でき太くん三澤のひとりごと その180
◇ のり弁
みなさんは、どんなお弁当が好きですか。
私はのり弁が好きです。
作った瞬間はバリッとしていた海苔がごはんの水分を吸い、食べるころにはしなっとなる。
そのしなっとなった海苔がごはんと絡み合う。
この味わいはたまらないものがあります。
その海苔とごはんが絡み合ったものが口に入り、溶け合うとき、私は日本人に生まれてきてよかったなと思います。
ところで、お弁当というのは基本的に食べるときには冷めています。
有名なチェーン店や、コンビニなどでお弁当を買えば、温かいものをたべることができますが、おうちの方が作ったお弁当については、基本的に食べるときには冷めています。
でも、そのお弁当を「まずい」と感じる人は少ないのではないかと思います。
なぜ、冷めているのに「まずい」と感じないのでしょう。
温かいものは温かいうちに食べたほうがおいしいです。
お弁当も出来立ての方がおいしいはず。
でも、お弁当は冷めていてもおいしい。
それはなぜでしょう。
当然、冷めていてもまずくなりにくいものがお弁当のメニューとして選ばれているということもあると思います。
私は、おうちの方が作ったお弁当が冷めていてもおいしいのは、そこに目には見えない愛情というものがあるからだと思っています。
この文章を入力していて、自分でもちょっと気恥ずかしくなりましたが、とくに手作り弁当というものには、愛情が注がれているから冷めていてもおいしいのだと思います。
私はこれまで、本当に数多くのお子さんたちと接してきました。
そのお子さんたちを見ていて感じることは、多くの愛情を注がれているお子さんは、どんな困難があっても、最終的にはその困難を乗り越え、前向きに自分の人生を歩んでいるということです。
こういう子どもたちの歩みを見ていると、おうちの方の愛情というものは、本当に大切でかけがえのないものだなと感じます。
私は数年前まで、児童養護施設の子どもたちの学習サポートをさせていただいておりました。その施設では、学校の行事でお弁当が必要なときには、施設が手作りのお弁当を用意していました。これも施設の方々の、細やかな配慮と愛情です。このような配慮はなかなかできることではありません。子どもたちに日々寄り添い、子どもたちのことをいつも大切に考える先生方だからこそできることでしょう。
しかしこれは、子どもが本当に心から望んでいる形の愛情に近づくことはできても、その代わりにはなれないように思うのです。
純粋で、強く、深く、そして自分だけのために注がれたおうちの方からの愛情には代わることができないのです。
人間というのは不思議なもので、そういう「違い」を、どんな小さな子どもでも敏感に察知するように思います。
子どもにとって、純粋で、強く、深く、そして自分だけに注がれる愛情を感じ取れる対象は、自分と深いかかわりのあるお父さん、お母さんだと思います。
とくに子どもが小さなときは、お母さんがその対象となるでしょう。
お弁当は、たいていお母さんが作ると思います。
ですから、子どもからするとお弁当の一品、一品は、本当の愛情のかたまりです。
この愛情のかたまりが、味覚を通して子どもに伝わっていきます。
これがおそらくお弁当が冷めていてもおいしい理由でしょう。
日々の私たちの生活は本当に便利になりました。
教科書もデジタル化の方向に向かっています。教科書がデジタル化するなど、数十年前には想像もしていなかったことでしょう。
お弁当もコンビニで購入したら、簡単に温めることができます。
日常の支払いも現金ではなく電子決済が一般化しつつあり、レジ前ではお年寄りが支払い方法に困っている様子などもよく見かけます。
しかし、どんなに日々の生活が変わり便利になっても、私たち人間というハードは、愛情というソフトなしにはその機能を十分に発揮できません。
愛情という、デジタルや便利さ、合理性とは正反対の生きた感情が必要な存在だと思います。
私は、子どもたちが、うれしそうにおうちの方が作ったお弁当を食べている様子を見るたびに「この子たちは幸せだな」と思います。
なぜなら、その子たちは私たちが成長していく上で必要な愛情、能力を十分に発揮するために必要な愛情を無条件に注がれているのですから。
最近は少なくなりましたが、子どもが使うえんぴつ一本、一本に、子どもの名前を書いているご家庭もありました。
きっとお父さん、お母さんが、お仕事で疲れたあとでも、わが子のことを思いながら、えんぴつに名前を書いていたのでしょう。
こういう鉛筆を見ても、この子は本当に幸せだなと思います。