でき太くん三澤のひとりごと その147
◇ サザエさん
私は「でき太くんの算数クラブ」で仕事をするまでは、数年間だけ東京でサラリーマンをしていた時期があります。教育とは全く関係のない業種です。
朝は満員電車に揺られ、四谷3丁目にある仕事場に行き、お昼には気の合う同僚と贅沢なランチを食べる。そして、毎日いかに利益をあげるかだけを考えていました。
四谷3丁目というところは、新宿にも近く「遊び」には事欠かないところです。
芸能事務所や、お台場に引っ越す前のフジテレビも近くにあり、多くの芸能人を見かけました。
普段テレビで見るような芸能人を間近に見て、「やはり女優になるような人はオーラが違うな」というようなことを感じておりました。
「中森明菜が丸正にいたぞ!」という情報を得たら、仕事そっちのけで、丸正に行っていたようなアホなサラリーマンでした。
ちょうどそのころ日本は「バブル」ということもあり、サラリーマン時代にはそこそこの収入がありました。
江東区の常時管理人がいるような賃貸に住み、不自由のない生活をしていました。
マンションのセキュリティは万全。新聞の勧誘など一切ありません。
週末にちょっと蕎麦が食べたいと思ったら、気の合う友人と長野まで車ででかけ、蕎麦を食べたらそのまま帰るというような、今振り返れば本当に贅沢な暮らしをしていました。
冬になると週末は必ずスキー。
苗場、湯沢、安比、北海道。
色々なところに行きました。
日本に雪がない時期には、香港にいって朝粥を食べたり、、、
本当に贅沢だったと思います。
そのころの私はほとんど自炊はしていませんでしたので、月曜日から日曜日までほぼ外食です。
その当時から、私はお酒が好きでしたので、食べながら呑むというのが日常でした。
夕飯を食べたら、そのまま他のお店へはしごです。
ほとんど毎日といってよいほど、酔って自分の正常な意識が保てなくなるまで呑んでいました。
その当時の私が正常な意識がなくまで呑んでいたのには、理由があります。それは、自分の生き方や人生について考えたくなかったからです。
お酒を呑んで意識が飛んでしまえば、冷静に考えることができなくなります。その当時の私は、自分をあえてそういう状況に追い込んでいたのです。
サラリーマンをしていると、自分の好きではないこと、やりたくないことも、上からの命令であればやらなければなりません。
お給料をいただく以上、それは仕方のないことだったのです。
サラリーマンにとって会社の利益は第一に優先すべきことです。個人の主張、価値観、生き方など関係ありません。
私はそういう環境が嫌だったのだと思います。
お給料のためとはいえ、自分の価値観や生き方、そういうものを犠牲にしてまで働くことに納得できていなかったのだと思います。
だから、そういう自分をごまかすために、正常な意識がなくなるまで呑んでいたのだと思います。お酒に逃げていたわけです。
その当時、二日酔いで目が覚めてテレビをつけると、日曜日には大抵「サザエさん」がながれていました。私はそのころ「とんねるず」が大好きでしので、フジテレビを見ることが多かったからだと思います。
サザエさんでは、昔から変わらない日曜日の親子の団欒や、季節のこと、ちょっとした日常に焦点をあてたような日々の小さな幸せを慈しむ内容がいつも放映されていました。
経済的には恵まれているとはいえ、心は荒んだ生活をしている私がサザエさんを見ると、本当に嫌な気持ちになりました。「サザエさん一家はこんなに幸せそうなのに、自分は一体何をしているのだ?お金があれば幸せなのか?」という問いが、心に浮かんでくるからです。
人というのは不思議なもので、毎日意識がなくなるくらいまでお酒を呑むような荒んだ生活をしていると「本当にこのままでいいのか?」という声が心から何度も聞こえてくるようになります。
「おまえはこのままでいいのか?」
「やりたくないことを給料のためにやり続けるだけの人生でいいのか?」
「こんな生活をしていていいのか?」
という囁きが心から聞こえてくるのです。
そして私は、20代後半に差し掛かったときに、東京での生活をすべて捨て去る決意をしました。
「もう自分をごまかすような人生はこれで終わりだ」
そう決意して「でき太くんの算数クラブ」を起業したばかりの師匠がいる長野に移住することにしたのです。起業したばかりで、まだ会員もほとんどいない。もしかしたら安定した収入が得られないかもしれない荒波に自ら飛び込むことを決めたのでした。
自分の経験を活かせる仕事。
自分が正しいと思えることを、まっすぐに伝えることができる仕事。
自分が妥協しなくてもよい仕事。
そういう仕事ができるでき太くんの算数クラブへ、そういう生き方ができる長野へ移住したのです。
今考えると、とことん荒んだ生活をしたからこそ、導くことができた決断だったと思います。中途半端に遊んでいたら、決して導き出せなかったでしょう。
この決断に、私は後悔はしていません。
東京に未練もありません。
その決意から数十年が過ぎ、今、私は多くの会員の方に支えられ、自分が本当にしたいこと、自分が信じていること、自分が理想とする教育を妥協することなく、実践することができております。
今でも時折、「東京でサラリーマンしていたほうがよかったんじゃない?」ということを言う友人もいます。
でも、それではなにかが満足できず、お酒で意識をなくすほど呑んでしまう自分がいる。
私は、どうも生まれながらにして厄介で天邪鬼な人間のようです。
1度しかない人生だから、できるだけ妥協はしたくない。
自分がやりたいこと、信じること、好きなことをしたい。
そして、自分が死ぬときに「自分の人生は最高だった!」といえる生き方をしたい。
そういう子どものような理想を、私はこれからも追い求めていくのだと思います。