバレーへの想いについて、何回かに分けて書きます。

カテゴリ

ルーツや振り返りに関すること
信念、感情に関すること(日記的な「強い思い」も含む)

要約

 小さな日本の小さな大会社で、日々悪態をつき細かいことに忙殺されながら日々の仕事に全力投球で対応をしていた自分が、嫌々行ったアメリカで人生観を大きく変える経験を得た。
 その時の日記というか、心の動きを中心に。

2005年の私

もはや17年も前の話なので、前提条件として背景説明を。。

35歳社会人、12年目。中間管理職の一歩手前の実質管理職。

 終身雇用を前提とするような会社に1990年代に新卒で入り、経験を積み上げて、管理職まではあと5年くらい。というところ。
 「井の中の蛙」「お山の大将」的に、100人弱の部門を取り仕切る若頭みたいなリーダー職をしておりました。

  • 自ら望んでの24時間戦えますか系社員で、

  • 毎日終電帰りがデフォルトで、

  • 何なら土日もたまに出てくる、

  • 飲み会遅刻or金だけ払って欠席、飲み会後職場戻りもよくあること。

当時の自分は、、、↓の「昭和の働き方」状態なので。

 それぐらい「日々やることだらけだ」と感じて忙殺されている中で、ほぼ定時で帰っていく管理職その他連中に当て付けしつつ、プスプスとしていたなぁ、という感じです。

(余談)
 シリコンバレー研修が2005年なのは明確に覚えているのですが、2000年代前半の当時の所属や異動時期に関して、記憶があいまいでした。
 あれ?1年ズレてる?何で。。?何てのを思い起こす51歳11か月。
 まぁ、歳ですね。。。

研修に行くまで

ありがたく素直に行かなかったところが、本当にめんどくさい奴です。

研修の位置づけ

 階段踏んで年数経つと・・
 昭和な終身雇用前提な会社でしたので、ご褒美海外研修(という名の視察旅行という名の遊びみたいなもん)が与えられることは知っておりました。 
 また、会社から選抜して、2ケ月くらい海外短期留学をする制度の存在していました。
 
前者
 行って帰ってきて何かが変わった人をほとんど見たことがなく、会社の金で遊んできたな的な印象しかない、当時の自分にとっては、軽蔑の対象
後者
 行って帰ってくると開放的な研修環境と帰国後の閉鎖的な職場環境とのギャップに苦しみ、(そもそもそういうのに手を挙げる時点で、若干「意識高い」系というのもあり)その後転職する人の方が多いイメージ

当該シリコンバレー行きは、まさにこの前者の研修の1つでした。

 こういう「入社xx年目」イベントに関して、
「人は人それぞれなのに、入社年次で画一的に何かやるっておかしいだろ
。。。と、およそその会社向きじゃないアウトローな考えなヤツでした。

業務命令として

 そんな自分に前者の流れで、当時の上長から恩着せ気味に「行っていいよ、ご褒美だ」という話が来ました。私が話を聞いた時に最初に言ったのは

私「断っていいですか?

でした。本当、やさぐれてますね。。。

上「いや、会社が金出してくれるんだよ?」
上「洋上研修とかいかにも、みたいなのもあるけど、あなたのはアメリカ本土だよ」
上「私が一番いいと思ったのを選んだんだから」

 とか言われましても、日々の業務忙殺と、行く目的の見えなさと、その後の諸々を考えたら、とても行く気がしない。
 当時、本件を持ってきた部門トップと私の間に直属の上長(中間管理職)がいまして、その方がひたすら苦笑いしてたのもよく覚えてます。

 結果、最後の捨て台詞は
私「全く興味はないですが、業務命令なら行きますので、行けと言ってください」
上「じゃあ、行け
私「分かりました」

というものでした。いやー若い。笑

余談2
 そもそも海外に行くのが嫌でした。
 割としょうもない理由があって、当時ずっと胃腸の調子が悪く、行きたいときにトイレがない環境は難しいと思っていたんですよね。
 幸い、その後治ってきて、ベトナムで気にせず郊外に行ける程度に安定しております。が、当時は、海外のトイレ事情を本気で心配していました。

機内・降りた後

 たまたま持って行った雑誌(ハーバードビジネスレビュー?)で、ドラッカーのマネジメント系記事があったので読んでました。

 うわー、難しい。こりゃ分からん。ってのと、

 当時は、ドラッカーの偉大さを全く知らない世間知らずだったので、
小難しいおっさんめ、くらいな所感でした。
 そんな私がアメリカの地に初めて降りたった直後、聞いたのがドラッカーの訃報でした。2005年11月。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%94%E3%83%BC%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%89%E3%83%A9%E3%83%83%E3%82%AB%E3%83%BC

 これも何かの縁なのか。。以後、ドラッカーの存在が脳裏に刻まれるようになりました。

アメリカ上陸ーしばらく

観光気分。。ですらない

 サンフランシスコ空港で落ち合った現地のアテンドの方(この方も後に大きな影響を私に下さるのですが)に連れられ、
 スタンフォード大学に行きました。まぁ定番中の定番ですね。

  • さすがアメリカのキャンパスだー、広い。。

  • ゴミ収集車の回収方法が豪快だ―

  • 学内にあるチャペルが荘厳で厳粛だ―

、、、とかは思いましたが、「命令なら行きます」などと上司に立てついていた心境からそう大きくは変わりませんでした。

オリエンテーション

 自己紹介の折、相当テンション低かった記憶があります。
 「イマイチ何しに来たんだか分かっていないところがありますが、上司命令できました。」
 みたいなことを口走ったような記憶が。。汗
 なんて世間知らずなんだと笑っちゃいますが、私は思ったことを口にする人種のため。。ちなみに、事後に、事前情報とこのオリエンテーションで「こいつは要注意人物だ」と心配されていたことを伝えられました。

 その後、座学みたいな時間がホテルの1室でありましたが、日本での実務には全く直結しない一般概論ですので、「何だかなぁ。。」くらいな印象でした。
 この手の「視察旅行」「xx研修」そのものは、わざわざ現地でやる意味は皆無かなと当時も思いましたし、2022年のオンライン全盛の今では、もはや、Webじゃないとおかしい。ですね。

 ただ、このオリエンテーションの中で、初めて、シリコンバレーの精神として「BlueSky」のことを聞き、それがなぜか頭に残りました。

食事が合わない

 少なくとも初めてのアメリカの食事は、自分には全く合いませんでした。 
 滞在中の生活自体は、基本的にホテルに缶詰めor車で移動のため、動かない+やけにボリューミー・oilyな食事のオンパレードでしたので。。
 滞在2日目の午後には「このペースで飯を食うのは無理だ」となり、食事に行くことをパスするようになりました。
 現地滞在は実質8日くらいでしたが、3日目からは、

  • 朝はフルーツジュースとかヨーグルトのみ。

  • 昼抜き

  • 夕食は他の人より少なめ。

 とかでやっと丁度良かったという記憶です。ホテル内に大して美味しくない日本料理レストランがあったのですが、しょうゆベースというだけで、他の食事より口に合う。という恐ろしい体験をして、「ソウルフードってあるんだ。。。」って思いました。

 その後の海外では、US含めこんな思いをしたことは無いので、単純に体調の問題だったのかもしれません。。。

空気の変化

ようやく馴染んできたのは、もうすぐ半分。。くらいになってからです。

BlueSky

 初日に聞いていた通り、なんせ、カリフォルニアの空はひたすら晴れます。そして、高い建物がない、広大かつ開放的な区画。
 ということで、意識的に上を見上げなくても、一面BlueSky。
 見ていて飽きない。どころか、どんどんとその空に引き込まれる感覚が出てきました。
 隙さえあれば、空を眺めては、この空に何でこんなに惹かれるんだろう。って思いながら、特に何かがあるわけでもなく物思いにふける。ということをやるようになっていました。虜になってましたね。

 どこまでも晴れわたり、日本の青さと異なる絶妙な青さ加減が魅力ですが、一方で、夜空が綺麗かと言われるとそんなことはない。。
 星の洪水になるわけじゃない。その辺で、「この空の色は人工的なのか??」感と、昼間の惹かれるBlueSkyのギャップがまた面白かったです。

英語

 そもそもその時までの生活において、英会話に全く縁遠く、1980年代までの私の頃の教育においては、ひたすら文法とread/writeなので、listen/speakスキルは絶望的に低かったわけです。
 社会人になって以降も、英語に関しては全く必要性がなかった人生を送ってきたため、このシリコンバレー訪問時の英語への戸惑いの大きさは言うまでもありませんでした。

 それでも、目の前の日本人同士以外の会話やら、ロールプレイ研修などは当然英語で行われ、かつ、せっかくアメリカに来ているのに英語アレルギーが全く治らずに帰国するほどアホらしい話もなかったので、なるべく英語に慣れようとしていた記憶があります。

 そうすると面白いもので、何日かすると、「あれ?これ、何か意外と耳が馴染んできてない?」と思えるようにもなり、(「英語の下手な日本人」向けの話し方をしてくださった皆様のご協力もあり)、少し、アメリカにいるのが楽しくなってきました。

一緒に行った人

 研修仲間としては、所属していた会社の同期1名と、それ以外の他社であと3人、+現地の方々というこじんまり構成でした。
 会社の同期はさておき、他のメンバーとの関係性ができてくるにつけ、当然ながら楽しいなと思うことも増えました。

 当該研修終わった後の関係性が続いているか?と言われると、そんなことはないので、一時的なものと言えばそれまでですが、一緒にいる人達との課親睦を深められたことや他のことも合わさって、やさぐれた心が軟化したのは間違いないところです。

時差ぼけ?

 時差ぼけ・・・といえばそうなのですが、どちらかというと、「ハイで寝られない」状態がずっと続いていました。寝たような寝てないようなで睡眠1日3時間、みたいな日々でした。
 具体的には、アメリカにいながら、日本の日中のメールに割とリアルタイム応答できました。西海岸なので時差16時間ですが、

  • アメリカ8時=日本0時

  • アメリカ20時=日本12時

  • アメリカ26時=日本18時

  • アメリカ28時=日本20時

 日本18時~20時くらいのメールに、割と返事していた記憶があります。
 「あ、こいつ帰ったな」とかアメリカで分かる程度に。
※当時はメールのみで連絡してました。skypeとかまだ使っておらず。

劇的な変化

それは突然に

 滞在6日目くらいの、研修の合間で、また空を見上げていた時のこと。
 いきなり、何かが差し込んできました。何と表現していいか分からないのですが、神の御告げに近いレベルです。

 言葉や具体的な何か…ではなく、感情に訴えかける一筋の光
みたいな感じでした。それが差し込んできた直後から、あふれる涙が止まらず、興奮に近い感情を覚えました。当時の心境を無理矢理言語化すると、

  • 何やってんだ、お前

  • そんな小さなことで考えててどうする

  • 空からいつでも見ているぞ

  • もっと大きくなれ 

 そんな感じで、blueskyが差し込んできたっていうところです。当時のモヤモヤした日々に対して、アメリカ滞在が自分にくれた道しるべみたいなものだったのかな・・と当時は思いました。

それ以降の研修

 何かが弾けたように楽しむようになりました。もちろん、ヒト同士が慣れてきたことも大きいのですが。
 最終的には、妙に高揚して終わったことを覚えてます。
 最終日が、当年のThanksGivingDayで、大して美味しくはないが郷土の風習であるところの七面鳥+オレンジソースであったり、ワイン飲みながら語り合ったり、その中でも、あなた憑き物取れたよねって言われたり。

 最初はどうなるかと心配していたんだよ。と言われました。

 自分の中で抱えたいたモヤモヤに対して、何でこんなにモヤモヤしていたのか。そんなことへの振り返りにもつながりました。

まとめ

 このシリコンバレー研修にまつわる日記的なのは、過去にFaceBookで上げたり、会社の研修報告で(人生観変わりましたetc)書いてみたりしていまして、ある意味自分の中で物語化しております。

 抜けてることも当然ありますが、記憶にも残りやすいイベントが多くて、20年近く経った今でも、割と昨日のことのように思い起こされます。そして、

  • 帰国後すぐから日本で行動変容した部分と、

  • 行動変容が3日坊主ですぐ元に戻った部分と、

  • 行動変容しようとして失敗した部分と、

  • 将来に向かっての大きな分岐になったことと、

  • 今のこのタイミングの「社長になりたい」につながったことと、 

まぁ色々につながりました。

 人生観変わった結果としては、その数年後に退職しちゃった(実行しちゃった)ってのはありますが。。

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