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おぱんちゅ、多様性。/あきんこ


 今日も列車を待っている。雑踏の中でそれを待っていると、自分も社会の歯車になったのだな、と少し寂しくなる。私を見下ろすように設置された発車標をぼんやりと眺めた。列車が到着するまで、まだ時間がある。
 私はポケットに忍ばせているスマートフォンに手を伸ばし、慣れた手つきでパスワードを解除する。Safariを開いたところで、図らずも昨晩視聴した「禁断介護/北野美奈」が画面いっぱいに表示された。
 禁断介護シリーズは、義父の介護に勤しむ義娘が介護の都度、義父に性欲処理まで迫られてしまうというグローリークエストによる人気シリーズである。
 当シリーズは、義父が義娘にちょっかいをかけ、渋々義娘が行為に及ぶ展開がスタンダードであるが、北野美奈の作品に関しては例外である。彼女の場合、主導権は義娘側にある。北野美奈演じる義娘の圧倒的なプロポーションから繰り出される誘惑の数々に、義父はなす術がない。義父に主導権を渡さないその様子は、2008〜2012年にペップ・グアルディオラの指揮の下で黄金期を築いたバルセロナのポゼッションサッカーのようだった。無論、義娘が握るのは主導権だけではないのだが。
 私は眉ひとつ動かさず、そのウィンドウを指先で閉じた。昨晩はあれほど熱狂したというのに、今ではポストに折り込まれたチラシを見る時のような、冷たい眼差しをそいつに向けている。なぜ男というのは昨晩の"相手"にここまで冷たくなれるのだろうか。相手がスマートフォンの中で良かった。隣にいたなら、私の指先を通じて、きっとこの熱が彼女に伝わっていただろうから。
 自慢ではないが、私のピロートークはかなりお粗末なものだった。それについては彼女のサキにもよく叱られた。事後の私はまるでチューブマンのようにふらふらし、立っているのもままならない。それから程なくして眠るのだが、それを彼女は「死んだ」とよくからかっていた。
 ただ、それもあながち間違いではないのだ。私にとって性交とは、最も生を感じる瞬間でもあり、同時に最も死にたくなる瞬間でもあった。実際、私の精子は性交の度にそれを繰り返してきた。ひょっとすると「精子」の由来は、それが受精することで芽生える「生」と、できなかった際に訪れる「死」からきたのではないかと、そんなつまらないことを考えているうちに、列車が到着した。
 ドアが開くとサラリーマンたちがまるで牧場に放たれた家畜のように一斉に飛び出してきた。彼らの表情は薄暗く、冷たい。私は彼らを闘牛士のように軽やかに交わし、列車へと乗り込んだ。
 しばらくすると、先ほど放たれた家畜達が駅員という牧羊犬の指導の下、再び列車へと乗り込んできた。彼らは私のパーソナルスペースを超えて接近し、やがて密着した。密着するや否や、酢のような臭いが鼻を突き刺した。男性の加齢臭、あるいは汗の臭いだろうか。私たちは車両の中に鮨詰めにされているわけだが、まさか鮨の臭いまで再現してくれるとは。全く、迷惑な話だ。
 結局、最寄り駅に到着するまでの間、その臭いから解放されることはなかった。
 駅に到着すると、家畜たちは散り散りになった。私も一呼吸置いたあと、会社へと向かうことにした。
 駅構内を抜け、階段に差し掛かろうという時、目の前に女性が割り込んできた。年齢は20代後半あたりだろうか。身長は160cm前後、髪は肩上で綺麗に揃えられたボブで、片側を耳にかけていた。目尻を少し吊り上げるようにして引かれたアイライン、高めのヒールにタイトなパンツスーツ。いかにも私好みの女性だった。
 彼女は悪びれる様子もなく、すたすたと階段を登っていった。その態度に私は思わず面食らったが、それがなんだか負けた気がして、私も追いかけるように階段を登りはじめた。
 階段の中腹に差し掛かったとき、彼女のお尻がちょうど私の目の高さにきた。私はそれをじっと見つめた。彼女が一段上がるたびに、それは大きく揺れた。右へ左へ揺れる様はまるでメトロノームのようだった。
 彼女のお尻を眺めていると、あることに気がついた。彼女の肛門付近を起点に、2本の線が扇状に伸びている。彼女のお尻と脚部の境界線に沿って浮かび上がるそれは、まごうことなきパンティラインであった。
 私は興奮を覚えた。もちろん、線そのものに興奮したわけではない。線だけで興奮できるのはどこかの変態数学者だけだろう。私はその線の奥に潜む、パンティに思いを馳せた。彼女の局部は、一体どんどんな色の下着に包まれているのだろう。階段を一段上がる度、私の鼓動は早くなった。そして、階段を登り切ったところで、ある欲望が浮かんだ。

 「パンティが見たい。」

 だが、それは叶わぬ願いだ。「恵まれない子供たちのために学校を作る」といったような、誰からも応援されるような平和的願いならともかく、私の私利私欲にまみれたそれを、一体誰が叶えようというのだ。
 彼女のパンティを目に焼き付けることができるのは、彼女の高いプライドを十分に満足させることができる大企業のエリートか、肉親くらいなものだろう。あいにく、私はどちらにも当てはまらなかった。
 私は落胆した。彼女を手に入れることなど、到底できるはずがなかった。
 しかしそもそも、欲しいものをすぐさま手にすることができる人間が、この世の中にどれだけいるだろうか。それはおそらく、ごく一部に過ぎないだろう。大多数の人間は、その枠の外側にいる。私だってそうだ。おそらく彼女も。同じ車両で鮨詰めにされていたサラリーマンたちだって、みんなそうだ。
 「みんな、同じ。」漏らすように呟いた。
 その瞬間、頭の中に稲妻が走り、驚くべきアイデアが閃いた。そのアイデアが持つ可能性に、私はひどく興奮した。居ても立っても居られなくなり、たまらず同僚のカネダに電話をしたが、彼は「朝から大丈夫?」と冷ややかな反応で、まるで宇宙からの電話を取ったようだった。一旦カネダは地球に放置し、私はこのアイデアを形にするべく、奔走した。
 そしてついに提唱したのが「パンティパラドックス」である。

 以下は「パンティパラドックス」の概要について説明する

 このパラドックスを理解するためには、まず「大多数の女性は下着を履いている」という当たり前の事実を再確認する必要がある。下着が現在の形で普及したのは昭和初期とされており、それ以降、今日に至るまで、私たちは下着を欠かしたことはない。もちろん、ノーパンの人もいるだろうが、それはかなり少数派で、大多数の人は下着を着用して生活している。この認識を深めた上で、問題は次の段階に進む。
 次に考えるべきは「何色の下着をつけているか」という点である。下着の色について調査を進めていると、「トリンプ下着白書vol.20」という記事に出会った。この記事は、女性に対して行われた「下着に関するアンケート」の結果をまとめたもので、その中で私が注目したのは「どの色の下着が一番好きか」と「持っている下着の中で一番多い色は何か」の2点である。
 この2つの問いに対する結果は、いずれも黒が一番人気であり、次いでピンクが2位、白が3位というものであった。さらに、下着の色の好みは年齢によっても変わるようで、若年層では黒がより人気があり、年齢が上がるにつれて白やベージュといった落ち着いた色が好まれる傾向が見られた。
 このデータから、年齢が多少の影響を及ぼすものの、最終的には黒が一番人気であることがわかった。下着を所持しているということは、概ね着用していることと同義なので、確率的には黒い下着を着用している人が多いということになる。
 そして事態は「目の前の女性が黒い下着をつけているか」というものになるが、これについては直接の観察によってしか判断できない。この悲しき事実を逆手に取ると「黒の下着を着用している」という可能性を否定できないということになる。
 すなわち、そこには「黒い下着である可能性」と「そうではない可能性」の2つが同時に存在しており、観察をもってそれを明らかにすることができないため、2つの可能性がそのまま存在しているということになる。
 これを受け、私はこう考えたのである。勝手に黒だと決めつけてしまおう、と。なぜなら、私たちにはいずれにしても女性の下着を観察するチャンスは存在しない。ならば、こちら側で黒だと決めつけて、その上で勝手に興奮してしまおうという発想に至った。このオスの身勝手さ、これこそがパンティパラドックスの真髄である。

 この発想が浮かんだとき、私ははじめて自分が社会の歯車であることを喜んだ。私自身が「多数側」あるからこそ、目の前の女性のパンティラインと、その奥に眠る色を透かして見ることができたのである。
 どうかこの発想を、世の男性諸君にも役立ててほしいと願うばかりである。
 とりあえず今晩私は、宇宙からパンティラインが浮き出ていた彼女のことを思い出すこととする。
 彼女のちきゅうを想うとき、私はきっとまた生を感じ、同時に死にたくなるのだろうな。

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