モロッコ旅行記 3月9日
3月9日
午前八時にN君に起こしてもらう。共有スペースでベルベルオムレツを食べ、川辺に降りて洗濯をする。その道中、民家の裏の、オアシスのなかの畑を通る。青々した草をたくさん背負って歩く女性や、荷を背負ったロバが歩く。道をあけて通りすぎるのを待つ。
透明なせせらぎは素足に冷たく、洗濯のためにかがめた腰を休憩がてら元へ戻せば、空高くに渓谷の絶壁がそびえたっている。風の渡
る心地良さや、鳥の啼くのや、遠く近くの民家の屋根で叩くトンカチの音が絶壁に反響する。まだ意識の眠たい頭では身体の感じる快さが際立つが、その片隅で、霞のかかる頭の内にちらりと、
「何をしているんだか」
という虚無が顔をのぞかせる。
ゲストハウスの隣に住むユセフがインストラクターについて、渓谷でロッククライミングを体験する。幼少の心が蘇る。
昼食をとり、グランタクシーで西村君とティネリールの市街地へ下り、スプラトゥール前で別れる。昨日ビールを買ったストアを典子さんに教えてもらい、店の前に来るも、シャッターが閉じている。
十六時オープンと話は聞いていたが。時計をみると三分すぎている。
少し待ってみるかと、そこから近いカフェで時間を待つ。
陽が刺す。暑い暑い。西村君と別れて久しぶりに、と言ってもたった二十四時間だが、一人の時間を持てたように思う。明日からアーモンドに宿は変わるが、あまり人とばかりいないようにしなくては書けるものも書けなくなってしまう。
オアシス、畑、川、渓谷、まずはこの土地の描写を。
ティネリールは雑多である。暑い日差しが気力を奪う。目は細まって、視界は白光りする。排ガスと砂埃が舞って、屋台にずらりとオレンジが敷き詰められている。
昼間からカフェで談笑する男たち。
ヒジャブの下の褐色の肌。笑った時の白い歯。
三十分ほど待ってもシャッターは閉じられたままで、隣のスタンドの男に訊ねてみると、今日は休みだという。仕方なく引き返し、ATMで現金を引き出し、市場でサンダルを買おうとすると、オマーというガイドに声を掛けられ、彼についていってサンダルを購入する。ジャッキーという愛称の、シャフシャウエンで鉱石を売る仕事をしている男とも合流し、ミントティーを三人で飲み、近くのベルベルバーへビールを飲みに行く。
短い階段を下りると半地下の薄暗い空間にスピーカーからベルベル音楽が流されている。入口正面にL字のカウンターがあって、壁に沿って上等でないソファが置かれていて、灰皿の乗った背の低いテーブルが点々とある。
時刻は午後五時すぎ、客は十人ほどだったが、みんなビールのグリーンの空き瓶をテーブルに置き、煙草を吸いながら、あるいはグラスに注いだビールを飲み、仲間と談笑し、あるいは一人で静かに陰気になっている者もいる。冷房が効いているのか、地下だからか、ずいぶんと肌寒い。光量の少ないブルーの間接照明が、地下の冷たさや、陰気さを際立たせている。
オマーとジャッキーとわたしとで隅の席に座る。大音量のベルベルミュージックのせいもあって、クラブのラウンジのようでもあり、風俗の待合場のようでもある。あるいは、地方都市の場末のキャバクラか。
他の客が飲んでいるのと同じグリーンの瓶の「フラッグ」をそれぞれ頼む。
「観光客は一本30DHだけど、お前は家族、兄弟だから、ベルベル価格の20DHで大丈夫だ」
口当たりは軽く、暑く乾燥したモロッコでは特に飲みやすい。
あっという間に三人とも一本を空けて追加する。
「いまかかっているのはアガディールのベルベルミュージックだ」
「キャラバンの音楽も最高なんだ、マリあたりでよく聞かれる」
「ボブマーリーはベルベル人も大好きだ、ほら、あそこにもサウスブラックが居るだろ、レゲェは最高だよ」
「明後日、スーパーマーケットでワインを買って、家でパーティーを開くからお前も来なよ」
「へぇ、ストレスで仕事を辞めたのか。モロッコは、レゲェは、リラックスするのにはもってこいだよ」
「ハッピーか?」
「なに?日本の神はたくさんいるのか?木の神?オレンジの神?ビールの神?それじゃあパラダイスは何処にあると思う?」
「お前の言うように、たしかにここは或る種の小さなパラダイスかもしれないが、実際にはたった一つ、俺たちが生まれ、死んだ後に、俺たちが行くところだ」
「ムスリムは良い奴らだ。ジュイッシュ、良い奴だ。キリシタンも良い奴だ。ブッディスト、良い奴だ。ラスタ、良い奴だ。みんな素
晴らしい奴らさ」
ビールはそれぞれ三本目。すると向こうの席でユセフがビールを飲んでいた。
「100DHあればワインを頼めるんだ。今はもうない?OK、仕方ない」
「あさっての終末、皆が休みだからベルベルディスコへ行こう。OK、それじゃあ9時にノリコの家に来てくれよな」
半地下のバーに『ノーモア・ノークライ』が流れている。冷たい空間で、ベルベル人たちが音楽に包まれながら酒を飲み、握手を交わし、笑いあっている。すばらしい空間だと思う。
三本目をあけて、ユセフに別れを告げて外へ出るとまだ明るい。
タクシーやバスの乗降場でミニバスの乗客が集まるあいだ、ベルベル人数人と言葉を交わす。
「彼は雌牛を飼っている」
「文字の読み書きはできないんだ」
「マラハバを日本語で言うと、ようこそか」「お前はシェフをやっているのか」
など。
バスがようやく出発する頃には日はすっかり暮れて午後七時。砂埃のひどく付着したバスの窓で渓谷の家々の灯りがぼやけている。
戻り、こういう二人に出会ったというと、
「偽ガイドのオマーね」
と典子さんが笑う。聞くと、偽だったのは去年くらいまでで、彼はめずらしく教育を受けていて読み書きができるから現在は試験か何かに合格して、正式にガイドとして働いているらしい。とは言っても、隙あらば小銭を手に入れようと画策するから侮れない。
夕食後、ユセフがワインボトルを持って帰ってきて、典子さんと三人で話す。
十四日から典子さんが日本へ帰るというので、二週間、宿泊費は要らないから手伝わないかという相談を受ける。経験として魅力的だし、することのないわたしにとっては拒む理由もない。
けれども、ここを訪れる日本人客はきっと典子さんのつくる美味しい日本食を楽しみに来るのだろうから、わたしにその役目が果たせるだろうかと不安になる。それでも、計画なく、宿泊する予定のなかったこのゲストハウスは、アーモンドが満室だったための偶然事であって、神託だろうかなとも思う。主題を求める私にとっても好都合ではないかと打算もある。丁稚奉公と思えば気も楽だ。
寝る間際、テラスへ移って星空を三人で眺める。
「日本人はみんな安い安いと言ってアーモンドへ行ってしまう」
すこしだけ残った赤ワインを飲みながらユセフが嘆いていた。
「アーモンドでは、この星空が見えないのよね」
典子さんが言う。