バットマン知らんけど『JOKER』観てきた

感想を。

鑑賞後の率直な感想としては「期待してたようなすごいカタルシスを感じるまでは行かないけど、胸が透く思いがしてスッキリした」です。

¥1,900と交通費、飲食費を払ってまで劇場で観るべき作品でもないかと思います。でも、まぁこの胸糞悪い映画が大ヒットしていて週末は新宿の劇場がどこも満員になってたのを見ると、いまの世の中が隠し持っている胸糞感情が露呈しているような感じがして、小気味好いですね。

時事性の強い作品かなと思いますので、あれこれ語りたい人にはいいかもしれません。また、「JOKER観ました」ってSNSに書くだけで「あ、あの人もまた自分自身がJOKERになる可能性に気付いてしまった人なのか・・・」と思われるかもしれません。そうか?


ツイッターでサーチかけてみると、感想が想像してたのと違ってリアクションが千差万別なのが面白いですね。その人がこれまで過ごしてきた人生が浮き彫りになる。あれを観て鬱になると言ってる、心の清らかそうな人の気持ちは微塵も共感できないので、陽の当たる所で生きてきた善い人には向かない類の作品なのかもしれません。

そうですね。陰キャ、落伍者、メンヘラ、障がい持ち、そういったマイノリティー要素を持った人の目には間違いなくヒーローとして映る主人公であったと思います。私は主人公であるアーサーはカッコいいと思いましたし、なんでしょうね。この映画を見て "興奮" よりは "癒し" を感じました。

あの物語を復讐劇として捉える人が多いんじゃないかと思いますが、なんとなくその本質は違うんじゃないかなって思います。主人公が自分らしくあるべき姿に、あり方に目覚めて、本当の意味で自分の人生が始まる。そういったストーリーだったんじゃないかな など。






少し考察じみたことを書きます。


『JOKER』いいタイトルですよね。

道化の姿に身を包んだマッドな主人公の姿はトランプの「ジョーカー」に重なるイメージですが、彼の表の顔としてのコメディアンの姿もまた「ジョーカー(洒落や冗談で他人を笑わせる人)」ですよね。

その二面性が対照的に描かれてたのが鮮やかでした。

彼は幼少時の虐待により、脳と神経がイってしまったことで「笑い男」になってしまったことが明かされましたね。彼の凄惨な人生の元凶は、彼の出生にまつわる様々な環境的要因でした。誰もが生まれる胎を選ぶことはできない、彼の人生はトランプゲームで例えるならば、カードが配られた時点で詰んでいたんですよね。

トランプの山の中に、必ず1枚はジョーカーが存在する。

そんな外れ札を引いてしまった彼の物語は、「誰もがJOKERになれる」ではなく「誰もがJOKERとして生まれてきたかもしれなかった」と受け取るべきなのではないかと思います。

社会の爪弾き者として割を食ってきた「ジョーカー」の存在を表舞台に登らせて、そのことから目を背けてきた人びとを刮目させる。そういった意味で、この作品は見事に本望を遂げたのではないでしょうか。


主人公・アーサーは持病が原因で、社会から嘲笑されて生きてきました。

そんな彼が他人を笑わせることを自身の生涯の使命としてきたのは、普通に考えればおかしな話です。他人を幸せにすることを自らの天職であると信じるには、彼の境遇はあまりに過酷だったはずですから。

アーサーは自らの意思と関係なく笑い出してしまうことで、世間からは奇異な存在として扱われてしまいました。逆説的に考えれば、周りがみんな笑っている場においては彼の存在がマイノリティたり得ることはないんですよね。でありながら、彼は自らの境遇を変えるために、社会への怒りや恨みの感情からではなく、自身が「ハッピー」であるためにその道を選んだのではないかと感じました。

アーサー、心根の優しいいいヤツだったはずなんですよね。


だからこそ私は、彼が何人もの人の命を奪い、母親さえも自らの手に掛けてしまった事実を踏まえてもそれでも尚、殺害現場に居合わせてしまったかつての同僚を殺さずに見逃したところに、彼の本質的な優しさは変わっていなかったのではないか と感じてしまったのです。




先述した「JOKER」という言葉に2通りの意味合いがあるように、「わらう」という言葉にも「笑う」と「嗤う」の2通りの捉え方が存在します。

物語の後半で全てを失ったアーサーは、世間の怒りや不満を爆発させるトリガーとしての役割を果たしダークヒーローと化しますが、彼の本質的な人間の部分は変わっていなかったのではないかなと思うわけです。

ただ、二面性のうち抑圧されていた部分が暴発して表に出てきてしまった。

幸か不幸か、周囲を死と暴力の狂騒に巻き込みながら、彼は抑圧から解放されて自分自身のあるべき姿を手に入れるに至りました。

ラストシーンに登場したアーサーの足跡は文字通り血にまみれていましたが、光の差す真っ白な廊下を軽快な足取りで歩くその姿は、まるで未来への希望に溢れた自身の人生を進み始めたかのようでした。

あのラストシーンに私は一縷の救いのようなものを感じました。




倫理観を失った彼の行動は何もかもが間違っていますが、彼をそうさせてしまった社会の倫理観もまた間違っている。

社会的に加害者である側はそのことに気付かないのではなく、目を背け気付かない振りをしている。存在しないものとして扱っている。

だからこそ、この作品を観てそのことを露呈された人々はきっと胸がざわざわしたことでしょう。






あの映画を観たからといって、誰も「JOKER」になどなれはしない。

けれど、私たちは「JOKER」を生み出してしまう社会の一員を担っているかもしれない。

私たちは被害者ですか?

それとも加害者ですか?


あなたの傍にも「JOKER」は潜んでいるかもしれませんよ。


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