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【店主のひとりごと】16

店主のアキラです。
いつも投稿をご覧いただきありがとうございます。

私の30代前半〜30代なかばの話です。

Hから始まる紳士服専門店の店長として秋田・大館店に赴任した私は、秋田の自然や食を満喫しながら、日々の仕事や子育て、雪かきにも励んでいました。

雪国(特に豪雪地帯)では、1日数回の雪かきが欠かせません。
朝、家の雪かき(車が雪で埋もれているのでこれをしないと出勤できないw)、店の雪かき(これをしないとお客様が店に入れないw)、家に帰った後の雪かき(これをしないと明日の朝大変なことにw)。
その他にも、こまめな雪かきが欠かせませんでした。

店の駐車場にできた厚い氷や店舗裏の巨大なツララの処理もしんどかったですね〜

さて、その当時の郊外型紳士服専門店の業界は、青山、アオキ、コナカの順で、はるやまは相当出遅れていました。

特に私が勤めていた「はるやまチェーン」は札幌が本社で、確かその当時は業界10位ほどだったと記憶しており、岡山が本社の「はるやま商事」とは創業者が兄弟で名前が同じでも資本関係はなく、そちらは確か7位ほどだったような気がします。

私が入社した時は、両社は同じグループだったのですが、その後グループを解消して、同じ地域に「はるやま商事」の店が出店する場合は「マスカット」の称号で出店するという協定が結ばれました(現在は解消)。

さて、私が大館店の店長を務めていた時に、衝撃的なニュースが頻繁に報じられました、それは、バブル崩壊後に起きた「金融機関の破綻」です。

4大証券の一角を占めていた「山一証券」や仙台の「徳陽シティ銀行」など、銀行や証券会社が破綻するなど、当時はとうてい考えられなかったことが現実に起こりました。

そして、私が所属していた札幌が本社の会社は当然「北海道拓殖銀行」がメインバンクでした。。。

そう「北海道拓殖銀行」も1997年に経営破綻したのです。

その後の展開は目まぐるしく、煽りを受けた私がいた会社は一気に資金繰りが悪化して、一時商品の入荷が極端に減った時期がありました。
経費の締め付けも厳しくなり、店舗の閉鎖も一気に進み、私がいた店も閉店することに。。

まぁ その後はここでは書けない出来事が怒涛のごとく押し寄せ、会社は2001年に民事再生法の適用を申請しました(現在は再建)。

私は大館店の閉店後に、妻の実家がある一関に転居して、新しい仕事を始めることに。
長男が小学校に入学するタイミングだったので、「良かったのかな〜」とも思いました。

紳士服専門店では8年、店舗運営全般と開店を2回、閉店を1回経験しました。
特に、この店舗撤退の経験は、いい勉強になりました。これは経験した人でないと分からない、苦い体験でした。

さて、東はサンマ、カツオ、メカジキの気仙沼、北は世界遺産の平泉、西は仙人の郷の秋田・東成瀬、南は渡り鳥の聖地「伊豆沼・内沼」を擁する宮城・栗原のど真ん中、もちの聖地「一関」にGOです!

続く。

#店主 #カフェ店主 #店主のひとりごと

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