【店主のひとりごと】5
私の大学時代のアルバイト話の続きです。
マックを退職した私は、仙台・中央通り(現在のマーブルロード)にあった喫茶店(カフェ)で働きはじめました。
喫茶店は「オニオン・ソルト・クラブ」という名前で、地下の1階にあり、3階に「イエローハット」という系列の喫茶店もありました。
「オニオン・ソルト・クラブ」は、非常に繁盛していた店で、客席は20席ほど、内装はレトロな喫茶店という感じではなく、西洋風の明るい雰囲気だったと記憶しております。
メニューはナポリタンやピラフ、グラタン、パフェ、コーヒーなどを提供し、「ジャンボパフェ」なる巨大なパフェが売りで、一番上にスパーク花火を点火してお客様に運ぶというパフォーマンスが女性にウケていました。
当時の私は、パフォーマンスはいいけど「火の粉は大丈夫なのかw」と密かに思ってました。
私はホールや洗い場を担当し、暇な時は仕込みなんかも手伝いました。
その店では、ていねいな接客や電話対応、トイレ清掃の大切さ、食器の洗い方、扱い方などを教わりました。
というか、けっこう厳しく躾けられましたw
その喫茶店2店を経営する会社は「日本シンク」といって、社員は5〜6人だったと記憶しております。
たまに来る社長は以前IBMで働いていたらしく、なぜかいつも秘書を連れていて、当時の私は「なんでこんな小さな会社の社長が秘書を連れているんだろう」と疑問に思ったのを記憶しております。
私が務めている時にその会社は荒町通りに「ストロベリーコーンズ」なる名前でアイスクリーム専門店を開業しました。
その当時、「オニオン・ソルト・クラブ」のサブ的存在の人がその店に赴任したのを覚えております。一度、仕事で荷物を届けたことがありますが、ほんと小さな店で、開業当初はワンオペだったと思います。
この店と会社のエピソードはもっといろいろありますが、キリがないのでこの辺で。
「オニオン・ソルト・クラブ」は約1年くらい務めて退職しました。
その後は、キャラクターの着ぐるみ、百貨店の配達、バッティングセンター、弁当屋の配達などのバイトを転々とし、Yからはじまる名前の楽器店(一番町)の管楽器売場のアルバイトに落ち着きました。
ちなみに楽器は学校で習ったピアニカとリコーダーしかできませんw
ところで話を戻すと、「ストロベリーコーンズ」(旧日本シンク)がビザのフランチャイズ事業を手がけ、「ナポリの窯」を展開し、海外進出を果たし、「シカゴピザ」の商標と一部事業を譲受する会社にまで成長するとは、その当時の私は思いもよりませんでした。
まぁ でも、事業が大きくなると本社を東京に移す会社が多い中、いまだに仙台が本社なのは、単純に「すごいな〜」と思います。
楽器屋さんも楽しかったな〜
続く。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?