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バロン西と尾形藤吉

総合馬術団体銅メダル

歴史的快挙

2024年パリ・オリンピック。日本馬術界にとって長年の悲願だったオリンピックでのメダル獲得が、総合馬術チーム団体戦の銅メダルによって、ついに成し遂げられました。馬術競技として92年ぶり2個目、団体戦では初となる、文字通り歴史的快挙になりました。

競馬界と馬術界が連携して

 総合馬術団体戦は、リザーブを含めてチームは4人で構成されます。その中の一人、戸本一真選手はJRA馬事公苑所属。

 東京2020大会の馬術競技は、リニューアルした馬事公苑で開催されました。それに合わせるように、開催前から主催国としての面目をかけたJRAの強力なサポート体制が整えられ、結果、戸本選手は総合馬術で個人4位、また福島大輔選手も障害馬術で個人6位に入賞。ともに89年ぶりとなる入賞だったわけですが、馬術界と競馬界が手を携えた結果が、3年後のパリ大会で最高の形で実を結んだ、ということになります。

92年前は金メダル

 バロン西こと西竹一の名前は、競馬ファンならずとも知っている人は多いでしょう。それは勿論、1932年のロサンゼルス・オリンピックでウラヌス号に騎乗し、障害馬術で金メダルを獲得したことによるのは言うまでもありませんが、やはり太平洋戦争末期、激戦地の硫黄島での逸話=ロス五輪の活躍でアメリカ国内でも有名人だった西が、米軍による総攻撃当日の早朝から、再三にわたって投降を呼びかけられながらも、それに応じずに戦死した=によるところが大きいでしょう。

バロン西と尾形藤吉の接点

バロン西が跨ったサレブレッド

 ところで、西竹一は1932年のロサンゼルス・オリンピック大会で金メダルを獲得し、1945年の硫黄島で戦死しますが、この間の1936年に行われたベルリン・オリンピックにも出場しています。ベルリンではウラヌスとの障害飛越競技だけでなく、総合馬術競技にも出場しました。その時に騎乗したアスコット号は下総御料牧場で生産されたサラブレッドで、尾形藤吉厩舎に所属。目黒競馬場での帝室御賞典などを勝っている優秀な競走馬でした。

 アスコットの引退に際して、「競技用乗馬に」というプランが浮上すると、藤吉が東久邇宮稔彦王に寄贈。乗馬として再生させるための、今でいうリトレーニングを任されたのが西で、大会でも自身が手綱を取ったわけです。結果は12位でしたが、野外騎乗(クロスカントリーのことだろう)を無事に走り終えたと聞いた藤吉は、「競馬で勝った時より嬉しかった」と自伝で述懐しています。

そして今に続く

 ベルリンオリンピックの馬術競技では、もうひとつ興味深いエピソードがあります。総合馬術競技に出場したのは西竹一=アスコットだけでなく、紫星号に騎乗した松井麻之助という選手もいました。こちらは野外騎乗で失格してしまいましたが、もともと陸軍の騎兵学校で教官をしていた人物で、戦後はJRAの調教師に転身。通算351勝を挙げ、競馬畑で生涯を終えました。
 調教師顕彰者である橋口弘次郎元調教師の師匠筋にあたり、現役の調教師である橋口慎介師が、父・弘次郎からその系譜をつないでいます。

 松井麻之助が戦後、1954年に発足した日本中央競馬会(現在のJRA)の調教師に転身する際、尾形藤吉がどのようにかかわったか、については残念ながら手元の資料にはありません。しかし、競馬界と馬術界のつながりを感じさせるには十分なこぼれ話、と言えます。
 やはり両者はしっかりと繋がっている。92年の歳月を経た歴史が、雄弁に物語っているかのようです。

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