でき太くん三澤のひとりごと その140
◇ 今日のひとりごと
今日も実践教室がありました。
上は中学3年生から、下は小学1年生まで。
幅広い学年の子が、ひとつの教室で学習を進めています。
一般的には学年別、学力別にクラスを分けたりするのでしょうが、でき太の場合、ひとり一人のスタートラインから学習材が構成されているので、学年の違う子がひとつの教室で同時に学習を進めていても全く問題はありません。
ひとり一人に課題があり、ひとり一人が自分の課題を集中して取り組んでいきます。
今日は小学生のお子さんのひとりが、問題をすぐに解くことができずに少し癇癪を起こしました。
思うように問題が解けずにイライラしてしまう。
イライラすると、ついつい八つ当たりをしてしまう。
感情がおさえきれずに、癇癪となってしまう。
もし私が、この仕事を始めたばかりの新米だったら、この子の癇癪を目の当たりにしたら、きっと慌てていたかもしれません。
「どう対処したらいいのか」
「どう対処するのがベストなのか」
「この子にどういう声かけをすべきなのか」
色々考えて、対処に困っていたと思います。
今は経験もあるためか、そういう癇癪を目の当たりにしても、全く動じなくなりました。
「子どもならありうること」
「そういうこともあるよね」
そんな気持ちで、そっとその子に寄り添ってみる。
そして、「必ず乗り越えられるからだいじょうぶ」という意識で見守っていく。そうすると次第に癇癪はおさまり、子どもはまた自分の課題に集中し始める。
こんないつもと変わらない光景が、今日の実践教室でもありました。
だれから聞いたか忘れてしまいましたが、「神様は乗り越えられない試練は与えない」というようなことを、以前聞いたことがあります。
日々生きていると、今回癇癪を起こしたお子さんのように、思うにいかないこと、困ること、つらいこと、不安になることがたくさん起きてきます。
もし前述した私の記憶の言葉が正しいものだとすると、日々起きてくる様々な問題は、私たちなら解決できることだから起きているということになります。
しかし実際に、つらいものはつらいのです。
いくら「神様は乗り越えられない試練は与えない」と言われても、きついのです。思うようにいかないことばかりだと、八つ当たりもしたくなるのです。
不安なことがあれば、次から次へと妄想がふくらみ、問題解決の糸口すら見えなくなることだってあるのです。
私たちは聖人じゃない。
「神様は乗り越えられない試練は与えない」と言われても、つらいものはつらいのです。不安なのです。きついのです。
だから、経験のない子どもは感情をおさえきれずに癇癪を起こしてしまう。
大人になると理性も働きますので、癇癪を起こす人は減ってくるように思います。
ですが、子どもほど自分の不安やイライラを外に表現しないにしても、心の中では癇癪を起こしているようなことがあるように思います。
ではそういうとき、私たちはどうしたらよいのか。
ただずっとつらいまま。
ずっと不安なまま。
ずっと思うようにいかないままでは、何も変化はありません。
何かしらの対策をしなければ、私たちの状況は変わりません。
色々悩みながら、私たちひとり一人は、自分なりの解決方法で、日々そういった問題と対峙しているように思います。
しっかりと問題と向き合い、すぐに問題解決できる人もいれば、なかなか問題と対峙することができず、さらに問題を肥大化してしまう人もいます。鬱になってしまう人もいます。問題と対峙する。問題と向き合うというのは、大人でも大変なことがあるように思います。
私がこれまで色々な人たちの生き様を見て感じることは、日々起きる様々な問題を解決に導き、自己実現に向かって前向きに取り組むことができる人の多くは「底抜けのアホ」のような一面を持っているということです。
「底抜けのアホ」とは、どういうものかといいますと、「すべてうまくいっているからだいじょうぶ!」と、疑いもなく信じきっている意識です。
どんなにつらい状況でも、どんなに不安になる状況でも、「すべて解決に向かっている過程である」と、疑いもなく信じきっているのです。
信じているからこそ、その問題と真正面から向き合うことができる。
問題と向き合うことで状況に変化が生じる。そして問題が解決の方向へと進み始める。
こういう流れが、そういう人たちには生まれているように感じます。
ただこれは、言葉で理解するのは簡単ですが、実践するのはなかなかむずかしいことです。
普通はなかなかそこまで「アホ」にはなれないからです。
しかし、アホにはなれないにしても、まずは日々起きてくる問題と向き合わないかぎり、解決への道がないのは確かだと思います。
今回教室で癇癪を起こしてしまったお子さんのように、まず問題と向き合うことができれば、問題は解決の方向へと進んでいく。
もしその子が癇癪を起こしたまま、その問題を投げ出してしまったら、きっとまた同じ問題が起き、癇癪を起こすような状況が巡ってくるでしょう。
でもこれは、決してダメなことではありません。いずれ必ず解決の糸口がみつかるチャンスがやってきます。
そのとき、ちょっと勇気を振り絞ってその問題と向き合ってみる。
それができないほどつらいときは、ちょっと時間をあけて向き合ってみる。こういう姿勢が大切なのかな、と思います。
今日癇癪を起こしてしまった子も、教室が終わるころにはすべて問題は解決し、最後はニッコリして帰りました。
ひとつ問題を解決して、ちょっと強くなりました。
こういう子どもの成長を見ると、私は本当にうれしく思います。
この仕事をしていてよかったな、と思う瞬間でもあります。