でき太くん三澤のひとりごと その134
◇ 私の過去。
今日も小学生と中学生を対象とした実践教室での授業がありました。
小学1年生は、まだまだ幼さが残っており、その幼さがとてもいとおしく、かわいく思えました。中学生はまるで大人と同じような人間関係に悩んいる。
そういう子どもたちと今日も時間を共有できることが、とても幸せなことだと感じています。
でき太くんでの実践教室での授業は、「授業」といっても学校や他の教室のように、先生が黒板の前に立って教えるということはありません。
子どもたちはひとり一人にあわせた学習材をプログラムされており、それを授業の中で淡々と学習していきます。
学習の仕方や丸つけ、やり直しの仕方に問題があれば、直接アドバイスをするという形式です。
数年通っている生徒さんについては、もうほとんど指導することはありません。子どもたちは自分の課題をグッと集中して取り組み、課題が終わると私のところにやってきて、学校での出来事を話したり、家庭学習をしていて困ったことを相談してくるということがほとんどです。
私がすることといえば、その子にできるだけあったプログラムを組むことと、生徒たちの話にじっくりと耳を傾けることです。この何気ない会話の中に、生徒の精神面での成長の軌跡や、価値観の変化などの情報がたくさん詰まっています。その意味で、子どもの話にじっくり耳を傾けるというのはとても大切だと私は考えています。
何より、子どもたちは権謀術数にたけているわけでもなく、純粋で、会話をしていても気持ちがいい。私にとってはかけがえのない時間です。
今日ふと思ったことですが、学生時代の私は、今の私を想像することができたのだろうか、ということです。
以前書いたひとりごとや、Podcast、ホームページなどでもお伝えしていることですので、すでに多くの方がご存知のことと思いますが、私は中学3年生の最初のころまで、本当に勉強ができない子でした。
小学校6年生の時点で「3ケタ÷2ケタ」(354÷23のような計算)が、しっかりできず、算数については苦手意識を持っていましたし、読書もほとんどしてこなかった子どもでした。
おそらく6年生の時点で、しっかり最初から最後まで読んだ本は、1〜2冊くらいしかなかったのではないでしょうか。
漢字もまともに書けませんし、読めません。
ですから当然、国語の成績もわるくなってきます。国語がしっかりできていなければ、社会や理科もダメです。
社会、理科の教科書や参考書、問題集は日本語で書かれているわけですから、漢字が読めない、書けない私が「できる!」ようになるわけがありません。
体育も、一生懸命に取り組んだことはなく、いつも手を抜いて本気では取り組んでいませんでした。
勉強が本当にできない私はコンプレックスのかたまりのような存在で、何に対しても本気でやる気はなかったのです。
その反動もあってか、その当時の私は、勉強や体育、習い事、スポーツを一生懸命に取り組む子を、心の中では馬鹿にしていました。
「一生懸命、汗を流して取り組むなんて格好わるい!ダサい!」と思っていたのです。そういう子を見ると、大人や先生、コーチに媚をうっているようにも思えたのです。
「勉強ができない」となると、昭和の時代は学校の先生からの評価も低くなり、まわりの大人が自分を見る目も変わってきます。
そういう子の行く道はたいてい決まってきます。
勉強もせず遊びまくり、わるい遊びばかり覚えていきます。
そこでいろいろな人生経験はでき、その経験が今でもいかされていることはあるのですが、結局は自分のコンプレックスから逃げているだけですので、ひとりになると例えようのない虚無感が自分を襲ってきます。
そのような虚無感に襲われたとき、私は鏡をみるクセがありました。
鏡を見ながら、なぜ私は私と認識するのか。三澤はなぜ、三澤としてこの世に生きているか。
そんな答えも見つからないような問いを鏡に向かってしている、ちょっと変な子どもでした。
中学に進級しても状況には変化はありません。
勉強もせずに、たた遊び呆けているのですから、中学の授業も全く理解できませんでした。
−7+4が、なぜ−3になるのか。
小学校のこともろくにできていない私に理解させようとするほうが無理のある話です。
中学では定期テストがあり、小学校のとき以上に点数で子どもを評価するようになります。定期テストが行われ、学年ごとの順位が発表させるたびに、私の劣等感は益々強くなっていきました。
まるでその劣等感から逃れるように、私の遊び(?)はエスカレートしていきました。
私の通っていた中学は、当時「学ラン」と呼ばれていたものが制服となっておりました。
ちょっとレールから外れてしまったような子どもたちは、「長ラン」といった通常よりも丈が長いもの、また「短ラン」といって極端に丈が短い上着を着たり、ちょっと太めのズボン(今はパンツというのでしょうか)をはいて虚勢をはっていたのです。
私は校則をやぶってまでそういう虚勢をはるのはどうもカッコ良いとは思えませんでしたし、先生に余計に目をつけられるというリスクも感じ、普通の制服を着て過ごしていました。
しかし、その当時の私はなぜか先輩には気に入られることが多く、先輩が着なくなった違法の制服を譲ってもらっていました。制服の裏地にペーズリー柄や龍の絵があるような、今の子は想像もできないようなクラシックな柄です。これは「意思を受け継いてしっかり着ろよ」という無言の圧力だったのかもしれません。
その当時の私は、そんな先輩の想いなど想像もできず、勝手に転売していました。
そういう違法な制服は、物によっては数万円します。それが中古とはいえ、数千円で買えるのですから、すぐに買い手は見つかります。
勉強ができないわりに、そういうお小遣い稼ぎは上手かった。
本当にタチのわるい子どもです。
この転売ビジネスには、暗黙のルールがありました。
それは、先生にどこでその違法学ランを買ったのかということを絶対に言わないということです。
私の主な顧客は同学年だったのですが、あるとき1学年下の後輩に懇願されて渋々売ったことがあります。その後輩が暗黙のルールをやぶり、先生に売主の名、つまり私の名前を言ってしまったのです。
先生に「内申書に書くぞ!」とか、いろいろ脅されたのでしょう。
怖くなって、私を売ったのです。
私は即座に職員室に呼び出され、叱られました。そして、だれから入手したのかを複数の先生に囲まれ詰問されましたが、私はずっと黙り続け、結局入手先不明ということでこの事件は終わりました。
私と同学年の子の間では鉄の掟に近いような暗黙のルールを、自分の保身のために平気でやぶる。
これは私を告発した後輩だけではありませんでした。私の1学年下の世代くらいから、同じ昭和という時代を共有していても、どこか違和感があり、感覚が違う世代になってきていたように思います。
そんな私も、中学に入学し3度目の桜を見るときには、中学で最高学年となりました。
身長もぐんぐん伸び、体格も少しずつしっかりしてきました。
精神的にはまだ幼くても、見た目は大人と変わらなくなってきます。
中学3年という時期には高校受験という未知の大きなイベントがあり、だれもが不安になる時期です。また、将来のことを真剣に考え、夢や目標に胸躍らせる時期でもあるわけです。
その当時の私は、夢や希望に満ちた将来に胸躍らせることもなく、あと1年でこういう自由で守られた時期は終わるという思いが心の中を渦巻いていました。昭和の時代は、私のように本当に勉強ができない子は、だれもが「就職する」と思っていたからです。
担任も他の先生も「三澤は就職組」と思っていましたから、だれも私に進学のことは話しませんでした。当時の私は300名近い生徒の中で、下から数えたほうが早い順位にいたのですから、それも当然の話です。
しかし今、私は「でき太くんの算数クラブ」で教育に携わる仕事をしています。
勉強が全くできず、わり算もスラスラとできなかった子が、学習材開発、学習プログラム作成をしています。
教育とは全くといってよいほど無縁な世界で生きていた自分が、次世代を担う大切な子どもたちの教育に携わっているのです。
別に私は、ここまで変わることができた自分を自慢したいわけではありません。
一体、なぜ私がそうなったのか。なぜ変わることができたのか。
ここにしっかりメスを入れ、だれもがわかる形で、自分の恥ずかしい過去も含めて公表していくことが、次世代の子どもたちを育てていく親御さんのお役に立つのではないかと考えています。
私は自分の人生を振り返り、自分が変わった「ポイント」を自覚しています。この「ポイント」が、きっとこのコラムを読む多くの方の参考になるかと思います。
次回はそのことについて少しずつ触れていきたいと思います。
2024年 新しく開発した学習材のサンプルを一部アップしました。
日々、お子さんたちの状況に合わせながら、私どもはどんどん新しい学習材を開発しております。
🔸学習材サンプル画像
https://note.com/akio_mw/n/nedc979fcf66b