ひとりでいることに、ときめけない。(LA一人旅を終えて)
LAに一人で行ってみて得たこと、その1つが
「ひとりでいることに、ときめくことができない」
という事実。
この「ひとり」という状態は、消去法で仕方がなくこうなっているだけなのだなということを痛感させられた5泊7日だった。根本的にひとりが向いていない。一緒にいて大丈夫だとお互いに現状で意思確認できている相手がいないから、仕方なく選択しているだけ。仕方なくやってるひとりなんて、本気で楽しいわけがない。
LAに一人でいた期間、目の前に美術品や見るもの、探すものがあればそこに集中して楽しく過ごすことができた。
でもそれを報告する相手がいない。一緒にご飯を食べながらあれこれ言う人がいない。おはようやおやすみを言う人がいない。何かと訪れるふとした瞬間に、言いようのない空虚感を感じるだけだった。何日か経ってからならまだわかるのだが、これは初日から起きていた。
草津に行った時はまだ一人旅も楽しかった。望んで一人旅に行ってひとりで初めて見聞きする色々なことを噛み締め、満喫した。湯畑面白いな、ひとりで、家にはないコタツに入りながらテレビを見て夕食を食べるのも悪くないな、なんて思っていた。
でも今回は何かが違っていた。
何が違うのだろうとぐるぐる1ヶ月以上考え、そして気付いた。
ひとりから学べることはもう学び切った。
ここからさらに何か学ぶならそれはきっとひとりでは叶わない感じがするし、ひとりでいることに対して全くときめきを覚えないのである。
人生の体感的な折り返し地点はジャネーの法則によれば19歳とも20歳くらい、ユングは35歳前後だと言ったらしい。
偉い人たちがどう言うかはともあれ、個人的には今ここが折り返し地点なのかなとも感じる。根拠なんてものは何もないけれど、ただ昨年末くらいから今までの自分を揺るがすような好き嫌いの変化、自分の魅せ方の変化などがガラガラと大きな音を立てるようにして起こり続けていた。何かがじわじわと自分の中で変わってきている感覚は否定できない。
記憶のギリギリまでさかのぼれる程子供の頃から抱えてきた孤独感、同時にあった片割れがどこかにいるという感覚。折り返したところに片割れが何も知らずに道端にいて、二人三脚が始まってもおかしくないのかもしれない。
元号が変わることへの興味は薄いのだが、新しい時代が来るという節目であるならば、次の時代は私個人は「ひとり」から「ふたり」で過ごすフェーズに変わっていく、そんな気がしている。