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でき太くん三澤のひとりごと その95
◇ 種とちらかった机と町中華
植物の種は、土や水分などといった「環境」が整うと自然と発芽する。
まるで自分の意思があるかのように。
あの小さな種の中は一体どのようなシステムになっているのか。
いつも不思議に思う。
逆に「環境」が整わないとずっと種のまま。
発芽することはない。
発芽できる「環境」が整うまで、じっと待っている。
種はいったいどこで「環境」が整ったと判断し、それをだれに教わったのか。
あるいは教わるものではなく、すでに生命のプログラムとして記憶しているのだろうか。
私は「環境」には、目に見える「物理的環境」と、目には見えない「意識的環境」の2つがあると考えています。
目に見える「物理的環境」とは、学習に集中できるように机の上が整理されていて、気が散るような要素がないなど目に見える「環境」のことです。
たまに、部屋や机の上が散らかっているのに「このほうが集中できる!」と言う人がいますが、その環境でも本当に集中できる人は、散らかっている中でも何がどこにあるのかをすべて把握している人ではないかなと、私は思っています。
私の仕事面での師匠も部屋や机の上がいつも散らかっている方でしたが、書類やデータなど、どこに何があるかほとんど把握していました。
「ベトナムの会社との契約書はどこですか」と質問すると、山積みにされたまるでゴミの山のような中から、スッと書類を出してきたときには、「もうこの人には片付けたほうがよいのでは?」と言うのはやめようと思ったものです。
何がどこにあるかも把握できておらずに部屋や机が散らかっていて、「このほうが集中できる!」とか言う人の多くは、おそらく片付けが「めんどう」なだけなのだと思います。そのほうが集中できると言うのは、怠惰な気持ちに流されてしまっている自分への言い訳なのかもしれません。
この「めんどう」という気持ちに言い訳をすることが多くなると、それはやがて習慣のようになり、「めんどう」という気持ちにズルズルと流されるようにになってきます。
そうすると、生活リズムが崩れたり、学習の質が落ちたりします。
まさに「めんどう」という気持ちがつくる「環境」の影響を受けるわけです。
このようなコラムを書くと、まるで私が「めんどう」という気持ちがわいてこない立派な生き方をしている人のように思われるかもしれませんが、私にも「めんどう」という気持ちはわいてきます。
ただ私の場合は、それをそのままにはしないようにしています。
なぜなら、その「めんどう」という気持ちがつくる「環境」によって、自分の人生、仕事、人間関係が影響されるということを痛いほど自覚しているからです。
よく私は何も考えたくないときに、町中華の仕込みから閉店までを追った動画を見るのですが、行列ができるような、地域から愛されている町中華屋さんの厨房は本当にきれいです。(店舗は古くてボロボロでも)
営業が終わったあと、深夜までずっとお掃除。
早朝から仕込みがあるのに、です。
おそらく町中華の店主さんにも「毎日油汚れを掃除するのはめんどう!」という気持ちはあると思います。
でもそれをしないのは、その気持ちをそのままにした場合の「環境」の影響力を経験から痛いほど知っているのだと思います。
お客さんとカウンターをさかいにして向き合うことが多い町中華。
その厨房が、いつも輝くほどきれい。
それによってお客さんも無意識に店主の想いを感じ、ついつい足繁く通ってしまう。
まさに私たちは、自分の気持ちがつくる「環境」、そして自分以外の人がつくる「環境」の影響を受けています。
わが子に私たちはどういう「環境」をつくるのか。
そして、わが子は将来自分でどういう「環境」をつくっていくのか。
こういうことを、時間のあるときにしっかり考えておきたいですね。