No.1【ドラマ小説】起業主婦応援小説📣『立ち上がれ!』第一話「閉塞感の朝」
第一話「閉塞感の朝」
朝の光がカーテンの隙間から差し込む。いつもなら眩しく感じるはずのその光に、有香はなぜか重苦しさを覚えていた。
枕元のスマートフォンを手に取り、何となくSNSを眺める。画面に映るのは、忙しそうに働く同世代の友人や、綺麗に盛り付けられた手作り料理の写真、笑顔で写る子どもたち。
みんなそれぞれの「生き生きとした毎日」を切り取ったかのように見える。そんな投稿を指先でスクロールしていると、自分だけがどこか取り残されている気分になるのだ。
リビングに足を運ぶと、夫の圭吾がテレビをつけっぱなしにしたまま、ソファで寝落ちしていた。深夜まで残業続きだったのだろう。ちらりと時計を見ると、もう6時半を過ぎている。慌ただしい平日の朝が、今日も始まろうとしているのに――。
有香は小さく息をつき、圭吾を起こそうと声をかけた。
「圭吾、もう起きないと。あと20分で家を出るんでしょ?」
「うーん……わかってるよ」
圭吾は寝ぼけまなこでゆっくり起きあがると、「昨日、会議が長引いてさ」と苦笑した。有香は黙って頷き、キッチンへ向かう。結婚してもう8年。
娘のあかりが小学二年生になってから、朝の支度がさらに忙しくなった。家族3人の朝食を準備しつつ、自分はまだパジャマのまま。夫や子どもの世話を済ませてから身支度をする習慣が当たり前になって久しい。
キッチンカウンターに並んだ食器を眺めながら、有香はふと「私はいつから自分のことを後回しにするようになったのだろう」と考えた。
思い返せば、かつては人材派遣会社で働き、自分のキャリアを築くことにやりがいを感じていたはずだ。
だが、圭吾と結婚し、あかりを産んでからというもの、いつの間にか仕事から離れ、そのまま専業主婦になる道を選んだ。もちろん後悔しているわけではない。でも、あの頃の自分が持っていた熱意や目的意識は、今どこへ行ってしまったのだろう。
「ママ、おはよー!」
元気に起きてきたあかりがリビングに入ってくると、有香は自然と顔をほころばせた。
台所に立ちながら、
「おはよう、あかり。今日は歯医者さんの日だから、学校終わったら早めに帰ってきてね」と声をかける。
あかりはまだ少し眠そうな目を擦りながら「うん」とだけ答えた。
食卓に朝食を並べていると、背後から圭吾が寝癖だらけの頭でふらりと現れ、味噌汁をすすりはじめる。あかりもパンにジャムを塗りながら話しかけてくるので、返事をしていると、あっという間に時間が過ぎていく。
有香は一口だけサラダを口に運び、またすぐに台所へと駆け戻る。夫に持たせる弁当がまだ仕上がっていないからだ。
こうして朝のうちに何度も“家事の抜け漏れ”を確認しながら、時計の針と競争する日々。
結局、自分が落ち着いて朝食を食べる間もなく、圭吾とあかりを玄関で見送るのがいつものパターン。
今日も「あれ、鍵はどこだっけ」「体操服持った?」とバタバタ騒ぐ二人の背中を押して、有香はようやくリビングに戻る。
ドアが閉まる音とともに一気に静寂が訪れると、不思議なくらいほっとする自分がいた。けれど同時に、言い知れぬ虚無感もこみ上げる。
試しに、とSNSを開く。目に映るのは、楽しそうな投稿の数々。笑顔で映るベビーを抱っこした友人、仕事で海外出張へ行った同級生の姿。
無論、誰だって悩みは抱えているだろうけれど、こうしてカラフルな写真を見ると、自分の世界だけがモノクロに思えてならなかった。
かつて働いていた頃は、目標や役割がはっきりしていて、毎日が刺激的だった。今は家族が最優先で、その合間に自分のことをする
――それが当たり前になっている。
「これでいいのかな、私……」
つぶやいてみても、答えは返ってこない。家の中でひとりきり、シンクに残った皿を洗っていると、カレンダーの空白がやけに目に留まった。
大きな文字で書かれているのは、あかりの参観日や圭吾の出張予定など、家族の用事ばかり。
有香自身の予定は何も書かれていない。
予定欄の空白は、自分の人生の空白を象徴しているようにも見えて、苦い気持ちがこみ上げる。
昼前にスーパーへ買い出しに行くと、レジの隣で短期パートの募集広告が貼られていた。時給はそれほど高くないが、「人手不足、主婦歓迎」という文字に目が留まる。有香は広告をちらっと見ながら、「こういうパートを始めたら少しは気が紛れるのかもしれない」と思う。けれど、不思議と気持ちは動かなかった。
なぜなら心のどこかで、「単に時間を埋めるために仕事を探すのは違う」と感じていたからだ。
家に戻り、買ってきた野菜や肉を冷蔵庫にしまう。手は自然と動いているものの、心はさまよう。
大学生の頃に描いていた未来予想図、社会人になりたての頃に抱いていた“いつかは自分のやりたいことを立ち上げたい”という淡い野心――どれも今は薄れてしまった。
そんな過去を思い出すたびに、自分には無理だったんだと諦めるように、心のどこかで結論づけていた気がする。
午後は洗濯物を畳みながら、うっかりスマートフォンを開いてしまう。その瞬間、大学時代のサークル仲間だった友人が、自分のブランドを立ち上げたという記事を見つけた。
まだ個人規模だが、ネットショップで販売を始めたらしい。友人の満ち足りた笑顔の写真を見た瞬間、有香の胸はぎゅっと締め付けられるような感覚に襲われた。
「私にも、あんな風にやりたいことがあったはずなのに……」
心の中にくすぶっていた想いが、じわりと顔を出す。認めてしまえば、きっと止まらなくなる気がした。
夕方、あかりが学校から帰ってくると、有香は慌てて歯医者へ連れていき、その後に買い足りなかった食材を求めて近所のドラッグストアへ立ち寄る。
帰宅してから夕飯の下準備に取りかかり、今日も自分の時間は一瞬で消えていくようだ。
かつては退屈だと感じなかった主婦業が、なぜか今日は息苦しく感じる。
夜になり、圭吾が遅めの帰宅をすると、あかりはとっくに寝ていた。有香がリビングで一人、テレビを観るでもなくただソファに座っていると、圭吾は「どうしたの? 何かあった?」と声をかけてくる。
少し心配そうな表情に、「ううん、何でもない」と笑顔を取り繕う。有香自身、何がどう苦しいのか、うまく言葉にできないのだ。
圭吾が疲れ切った様子でシャワーを浴びに行くのを見送った後、有香はただ暗いリビングで目を閉じる。テレビの音も消したまま、静寂が耳に痛い。
かつては“いつか自分が何かを成し遂げる”と信じて疑わなかったのに、いつの間にこんなにも諦めが染みついてしまったのか。
明日の予定を確認しようとカレンダーを眺めるが、そこにあるのはあかりの下校時間や習い事、圭吾の飲み会の予定くらい。
自分の名前を書く欄はどこにもない。まるで、置き去りにされているみたいだ。
「本当に、私はこのままでいいんだろうか……」
そんな思いが胸をかすめるが、翌朝も同じようにバタバタと家族を送り出す日常が繰り返されるのだろう。
目を閉じたままソファに沈み込んでいると、台所の食器を片付けなくてはという意識が背中を押す。結局、行動しなくては誰も助けてくれないのだから。
有香は勢いをつけてソファから立ち上がり、明かりをつけて残った食器を洗い始める。湯気の立つシンクの中で、手を動かしていると何も考えなくて済む気がした。
家族を守ること。
それは大切な仕事だ。でも――それだけでは満たされない何かが確かにある。
見えない何かを求めている自分に気づきつつも、どうしたらいいのかはわからない。
ただ、変わりたいという淡い衝動が胸に生まれたことだけは、はっきりと感じられる。もしかしたら、いつかその衝動が形になる日が来るのかもしれない。
今はまだ漠然とした“もや”のようなものだが、これを見過ごしてはいけない気がしてならなかった。
――キッチンの照明がやけに眩しく感じられる夜。食器を拭き終え、水気を切った手をじっと見つめながら、有香は洗い流せない胸の奥のざわめきを抱えていた。
自分自身の心に問い続けている。
何をしたいのか、どこへ行きたいのか。
答えはまだ見えないけれど、明日もまた朝は来る。
そして、彼女の新たな一日は、今日と同じように慌ただしく始まるはずだった。
次週に続く。
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