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【店主のひとりごと】17

店主のアキラです。
いつも投稿をご覧いただきありがとうございます。

私の30代の時の話です。

さて、2001年の春、新世紀の幕開けに岩手の一関にやってきました。息子が小1、娘は1才です。

せっかくなので、岩手・一関を紹介しますね。

一関市は岩手の最南端に位置し、盛岡と仙台の中間地点で、東北地方のほぼ中央に位置しています。宮城県の気仙沼市や栗原市、登米市とも接しております。

ドジャースの大谷翔平選手の出身地である奥州市(水沢)は隣町です。
あまり知られていませんが、オオタニサンは一関のリトルシニア(中学生の公式野球)に所属していました。

また、観光地として有名な世界遺産「平泉」の玄関口としても知られています。
一関の観光地としては「厳美渓(げんびけい)」と「猊鼻渓(げいびけい)」という、「どっちがどっちw」というややこしい名前の場所が有名です。

私的に一関のおすすめは、「銀河鉄道の夜」や「雨ニモマケズ」で知られる詩人で童話作家「宮沢賢治」のゆかりの地があるということです。
一関・東山に「石と賢治のミュージアム」という施設もあります。

賢治は亡くなる2年前、一関・東山にあった「東北砕石工場」の技師となり石灰肥料の宣伝と販売の担当を務めます。

1900年代の当時、東北地方は冷害などの災害が多く、度々凶作に見舞われていました。
松川村(現一関市東山町)にある東北砕石工場は、この地域で豊富に採ることができる石灰岩を砂のようになるまで細かく砕き、農業用の肥料を作っていました。

賢治は工場の製品(石灰砕石肥料)の販売に協力し、東北各地を奔走しながら販売活動を行い、工場で技術や宣伝のアドバイスなども行っております。

1931年(昭和6年)9月、賢治は、石灰砕石肥料の売り込みのため上京。その途中に発熱で倒れ、旅館で家族に遺書を書きます。その後、花巻に帰り、再び療養生活を送りました。
その年の11月、手帳に「雨ニモマケズ」を書きます。

1932年(昭和7年)3月 「児童文学」第二冊に「グスコーブドリの伝記」を発表。

1933年(昭和8年)9月21日、賢治は急性肺炎のため死去。享年37歳でした。

体の弱い賢治がどんな思いで農業に役立つ石灰砕石肥料の販売、普及に奔走していたのか。。

それを思うと私はいつも涙が止まりません。

その想いは、死を覚悟した賢治がその後に書いた、「雨ニモマケズ」と「グスコーブドリの伝記」に記されていると思います。

現在、この工場は「石と賢治のミュージアム」の施設の一部となっており、工場内部を見学することができます。

館長の菅原さんやスタッフさんもとってもいい方たちばかりなので、ぜひ訪れてほしいスポットです。

また、一関・東山の新山公園には、賢治が書いた「農民芸術概論綱要」の一説「まずもろともにかがやく宇宙の微塵となりて無方の空にちらばらう」の碑もあります。
宮沢賢治を愛する詩人の谷川俊太郎さんも度々、この碑を訪れているとうかがいました。

それと、一関のもう一つのおすすめは、ジャズとオーディオの聖地といわれる、ジャズ喫茶「ベイシー(BASIE)」です。私はここで「ジャズ」を知り、学び、そしてハマりました。

続く。

#店主 #カフェ店主 #店主のひとりごと

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