旧針尾無線電信所(針尾送信所)
令和6年となりました。
本年は北信越の地震による多大な被害、被災地に物資を支給する為に出動した海保機と旅客機の衝突事故、北九州市の大規模火災という恐ろしい程災難が続いています。
まだ予断を許さない状態ではありますが、これ以上被害が大きくならない事をただただ祈るばかりです。
さて、年々更新頻度が低下し続けてる当noteですが、今回は昨年3月に訪問した針尾送信所の記事です。
一番最初に出会った建物はこちら。
説明板の通り大正10(1912)年に建設された油庫です。
トロッコ軌道跡。
説明板の写真では油庫と門衛所の前を通っているので、鬱蒼とした木々の手前の開けた部分が軌道跡と思われる。
正門から見える門衛所は大正時代の建築物を復元したもので、現在はボランティアの方々の詰所となっていますが、石垣と基礎は当時のままのとの事。
1号・2号無線塔へ続く通路。
残念ながら2号無線塔周辺は立入禁止。
大正7(1918)年11月着工、大正11(1922)年4月に3基の無線塔の中で一番最初に完成した1号無線塔は、外観のみですが間近で見学する事が出来ます。
(2号無線塔は同年5月竣工。1号同様高さ約136m)
1号無線塔の見学を終え、事務所跡・兵舎跡・1号・2号無線塔を望む。
大正10年に建設された事務所・兵舎は昭和26(1951)年の火災で焼失した為、跡地に残っているのは基礎と井戸のみ。
3号無線塔に通じる通路傍に残る穴。
説明板にも記載が無いので何だったのかは不明。
うっかり通路を撮り忘れておりますが、通路脇にはこんな遺構も。
遠目からだと観光用に建てられた東屋のように見える遺構は、大正12年頃に建てられた見張所。
鉄筋コンクリート造りの建築物は100年も経過しているとは思えない程状態が良い。
3基の中で唯一内部見学出来る大正11(1922)年7月に完成した3号無線塔。
塔内部にはアンテナケーブルの振動を吸収する重錘やケーブル維持管理用の巻揚機が残っています。
海側から見た3号無線塔。
左に見張所、右奥には2号無線塔が見える。
そして、こちらは通信業務を担う発電機や送受信機などが設けられた電信室で、1階が埋められている半地下式2階建て構造。
真珠湾攻撃を命じる「新高山登レ一二〇八」を送信したという説もありますが、送受信に関する資料が残っていない為、詳細は分かっていません。
1階入り口からヘルメットを被り、内部へ。
機械室で発電された電気を送信機などで使用する為に交流から直流に変換する役割を担っていた整流器室。
立ち入る事は出来ないが、整流器室にある階段は2階の送受信・送信機室に繋がっているとの事(説明板によると建設当時の図面と階段の位置が異なっているよう)
1階中央は各種倉庫となっており、2階の二次電池室に設置されていたバッテリーに使用される硫酸を始め、油の保管庫や工業室として使用されていました。
機械室は吹き抜けとなっており、天井には運搬用と思われるクレーンと、床には発電機類の基礎も残っています。
無線の主流が長波通信だった頃に建設された針尾送信所ですが、太平洋戦争時に中短波が主流となった事で針尾送信所の重要性は薄れていき、戦争末期には食糧倉庫として無線塔が使用されていたと言います。
戦後は昭和23(1948)年の海上保安庁発足により佐世保海上保安部の管轄となった為、海軍の無線施設はそのまま引き継がれ、昭和29(1954)年の海上自衛隊発足以降は同施設を共同使用していましたが、平成9(1997)年に海上保安庁の無線施設の更新によって針尾送信所は役目を終えました。
帰路は針尾送信所のフォトスポット的な西海の丘展望台に立ち寄り、少しばかり撮影して撤収となりました。
最後まで読んで頂き、有難うございます。
【撮影機材】
Canon EOS 6D
Canon EF8-15mm F4L Fisheye USM
Canon EF17-40mm F4L USM
TAMRON 28-300mm F/3.5-6.3 Di VC PZD (Model A010)
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