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読書記録『印象派の人びと ジュリー・マネの日記』_20230926

女性芸術家はなぜ少ないのかという歴史を調べていた中で、近代になりベルト・モリゾとメアリー・カサットという対照的だけれども画家として生きた2人の女性にたどり着きました。

そして出会った今回の本。ベルト・モリゾとエドゥアール・マネの弟で同じく画家であったウジェーヌ・マネの一人娘ジュリー・マネの日記になります。

amazonだとすごい値段になってるけども、普通に図書館で借りました。

ベルト・モリゾは1841年生まれで3姉妹で親の勧めもあり絵を始めた。彼女はもともとアングルとドラクロワの弟子であるギシャールのもとで指導を受けていたが、戸外で描きたいという彼女たちの要望を受け入れ指導をコローに委ねる。その後1868年(27歳の時)に友人とルーヴルに行った際に、エドワール・マネを紹介されて家族ぐるみで親しい存在となるのであった。

上の姉2人は結婚を機に絵を描くのをやめてしまったが、ベルトは第一回印象派展に出品し、その後同じく画家であるウジェール・マネと結婚して引き続き画家を続けている。そして一人娘であるジュリー・マネが1878年に誕生。彼女は印象派の画家たちに囲まれながら育つが、14歳の時に父を、そして16歳の時に母であるベルト・モリゾを亡くし、みなし子となる。

この本は、1893年から1899年に書かれたジュリーの日記を抜粋したものであり、両親を相次いで亡くし、優しくしてくれた周りの人々を失いながらも芸術に囲まれ純粋に生きる少女が浮かび上がる作品になっている。


以下日記で興味を引かれたところを抜粋します。

早朝シヴェルニーに向けて出発。終日雨。モネさんはわたしたちに『大聖堂』連作を見せてくださる。26作あった。青い空にむらさきの大聖堂、白や黄色の大聖堂。

p43, 1893/10/30

モネさん!クロード・モネをモネさんと呼べる人は一体どれだけいるのだろうか。こういう日記からどんな作品が制作されたか理解が深まっていくんだろうなぁ。という史料を読み込むヒントになった。

今日は万聖節。悲しい日。・・・91年にはパパはわたしたちといっしょあった。・・・パパにやさしくしてあげたい。どうしてわたしはママンといるといい子じゃないのかした!毎日反省してる。でもうまくいかない

p46, 1893/11/1

前年に父ウジェール・マネが亡くなり、その悲しみを表した日記。思春期にさしかかる少女はなぜか母親とうまく行かない時があるよねという、どこの国でもどんな環境でもある親子関係が表されてる。

ママンとわたしはルーヴルに行く。・・・サロン・カレのなかで背の低い日本人がレオナルド・ダ・ヴィンチの模写をしていた。まるっきり日本風なのがとってもおもしろかった。

p47, 1893/11/10

面白い!この日にルーヴルにいた日本人は誰なんだろう!

どうしよう。前に日記を書いたとおもったら、いまはもうママンはいない。3月2日土曜日の夜10時半、ママンは亡くなった。口にできないほどのおそろしい不幸、深い悲しみ。いまわたしは、みなし子になってしまった。たった3年のあいだに両親は相次いでわたしから去っていった。

p59, 1895/4/17

そしてベルト・モリゾの死。彼女の10代は死が詰まっている。

ルノワール夫人が、イタリアへの新婚旅行のことを話してくださった。とってもおもしろいお話だった。というのはルノワールさんもよくこの旅行のことを話してくださるんだけど、いつもひとりで行ったようにおっしゃっていたから。わたしたちがまだ奥さまとお会いしていなかったからだろう。・・・また奥さまはルノワールさんとはじめて会ったときのことも話してくださった。モネさん、シスレーさんもいっしょだったらしい。この3人は長髪で、彼らが通りすぎると、奥さまが住んでいらしたサン・ジョルジュ通りの人たちは大騒ぎしたとのこと。

p67, 1895/9/19

1879年にルノワールと知り合ったアリーヌ・シャリゴはサン・ジョルジュ通りの大衆食堂でお針子をしていたそうで、身分の違う女性との交際を当初は隠していたそう。その後、1881年にアルジェリア・イタリアを訪れた旅行を新婚旅行と言っているみたい。イタリアで描かれたアリーヌをモデルにした《ブロンドの浴女》では、左薬指に指輪をしている。

ルノワール《ブロンドの浴女》1881

この旅行でラファエロに触れ、印象派から新古典派主義「アングル風」の作風と変化していく。翌年1882年から描いたダンス三部作の一つ《田舎のダンス》もアリーヌがモデルらしいけど、本当は三部作全部シュザンヌ・ヴァラドンで、二股してた相手っぽい。モンマルトルでモデルを行いながら独学で絵を学びドガに師事したヴァラドンの息子がユトリロで、本当に狭い世界。。

朝から夕方までトレブールの断壁で描く。ルノワールさんがわたしたちに会いにやって来た。ルノワールさんはわたしが上手に町並みを描いているといってくださった。大画家のこんなお世辞にわたしはうれしくなってしまった。思いあがりにすぎないけど。でも、自分なりに一生懸命勉強しているとき、専門家からそんなふうに言われるのは気分がいいもの。たとえ欠点だらけの作品であっても。

p68, 1895/9/26

両親がなくなったジュリーを本当に我が娘のように可愛がっているルノワールが目に浮かぶし、尊敬する画家でありながら親しいおじさんという雰囲気が伝わる関係性がほほえましい。大画家に囲まれながら、ジュリーも画家を目指す。

ドガさんは写真のことで頭がいっぱい。来週はみんなを夕食に招待してくださるとのこと。そのとき外でわたしたちの写真をとるらしい。たった3分間ポーズをすればいいとのこと。・・・ポールがモークレールさんの記事のことを話題にすると、ドガさんは怒りだして「いやはや!批評家ってやつは!いまでは命令を下すのはやつらなのさ。絵画はやつらのものだ。この青がどうのこうのと講釈するんだからな」等々。・・・マラルメさんはそれを聞いてとっても意気消沈していた。でもルノワールさんはわが意を得たりという顔。批評家に対してはドガさんと同じ考えだったから。・・・
なぜみんながドガさんを意地悪な人と言うのかしら。わたしにはわからない。とっても人がよくって、父親のようにやさしくキスしてくださるのに。それにここにいる芸術家はみんな素晴らしい人たち。

p71,1895/日付なし

ルノワールさんまじ優しい、ドガさん変人扱いされるけど私にはとても良くしてくださる構図は、割と日記全般に見られて面白い。

かなり遅くなってドガさんの家に着く。・・・わたしたちはずいぶん長いこと食卓にいた。偉大な芸術家4人がしゃべっているのをよろこんで聞いていたけど、毎週あるこのすてきな夕食会のことを思うとなんだか悲しくなってきた。みんなの中にパパとママンがいないのがとっても奇妙に感じられたから。

p74, 1895/11/20

4人とはドガ、ルノワール、画家・彫刻家のバルトロメ、そして象徴主義を代表する詩人であるマラルメ。マラルメは火曜会と呼ばれる毎週の会合を主催し、多くの芸術家が交流をした。1873年頃にマラルメとマネの交流が始まり、マネがベルト・モリゾを紹介し、親友となった。ベルトの死後、マラルメはジュリーの代父となっている。

このときマネは60代、マラルメとルノワールは50代でそのような大御所に囲まれて夕食会に挑む10代のジュリーは、ある意味両親の代わりを務めていたようなものなのかしら。

今日はママンがこの世で最後に苦しんだ日、身も心も苦しみぬいた日から1年目。・・・お墓参りがすんでから、デュラン=リュエル画廊へゆく。床に並べられた母のタブローがあの白い躑躅とおなじようにわたしを明るくしてくれた。モネさんはもう来ていた。やさしくキスしてくれる。会えてとても嬉しい。わざわざ仕事を投げだして、駆けつけてくれた。ほんとに親切な人。ドガさんも絵を壁に掛けてくれている。それからルノワールさんがやって来た。顔色がとても悪い。マラルメさんはカタログの交渉に印刷所に行っている。

p84, 1896/3/2

ベルト・モリゾの回顧展が行われ、そこでせっせと並べ配置を考える大御所たち。ここでドガによって大広間のレイアウトをめぐって議論が勃発する。ドガの短気なところがわかるエピソード。そして回顧展に取り上げられたベルトの作品を一つずつジュリーが説明する文章が続き、自身も自らの意見を持った芸術家であることが伺える。

ルーヴルでドガさんに会う。1時間半わたしたちと絵画のお話をする。「ペダンティックなおいぼれにつかまってしまったね、きみたちは」なんて冗談をおっしゃる。

p120, 1897/12/8

この時期ジュリーはずっとルーヴルに通い、さまざまな人に会っている。ルーヴルってそういう社交場だったのかというのがわかる記述。いまとはまた全然違ったんだろうなぁ。

イヴォンヌ・ルロールがウージェーヌ・ルアールとの結婚を知らせて来た。ジャニーとわたしの世代は結婚適齢期になったのだ。わたしたちはもう娘ではない。

p147, 1898/10/17

ジュリーは今の女の子のように結婚に憧れ、でも自分はそんな幸せはこないのではないかと悩む年頃の子になる。そしてドガの弟子エルネスト・ルアールをドガに紹介されて、好きになり会いたーいと日記で書き記し、1900年に結婚に至る。

エルンスト《絵を描くジュリー・マネ》1905


印象派の画家たちの関わりや優しさがわかる1冊でした。


おしまい

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