でき太くん三澤のひとりごと その142
◇ あなたは勉強が好きですか?
私は実践教室ではじめて会うお子さんに必ずする質問があります。
それは、「あなたは勉強が好きですか?』という質問です。
私の印象では、この質問に対して「勉強はきらい」と答えるお子さんが多いように感じています。
この質問に答えず、だまったまま俯いて質問に答えられないお子さんもいますが、こういうお子さんもどちらかといえば勉強はきらいなのでしょう。「きらい」とまでは言わないにしても、あまり好きではないというのが本音でしょう。
面接の際に同席している親御さんの前で本心が言えないのだと思います。
たまに「勉強は好き!」と答えるお子さんはいますが、それが本心であるかどうかは疑問です。近くにいる親御さんや私を意識して「好き」と答えている意識を感じることがあるからです。
本当に勉強が好きなお子さんは、その気持ちが表情に現れます。無邪気に、心からの笑顔で「好き!」と答えるものです。
こんなふうに、本当に心から勉強が好きだと思っている子には、なかなか巡り会えません。
そもそも子どもたちが勉強がきらいになってしまうのは、どうしてでしょうか。
原因は、いくつかあると思います。
すぐに思い浮かぶ原因のひとつは、子どもたちひとり一人が「自分のスタートライン」から学習を進めることができていないことです。
小学校入学の際、多くの子は期待に胸を膨らませて学校に通うようになります。
はじめて受ける授業。
自分のために買い揃えてもらった筆記用具。
はじめてみる教科書。
はじめて使うノート。
そういったものを手にして、これから始まる新しい世界にだれもが心を躍らせています。
しかし、半年、1年と経過してくると、子どもたちは次第にそれが楽しくなくなってくるのです。
学校の授業は、お子さんひとり一人の理解度、スタートラインに合わせて行われません。年間のカリキュラムを滞りなく消化していくことを優先して進みます。
そうすると、クラスの中には、授業についていけなくなるお子さんが出てきます。自分の理解度やスタートラインと関係なく授業はどんどん進み、雪だるまのように「わからないこと、できないこと」が増えていくのです。
そういうお子さんたちにとって、学校の授業や宿題は「できない、むずかしい、わからない」という負の経験をさせられるものになっていきます。
こうなったとき、子どもにとって勉強はつらいこと、大変なこと、イヤなことという印象に変わり、勉強が楽しくなくなってくるのです。
こういう負の体験ばかりをさせられれば、大人でも勉強がきらいになってきます。
その苦痛に感じている課題をしっかり取り組まなければ、先生や親に叱られるとなれば、さらに勉強に対する印象は悪くなってきます。
もちろん、逆のケースもあります。
学校の課題が簡単すぎてつまらないと感じてしまうケースです。
わかりきったこと、できていることを課題として与えられ、それをしっかりこなしていかないと先生や親に叱られる。
つまらないことをずっと強要させられれば、大人でもやる気がなってくるでしょう。
こうして平均値以上にできる子も、次第に勉強がきらいになっていくことがあるのです。
もうひとつ考えられる原因のひとつは、日本の子どもたちが「勉強の満腹状態」になっているということです。
お腹もすいていない満腹状態のときに食事を与えられれば、その食事を「おいしい!」とも感じられず、残してしまうことがあるように、学齢期になると、いつも勉強、勉強と言われ、うんざりしてしまう。勉強という言葉を聞くだけでもイヤになってしまう。そんな「勉強の満腹状態」になってしまっているケースがあるように思います。
人間というのは、私も含めて非常に勝手でわがままなところがあるもので、満たされるということが続くと、その状況があるのが当たり前のようになってしまいます。そして次第に満たされることに「ありがたい」という感謝の気持ちが薄れてしまうように思います。
毎日食事ができるということは、本当はとてもありがたいことなのに、それを感謝できなくなってしまう。
何の不自由なく、いつでもどこでも自分の勉強したいことが勉強できるのはとても幸せなことなのに、それを感謝できなくなってしまう。
それほど人間というものは、未熟な一面があるように思います。
私が10年近く前からずっとお付き合いをさせていただいているNPO団体があります。そのNPOは、今日までずっとフィリピンの貧困層の支援活動をされております。
その団体の代表の方が書いたコラムで、とても印象的なものがありました。
その代表の方がフィリピンで、ある小学生の子と知り合ったときのお話です。
その子は、小学生であるにもかかわらず、英語がとても堪能で、成績も優秀。将来は多くの人を救うために「医者になる!」という夢を持っていたそうです。
しかし、親が経済的に貧しく、その子を中学に通わせることができないため、その子はその夢を断念せざるを得なかったというお話です。
日本であれば、何かしら援助がありそうなものですが、フィリピンではそのようなことは期待できないのでしょう。
素晴らしい志があっても、どんなに高い能力があっても、生まれ落ちた国の情勢、親の経済状況の影響によって、夢を断念せざるを得ない。猛勉強をしてでも医者になりたいと望んでも、それを叶えることはできない。そういう状況に置かれている子どもたちは、きっと今でもフィリピンにはたくさんいるのです。
もしその状況にいるフィリピンの子どもたちが、「勉強の満腹状態」になっている人を見たらどう思うのでしょうか。
きっと、「私と代わってほしい!」と思うのではないでしょうか。
あなたが満腹だと思っている勉強を私はやりたい!
あなたがもうやりたくない、うんざり、見たくもないと思っていることを、私はとことんやりたい!
代われるものなら、代わりたい!
そう切望するのではないでしょうか。
満たされるというのは、とても幸せなことです。
しかし、満たされることがずっと続くと、それが毒にもなってしまうこともある。
その毒を制するもののひとつが、感謝の気持ちなのではないでしょうか。
私はそう感じています。
「勉強の満腹状態」になっている子どもたち。そして、子どもたちを「勉強の満腹状態」にさせてしまうこともある私たちは、今、日本で不自由を感じることなく勉強ができることを感謝する気持ちはあるのでしょうか。
この状況を作ってくれた先人たちに感謝の気持ちはあるのでしょうか。
もし日々の食事を感謝の気持ちを持っていただくことができれば、私たちは食事を残すことはなくなるように思います。
勉強も同様に、いつでも自由に勉強できる状況を感謝する気持ちがあれば、勉強はそれほどキライにはならずに済むのではないだろうか。
今日はふと、こんなことを考えてしまいました。