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世界を良くするために僕らができること

人生って色々ある。
どんな人でも山あり谷ありの人生なんだと思う。

そんな人生の中でも特に思い出深い9ヵ月が、終わろうとしている。
これを書いてしまうと本当に思わってしまうのだと思うと、書き進めるのが嫌になるが、9ヵ月の締めとして自分の想いを書き記しておこう。

俺が参加した9ヶ月間というのが、株式会社TABIPPOの提供している
「ニューノーマルトラベラーの学校」、POOLO(ポーロ)だ。

一回あなたの心を読んでみせよう。思ったハズだ、
「ニューノーマルトラベラーってなんやねん」と。
大丈夫、俺もよくわからん。

ただ、POOLOに参加してみて一つだけ分かったのは、
”POOLOが広がれば世界は確実に良くなる”
という事。

俺が急にザビエル化したので少し引いちゃってる人もいると思うが、俺がPOOLOに参加して学んだこと・感じたことをコトの始まりからお話させて欲しい。

自分のこと

話が長くなるのもアレなので、パッと結論から入りたい所だけど、
まずは筆者の人となりを知って頂いた上で読み進めて貰えると嬉しい。
何故なら何事もその人を理解した上で見るのと、知らずに見た場合では全く違って見えるからだ。

出身と幼少期

生まれ育ちは岡山県倉敷市茶屋町。
家の周りは田んぼだらけで、夜になるとウシガエルの鳴き声で包まれる、そんな街。遊び場といえばもっぱら家の近くのスーパーだった。
まぁ一言でいうと適度な田舎町だ。不便に感じた事は全然ない。

父・母・姉・俺の4人家族。
大人になった今でも、いや大人になればなるほど思うが家族は宝物だ。

俺の幼少期は母曰く「大人しくて面倒のかからない子だった」らしい。
大人になってから俺と知り合いになった人からすると意外かもしれない。
おそらく、大体の知人の俺に対するイメージは
「うるさくてめんどくせー奴」だと思う。

とにかく、体も小さく引っ込み思案な男の子だった。
近所のガキ大将にイジメられたらいつも姉に助けて貰っていた。

そんな中、幼稚園時代にもう一人の自分が現れる。
人の笑顔を見る事が大好きだと気づいてしまったのだ。
シャイな自分の性格を自覚しつつも、人の笑顔を見たくてたまらないのだ。

思いつく限り、母親に人生で初めて怒られたのは、幼稚園の敷地内にある丸くて回るタイプのジャングルジムで「メリープリスマス!」と叫んでお尻をぷりぷりさせながら頂点でグルグルと回っていた時。
気付いたら母に鬼の形相で叱られていた。マジで雷が落ちたんじゃないかって思った。

小学校の卒業文集で書いた将来の夢は「漫才師になってM1優勝」だった。
まぁよくあるやつ。
仲良しの子と”半袖長袖”ってコンビを組んでいたが、それもいつしか思春期の波にかっさらわれていった。

そんなこんなで田舎の人と自然を感じやすい環境でスクスクと育った。
そんな中、小学校高学年くらいに事件が起こる。

生まれて初めて凄く辛いと思ったこと

とーちゃんが病気になった。それも精神系のやつ。
辛かった、とっても。

今回は本件が主旨では無いので詳しくは書かないが、当時はまだ精神系の病気に対しての世間の理解も追いついておらず、無論家族の俺たちも受け入れてあげたいのに、理解不足故に心も体も限界だった。
いつか、このことは本に書く予定だ。

そんなこともあったせいか、俺は自分の人生を幸せとは思えなかった。
世界を全然知らない子供としては「自分は世界一不幸」くらいに思っていた。

俺の地元は中学校を卒業したら工場に就職する奴も多く、俺も成績があまり良く無かったので、地元の工場で働くんだろうなと思っていた。

正直、「自分の人生、こんなもんか」と思っていた。
過去に戻れたら引っ叩いてやりたいが、本心でそう思っていた。

かーちゃんがパワフルな女性で、一馬力でも踏ん張ってくれたのもあり、
部活動に加えてクラブ活動もやらせて貰い、スポーツに青春を燃やした。
ただ、スポーツはそれなりに頑張ったが、高校・大学と受験において何かに合格したことは一度たりとも無かった。

そのことから、自分は努力ができないやつなんだと自分で自分にレッテルを貼っていた。
自分に期待をしていない人生というのは中々にキツイもんだと感じた。

そんな中で、人生最大の転機を迎える。

留学

上述した様に、大学受験に失敗した俺は浪人or私立進学の選択を余技なくされた。
私立に行く金銭的余裕とモチベは無かったので、浪人しようとしたのだけど、母も俺も「自宅で浪人とか、絶対勉強しないよね」って強い確信があったので、お隣の香川県にある全寮制の予備校に通う事を決めた。

予備校に入学の申し込みに行く日の朝、ベッドから起きて眠い目を擦りながら母に「んおぁよぉう」と挨拶すると、母が
「あんた、留学とかどうなの?」と想定外の事を聞いてきた。

何が起こっているのか分からないながらも、
「えっ、興味しかない!!」と勢いだけで返事した。
母が「大阪に留学を斡旋する会社があるから、今から行くよ!」と言って1時間後に大阪に向かった。母が少しラピュタのドーラに見えた。

そしてトントン拍子に色々決まり、留学する事になった。
母は本件について「なんかこうね、降りてきたんよ!」
毎度ドヤ顔で語ってくれる。ナイス降臨!!(ホントありがとう)

留学で得たもの

母の降臨のおかげで留学が決まり、
アメリカはカリフォルニア州、サンディエゴに6年間留学した。
人生の転機をあげるとすれば、間違いなくココだろう。

留学で学んだことは本当にたくさんあるが、大きく2つ。
1つは「世界は知らない事だらけ」という事。
そして2つ目は「やればできる」という事。

1つ目の「世界は知らない事だらけ」という事だが、
人一倍好奇心の強い俺は、折角留学したならと興味を引くものは何でもやった。

アメリカの下半分は全部車で回ったし、親友のトルコ人・エクアドル人と一緒に葉っぱ吸ってゴキゲンになったし、ほぼ毎日カジノにいたからディーラーと友達になってそいつの家でポーカーしたりもした。

全てが新鮮だったし、世界中の人が集まるカリフォルニアでは本当に色んな人がいて、「世界で自分が一番不幸」と思っていた自分が凄く浅はかだと感じた。
あと、自分とは全然違うと思っていた外国の人は、いざ話をしてみると自分と同じ様な事で喜び悩む、自分と何も変わらない人間なんだなと感じたし、一方で文化や宗教観から至る思想については頑張っても歩み寄るのが難しいとも感じた。

よく人種のるつぼと比喩されるが(最近はサラダボウルらしいね)、
あまりにも思想が根本的に違う人達に囲まれて生活を過ごすと、
結局「みんな違ってみんな良い」って考えに自然と至った。

2つ目の「やればできる」については、主に勉強面だ。
勢いでアメリカに来たは良いものの、英語が出来なかったのでマジで周りが何を喋っているのか分からなかった。
その中で現地の学生と同じ内容を勉強してテストを受けて論文を書くのだから、分かっていたがやっぱりめちゃくちゃキツイ。

何度も心が折れた。

現実逃避してパーティーに明け暮れたし、勉強もせずにルームメイトとゲームをして夜になるとビリヤードしてタコス食って寝る日々を過ごしていた。
そんな日々を過ごしている中で、カジノからの帰り道でふと
「俺、何やってるんだろう」と思った。

そこから心を入れ替えてめっちゃくちゃ勉強した。
あまり俺はスマートな方では無く、物事を構造的に理解するのが中々できなかったため、教科書を最初から最後まで何回も何回も読んで、脳にページに書いてあることを一言一句焼き付ける様に勉強した。

パワープレイな勉強方法だったので、めっちゃ時間がかかった。
テスト期間は2徹は普通にしてたし、最高3徹したこともある。
(その時は帰りの駐車場に向かう道の途中で倒れて運ばれた)

その甲斐あってか、底辺大学生だった俺の成績は飛躍的に向上した。
最終的に、現地の学生を対象にした奨学生プログラムに選ばれ、授業料を免除頂くまでになった。

今でも忘れられないのが、奨学生プログラムに応募するには教授から推薦状を貰う必要があり、特に好きだったマーケティングクラスの教授に推薦状を書いて頂いた時の事だ。
ザっと略すがそこにはこう書いてあった。

「彼は間違いなくこの大学で一番の勤勉な学生です。彼が奨学生に値しないと決断をするなら、私の承認を得てからにして頂きたい。私の教授としてのキャリアをかけて、彼が奨学生に値すると説明させて頂く所存です。」

正直、感動するよりも先にビックリしたし、何でここまで熱意をもって書いてくれるのか分からなかったから、教授に聞いてみた。彼はこう言った。

「早朝に君が図書館で勉強してたの知ってるよ。これはその時君にコーヒーを渡しそびれた代わりだよ。」
マジで”抱いて”ってなった。

今思うと、成績としては他の応募者に比べて目立つほど良い訳では無かったから、推薦状の影響が大きかったんだと思う。
血尿を何度も出しながら勉強した日々は凄く苦しかったけど、努力をしている人は必ず誰かが見ていて、いつか必ず報われるという事を感じた。

自分に期待していなかった少年が、
「どんな人生でも、諦めなければ光り輝く」と本気で思うようになった。

就職してからの今

その後、奇跡的なご縁があり、今の会社に就職し、7年目になる。
生まれ変わっても同じ会社で働きたいと心の底から思うほど素敵な会社だ。

最初は仕事に追われる日々だったが、このままじゃ人生もったいないと思って飛び込んだミュージカルの世界で、自分の好きな事を表現する喜びと楽しさを知り、そこからダンスを始めて、今では時々レッスンもしたりしている。

時々、自分にはもったいないなと畏れ多くなるくらい、幸せな人生だ。

なんでわざわざ自分の事についてこんなに長ったらしく語ったのかというと、改めて「人ひとりの人生は例外なく色々ある」という事を伝えたかったからだ。

どんな人でも人生に悩み苦しみ、出会いと別れを繰り返しそれぞれの学びを得ている。俺が32年の人生で会った限りでは、特別じゃない人生は一つとして無い

POOLOは、そんな特別な人生を経験した大人が集まる、とても刺激に溢れた熱いコミュニティだった。

POOLOのこと

長々と自分語りしてしまったので、本題にサクッと入ろう。
POOLOに参加した理由は「新しいことを始めたかったから」。

応募した時期はなんとなく起業してみたいなーと思っていたので、色んな社会人が集まる9ヶ月間の本気スクールと聞いただけで、特に説明会もしっかり聞かず勢いだけで入学した。

いざ始めてみたら少し想像と違った

最初は全然中身を分かって無かったので、意識つよつよ系のビジネススクールを予想してたから「よーし、つよつよになるゾー!起業するゾー!」って思ってたけど、良い意味で裏切られることになった。

POOLOではビジネス的な事よりも、VUCAの時代における重要なコンセプトとか、人生の豊かさといった事を本気で学ぶ場だった。

多様性の素晴らしさ

ダイバーシティとか、サステナビリティとかって今までぼんやりと概念として理解していたつもりだったけど、いざ本気で取り組んでみると、全然違った自分への染み込み方をしてきた。

思い出深かったのはチームで成果物を作る際に、自分とは考えが違いすぎるメンバーがたくさんいた中で、それぞれが自分の意見を伝える事を物怖じせず、そして周りがそれを本気で受け止めた時、自分一人では決して辿り着けなかった結論へ辿り着き、成果物を創り上げたこと。

ホント多様性って、共創って、たまんねーんです。

他人の価値観に触れる大切さ

元々留学していたのもあって、勝手に自分は多様性ってものを理解していたつもりだったけど、やっぱり深く経験すると物事の見え方や自分の価値観ってゴロゴロ変わるもんなんだなって感じた。

「なんでこの人はこんなに何でも否定しちゃうんだろう」って人、周りに結構いると思うんだけど、たぶんその人は1言で言ってしまうと経験不足。

他人を受け入れる事は、”優しいからできる”とかそういう次元の話ではない。
他人を受け入れる事が出来ない人は、他人の価値観に触れてないため、その良さを”体感できていない”。
なので他の人を理解・受容できないんだと思う。

自分の意見を発信したり、自分を表現することが怖い人は、周りの理解が無い人達に否定されてしまうことを恐れて自分を抑えてるんじゃなかろうか。

”世界を良くする=皆が自分らしく生きやすい社会を実現する”事を本気で考えてみた。
これを実現するためには、他人を否定してしまう人が、他人との出会いによって自分の価値観を広げ、他人の価値観を理解することが絶対必要だ。
そうしないと、いつまでも人は周りを恐れて自分らしくあることを控えてしまう。

世界の変え方はめっちゃ地味

じゃあどうすれば良いのって話になると、冒頭に戻るが俺は極端な話「人類皆がPOOLOをやれば世界はめちゃくちゃ良くなる」と思っている。本気で。

これは、俺がPOOLOを熱狂的に盲信しているのではなく、世界を良くしたいと本気で考え続けた結果、「自分が良いと思ったものを周りの人に伝え続ける」という結論に至ったためだ。
世界を変える方法は、きっと思っているよりもずっと単純で地道だ。

俺は宗教を自分に必要と感じたことはあまり無いけど、今は世界に宗教が広がっていった理由が分かる気がする。人は、良いと思ったものを周りの大切な人に勧めたくなってしまうものなんだろう。

この文章を俺と会ったことが無い人が読むと
「きつぅ💦」
って思う気がするが、それでも誰かに届くのなら発信し続けたいと思う。

知らない誰かに嫌われるよりも、大切な人のために人生の時間を使うと決めた。

最後に

今後もいろんな価値観に触れて自分の価値観をアップデートしていこう。
結局は、何を言うかよりも誰が言うか、だと思うから。

最後に、改めてPOOLOの皆を初め、今までの人生で出会ってくれた人皆に全身全霊のビッグサンクスを送りたい。

出会いが、全てだ。

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