でき太くん三澤のひとりごと その124
◇ 教育、子育てとはまったく関係のないただの実話です
その3
塾長と別れて、もう30分くらいたっただろうか。
川のような登山道では、足をグッと踏ん張っていないと、どんどん足が流されてしまいます。
足が流されていかないように、しっかりと足に力を入れ、さらに木の根元を手で掴みながら、足を一歩ずつあげる。
そのあげた足が流されないように、またグッと力を入れ、手の方は根や枝を掴んだりしながら、少しずつ、少しずつ山小屋に向かって私たちは進んでいきました。
ここで私とKくんとの体力、そして経験の差が、二人の間の「距離」となって少しずつあらわれてきました。
次第にKくんが、私の視野には入らなくなってきました。
どうやらKくんは、かなり上のほうまで登っているようです。
「おーーーーい!Kくーーーん!ちょっとまってくれよーーー!」
「おれを置いていかないでくれよーーーー!」
「ちょっとまってくれよーーーーー!」
「おーーーい、それでもともだちかーーー!」
「この裏切りものーーー!」
かなり大きな声を出したつもりでしたが、土砂降りの雨と、川のように流れる水の音にかき消され、私の声はKくんにはとどかなかったようです。
Kくんもきっと早く山小屋にいって休みたい、この状況から早く抜け出したい、助かりたいという思いでいっぱいで、もうまわりが見えなくなっていたのでしょう。
ここでついに私は、夜の山で土砂降りの雨の中、たった一人になったのです。
はじめての夜の山で、最悪の状況。
そしてひとりぼっち。
「大人なんか信用できるか!学校の先生はゴミだ!」などと、いくら反発してアウトサイダーを気取ったところで、こんな状況でひとりぼっちにされると、自分の弱いところが色々と見えてくるものです。
「このままでだいじょうぶかな」
「本当にこの道を進めば山小屋はあるのかな」
「自分だけ道に迷って、違うところにいってしまうのではないのかな」
つぎからつぎへと、マイナスな発想が心に浮かんできます。
そして、私の体力もいよいよ限界に近づいていました。
足を上げて、力で踏ん張って、そして反対の足を上げる。
何度も足を滑らせ、また踏ん張り、踏ん張ったと思ったら、また足を滑らせる。こういう運動が、じわじわと体力をうばっていくのです。
そして、このとき私ははじめて「自分の限界」を体感しました。
私の脳は「左足をあげろ!」という指示を出しているのですが、左足がガクガクと痙攣していて上がらないのです。
いくら自分で上げようと思っても、左足がいうことをきかないのです。
「あげろ!あげろ!」と指示を出しても、痙攣して左足が上がらないのです。
このとき私は脳の指令に従えない身体というものをはじめて体験しました。
この左足が痙攣した状況のままでは、川のように流れている雨水に少しずつ押し戻されていってしまいます。
半歩でも、1メートルでも、前に進まないとこの状況から逃れることはできません。
そこで私は、木の根っこを掴んでいた左右の手を使って、左足を持ち上げることにしました。
暗闇の中、「うぉーーー!」と叫びながら、いうことをきかない足を両手で持ち上げたのです。
まるで自分の足ではないような感覚。
痙攣する左足を斜面のちょうどよいところまで持ち上げたら、また手で木の根を掴み、右足を上げる。そこでまた、両手で左足を持ち上げ、斜面に安定させたら、また右足を上げる。
まるで亀のように、進んでいるのか、いないのかわからないようなペースで、山小屋を目指すことになってしまいました。
「もしこれで右足もいうことをきかなくなったら、終わりだな」
「こんな山の中で死ぬなんていやだな、、、」
「そもそも何で楽勝とか言ったのかな。山なんかこなきゃよかった、、、」
「なにが夜の山にしか感じられないものがあるだよ。ただ遭難しているだけじゃないか、バカ塾長!」
こんなマイナスな考えばかりが渦巻いてくると、人はどうも苛立つようで、私は自分の意志に従わない左足を拳で殴りはじめていました。
「どうして、動かないんだこのバカ!」
「動け、ほら、動けよ!」
といって、左足を殴るのでした。それでも痙攣は止まらず、左足は私のいうことを聞いてはくれません。
「はあ、、、、」と、土砂降りの雨の中、深いため息をつくと、上のほうから何か大きな物体が滑り落ちてくるような轟音がしてきました。
「どどどどどどどーーーー」
土砂降りの雨と、川のように流れる水の音より、さらに大きな音。
そしてそれは、やがて人のうめき声と、周辺の木が折れた音であることがわかってきました。
少し前に、私よりもはるか上に登っていたKくんが、どうやら足を滑らせたらしく、うつ伏せのまま、登山道を滑り落ちてきたのです。
川のように流れている水によって、登山道はまるでウオータースライダーのようになってしまったのでしょう。
なんとかこれ以上は下にいかないように、周辺の木を折りながらも必死にもがくKくん。
「うおーーー!うおーーーー!」とわめきながら、轟音を立てて、私の左側を滑り落ちていってしまいました。
私がいたところより、10メートルほどは下へと流されたのではないでしょうか。
やがてうめき声と轟音は止まり、静かになりました。
おそらくこれで滑り落ちるのは止まったのだと判断した私は、大きな声でKくんに声をかけました。
「おーーーーーい! だいじょうぶかーーーー?」
すると下のほうから、
「だいじょうぶーーーー」
とかえってきました。
「骨とか折れてないかーーー?」と私が言うと、
「歩けるからだいじょうぶだと思うーーー」というKくんの返事。
私はKくんが同じところに上がってくるまで、雨の中、じっと待つことにしました。滑っては、また踏ん張り、滑ってはまた踏ん張るKくんを励ましながら待っていました。
息を切らしながら、渾身の力を込めて一歩ずつ斜面を登り、ようやく同じところに上がってきたKくんに、私は、
「大丈夫か。よかったな、無事で。とくに怪我はないみたいじゃないか」
と静かに声をかました。
まるで、置き去りにされたことは一切気にしていないかのように。
すると、Kくんは、息を整えながら、
「うん、助かったよ。マジで、死ぬかと思った」
「いくら踏ん張っても、水の勢いがすごくて止まらないんだもん」
と答えるのでした。
そしてこのとき私は、ついついそのとき感じていたことをポロッとKくんに話してしまうのです。
私を置き去りにしたあげく、私よりも10メートル近くも下に落ちてしまったKくんが、また必死に登ってくる様子を見ていて感じたことを。
「今の状況ってさ、まるで芥川の蜘蛛の糸みたいだよな」
「Kくんは自分は助かりたい、自分だけは助かりたいという一心で、友達を置いて山小屋を目指していた」
「でも、糸は切れた」
「そしてまた、この地獄の状況。まさに蜘蛛の糸だよね」
するとKくんは、何も言わずだまってしまいました。
何か弁解するわけでもなく、ただだまって下を向いている。
何も言わずだまるということは、きっと心の中で「わるいことをしてしまった」と反省しているのだと思い、私もそれ以上は、Kくんを責めたりすることはありませんでした。
Kくんが同じところに上がってくるまで、少し休んでいたのがよかったのか、Kくんがきてからは、左足が動くようになってきました。(若さってすごい!)
Kくんの話によると、山小屋はここからそれほど遠くはないようで、Kくんは山小屋がちょっと見えるくらいのところまで登っていたようです。
「ここからはそれほど遠くない。大丈夫だよ、三澤くん」
「あともうひと踏ん張り、あともうちょっとがんばれば、すぐに山小屋だよ」
人は不思議なもので、「もうだめだ、体力の限界!」と思っていても、「あともうちょっと!」と言われると、最後のひと絞りのような、ものすごいパワーが出てくることがあります。
このときの私も、まさにそれで、さっきまでの亀のような歩みが嘘のように、グイグイと川のようになっている斜面を登っていくのでした。
しばらくすると、やや開けたところが出てきて、その奥には灯りがありました。
ぼんやりとオレンジ色をした暖かそうな灯り。
山小屋から漏れる微かな灯り。
そこまで私とKくんは全速力で走り、山小屋のドアを開けると、火を起こして塾長が待っていました。
「おまえら、よくがんばったな。あの川のような登山道を、よく上がってきたな!」
「今、ようやく火を起こしたから、みんなを迎えにいこうと思ったいたところだったんだ」
そう言って、塾長は私たちひとり1人を順番に両腕で抱きしめ、背中をトントントンと軽く叩いたのでした。
「本当に無事でよかった。また会えてよかった」
そんな気持ちだったのでしょう。
しかし、ズブ濡れで、体力を完全に使い切っている私とKくんは、ここから急に寒気に襲われるのです。
自分でも止められないくらい寒気で身体が震え、歯も「ガチガチガチ」と音を立てます。
これも私にとってははじめての経験です。
自分の意志とは関係なく、寒気でガタガタ震え、歯もガチガチガチガチと音をたてるのです。
この状態をみて、きっと塾長も「やばい!」と思ったのでしょう。
「おまえら、すぐに服をぬげ!」
「脱いだら、すぐにそこの毛布で丸くなって、焚き火の前にこい!」
「え?脱ぐの?」
「ここで?」
「しかも、パンツまで?」
「いやだよ、そんなの」
こんな心の葛藤をして全裸になることを躊躇している私に、塾長は、
「はやくしろ!なにやっているんだ!」
と、大きな声をあげました。
−−−そんなやりとりをわき目に、さっさと裸になって毛布にくるまり、焚き火の前に座っていたKくん。さすが、命の守り方をボーイスカウトで教わっているだけのことはあります−−−
「先生、その毛布、かなり小汚くて、臭そうなんですけど」
と震えながら私がいうと、
「うるさい!この際そんなことはどうでもいい!」
「早く脱いで、あたたまれ!!」
このときの私には、大人や先生の圧力には屈しないという変なポリシーがありましたが、普段あまり感情的にはならない塾長が感情的になり、本気で怒っている姿に圧倒され、渋々服を脱いで、小汚い毛布にくるまり、焚き火の前に座るのでした。
しかし、それでも震えが止まらない私とKくん。
「うーーー寒い、、、、ガタガタガタガタ、、、、」
すると塾長は、自分のリュック中をごそごそとあさり、下のほうにあった「サントリーレッド」を取り出しました。よくコンビニとかで売っている小瓶に入ったウイスキーです。
私の世代の親御さんなら覚えているかと思いますが、今は亡くなってしまった女優大原麗子さんがCMをしていたウイスキーです。その当時CMを見た私は、子どもながらに、将来こんな奥さんがいてくれたらいいだろうな、と思ったものでした。
そんな思い出のサントリーレッドをおもむろに私たちの前に突き出し、
「おまえら、これ飲め!」
(はあーーー? 何言ってんのこの大人。ぼくたち未成年ですけど? 未成年にお酒をのますなんて、CMをしていた大原麗子さんもびっくりだよ!)
「先生、ぼくたち未成年ですけど、いいんですか?」
「何言ってんだ三澤!そんなの今は関係ねぇ!」
「今は、冷え切った身体をあたためることが優先なんだ!未成年がどうとか、今は関係ないんだよ!おまえらが助かることのほうが大切なんだ!責任はおれがとる!おまえら、これ飲め!」
そして、サントリーレッドのキャップに、静かにウイスキーをついで、私に渡してくれました。
−−−なみなみとついであるじゃん。しかも、お湯で割るとかでもなく、ストレートかい!−−−
静かに手渡されたウイスキーをグイッと飲むと、まず口の中が熱くヒリヒリとし始め、やがてそのヒリヒリ感がのどから、食道へとリレーのようにつながり、最後は身体全体にあたたかさとなってひろがっていくのでした。
「おおーーー!これはあたたまるぜー」
「きくなーーー!ストレートはーー!」
と思わず声を出すと、塾長は、
「じゃあ、もういっぱいだけ飲んでおけ」
と、またなみなみと大原麗子さんCMのウイスキーをついでくれるのでした。
それをまたグッと一気に飲むと、身体の震えも徐々におさまり、身体が少しずつあたたかくなってくるのでした。
Kくんはどうやら親のお酒を隠れてのんでいたようで、塾長から手渡されたストレートのサントリーレッドをくいっと一気にのみほし、
「先生、おかわり」と、自分から2杯目を催促するのでした。
「ほら、しようがねえな」と、いって塾長は2杯目のウイスキーをKくんに注ぎました。
ようやく震えも止まり、暖もしっかり取れるようになると、次第に私は冷静になってきました。
そういえば、S先生とFくんはどうした? だいじょうぶなのか?
この続きは、また次回に。
(おいおい、まだ続くんかい!!)