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日本社会のはぐれものとして、テレビについて思うこと

日本という国は、長い間僕にとって巨大な岩のごとく動かない物の象徴だった。そう錯覚させられ、諦めていた。僕にとってその諦めの最たるものの一つが、テレビだ。極論を言えば、テレビのせいで僕は日本を出ようと思ったのかもしれない。テレビが押し付ける「みんなの話題」や「身に付けるべきノリ」が、少年の僕を蝕み、生きる気力を奪った。このまま日本にいたら死ぬと思った。

家族で共有しているパソコンを一日に一回開くくらいで、YouTubeもネットニュースもほとんどない90年代〜00年代。まだまだ主な情報源としてテレビが健在で、今のような趣味嗜好の多様性はなかった。20代前半以下の人たちにとっては想像できないかもしれないくらい、テレビが押し付ける話題とノリについていけない人間にとって、日本社会をサヴァイヴすることは難しかった。

僕はテレビを点けるたびに目に入るSMAPをはじめとするジャニーズタレントがとても嫌だった。そして、僕がジャニーズを嫌悪する理由を最も象徴していたのは、今まさに騒動の渦中にいる中居正広だ。

僕は子供ながらにSMAPが音楽そして舞台エンターテインメントのフィールドで、明らかにレベルが低いと思っていたし、好きじゃなかった。歌もダンスも音楽性も、例えばマイケル・ジャクソンやマドンナやビートルズと比べて、すごいと思うところは一つもなかった。もしポップミュージックの世界大会が開かれるなら、絶対日本代表になってほしくなかった。全盛期のキムタクのカッコよさは確かに際立っていた。しかし、純粋に音楽を表現するグループとして、全く魅力を感じなかった。音楽やパフォーマンスとして何か表現を突き詰めている様子すら、伺えなかった。

中でも中居は、歌が信じられないくらい下手で、たまたまミュージック・ステーションや紅白歌合戦などでSMAPを観てしまったときは毎回衝撃を受けていた。よくこんなに酷い才能で歌手として舞台に立てるものだと思った。

そして、少年の僕はそんな歌が下手な中居を微笑ましく見守る日本という国の生ぬるい空気感に、とても耐えきれなかった。

SMAPはよく「国民的アイドル」と表現される。遠回しに彼らが音楽のパフォーマーとして才能の面でトップではないことを擁護するときに、よく言われていたのが「メンバーそれぞれの個性を活かし、バラエティ番組やドラマ出演などで幅広く活動していて、グループの仲が良い」というようなことだった。

僕はSMAPを人気にした、あるいは人気者として仕立て上げた、この手の「人間味」を根拠にした称賛のスタンスが、90年代以降(年齢的にそこからしか実感としてわからない)の日本のテレビやエンターテインメントを根っこから蝕んだ大きな原因の一つだと思う。少なくとも、僕はそのあおりを存分に受けた。なぜなら、つまるところ「権力者に気に入られる力」という意味での「人間味」の重要性は、日本社会の津々浦々に浸透していて、本当に才能があったり真面目に努力して力を磨いた実力のある人たちが蹴落とされる土壌が、SMAP人気によって作られたと思うからだ。

本職の実力がない人間が他の実力者たちを差し置いて人気者になってしまう構造には、巨大な歪みがある。中居はその歪みを最も象徴する人間として、物心が付いた頃から僕の前に立ちはだかった。

やがて中居はアイドルでありながらMCとしての出演を徐々に増やし、結局何の才能がどのように認められたのか不明のまま、ただ「いつもいる人」として偉そうにテレビに居座るようになった。音楽の才能がないだけでなく、たまにテレビで見かけるときは妙に厭味ったらしく業界人臭い上から目線と、謎に語られるスタッフへの豪華な差し入れエピソードや被災地でのお忍び炊き出しなどが交錯し、逆にその狡猾さが見え見えな点が本当に好きになれなかった。中居が出ているから観てみよう、と思ったことや、中居が出ていることによる何らかの期待感を抱いたことは、一度もない。

中居とともに、いやもしかしたらそれ以上に現在渦中にいるフジテレビも、その独特の内輪ノリで僕の同世代の子供たちを侵食し、それに乗っかれない僕をはぐれものにした。

正直一度もまともに番組を観たことがないけれど、周りの友達たちが何かと事あるごとに話題にしていた「とんねるず」も「ダウンタウン」も、その友達たちが彼らを真似て実践している「ノリ」を見る限り、ただ弱いものイジメを助長しているようにしか見えず、どこにも本物のカッコよさや反骨精神はなく、ダサかったし全く魅力的には映らなかった。本物の努力を積み重ねて結果を出したアスリートをリスペクトのかけらもなくバカにしてそれを「イジり」という表現で回収したり、井の中の蛙でしかないにもかかわらずまるで自分たちが世界の帝王かのごとく振る舞っていた。その「ノリ」は日本全体を腐らせてきた。

2021年に『カナルタ 螺旋状の夢』が話題になり、フジテレビではないがとある有名テレビ番組のゲスト候補として打診されたときも、最終的には「作品がイジりにくい」という理由で却下された。「笑いの要素がないといけないので」と言われたが、現地での笑い話などいくらでもあったので不可解だった。笑いとイジりは全くの別物だ。その区別がテレビ業界全体でつかなくなるほど、フジテレビはある種のドラッグのような中毒性のあるノリを発明したのだと思う。

フジテレビはまた、芸人が時事問題について語るという流れも作り出した。「ワイドナショー」で松本人志がニュースについてコメントしだしたとき、僕は衝撃を受けた。あまりにも無知で教養に欠け、丁寧に情報を精査することを小馬鹿にする、端的に言えばとても毒性が強い内容だったからだ。挙げればきりがないが、「ワイドナショー」は日本社会が真剣に考えなければならない数々の事案について茶化し、暴走する政権を擁護し、最終的には松本の技術で笑いに「落とす」ことで、実直な態度や勉強して知識を身に付ける態度を攻撃した。それは特に安倍政権にとってはとても都合がよかったので、安倍は「ワイドナショー」に出演して松本との距離を縮めた。

その後、小籔もフジテレビの情報番組「バイキング」のコメンテーターとなって、毒性が強いコメントを流布し始めた。今どんな番組を見ても芸人で埋め尽くされているのは、芸人がお笑いの枠を離れて時事問題など本来は信頼に足る知識人の力を借りるべき場を占拠するようになったからだ。彼らの発言はネットニュースとして取り上げられ、ヤフコメやXなどで大量のネトウヨなどに拡散されることで、日本全体が無視できない力を持つようになった。

もちろん、芸人コメンテーターの中にもまともな発言をする人はいなくはないし、テレビ全体を見ればまともな番組を作ろうと努力している人たちがいるのもわかる。ただ、フジテレビがその「イケイケなノリ」で毒を撒き散らし、特定のアイドルや芸人に強力な権力を与えることで、視聴率とは別の次元で社会の大きな流れをネガティヴな方向に引っ張ってきたのは間違いないと僕は思う。それを僕は、物心ついた90年代半ばからずっと見てきた。フジテレビが作った作法や面白さの基準に周りが毒され、自分を含めた仲間はずれがこの社会に量産されるのを見てきた。とんねるずもSMAPもどうでもいい。僕は好きでも観たくもない。

今、中居の示談報道をきっかけに、再び大きな変化の流れが生まれている。自分が生きているうちはずっとあるんだろうなと覚悟していたものが、崩壊の道をたどっている。フジテレビがなくなったら、日本はどうなるだろうか?少し期待してしまう自分がいる。ほんのちょっとだけ、生きやすくなるだろうか?ジャニーズは崩壊したとはいえ、形を変えて生き残ってはいる。ただ、彼らは以前のように絶対強者としてエンタメの全てを埋め尽くす存在ではなくなっている。フジテレビが発明した数々の毒々しいノリや手法も、「それだけが『面白さ』の答えではない」と、相対化されるようになるだろうか。もちろん今の若い世代にとってはテレビ以外に色々な逃げ道があるのだろう。でも、日本で生きるのが辛くて、ずっと海外に逃げたかった、そうでないと死んでしまうと本気で思っていた少年の頃の自分を、少し慰められることになるかもしれない。

最後に一つだけ述べたいことがある。ハラスメントや加害行為について、「昔は許されたけど今は許されない」という表現が溢れているが、これは全くの的外れだ。

90年代の僕は、当時見逃されていた暴力を見て、それを許していたか?全く許してはいない。僕の感覚は、当時も今もほとんど変わっていないし、自分を「アップデート」したつもりもない。

なぜなら、ハラスメントの最も重要な根拠は「相手が嫌がることをしたのかどうか」だからだ。

「ごっつええ感じ」の中で目を覆いたくなるようなセクハラを受けていた篠原涼子は、当時その行為をどう思っていたのか。嫌がっていたのではないか?喜んで触られていましたよ、などと誰がどの口で言えるのか?「とんねるずのみなさんのおかげでした」の中で松嶋菜々子が受けていた信じられないセクハラを、当時彼女が進んで受けていたと誰が言える?

「昔は許されたけど今は許されない」とうそぶいている人間たちは、ハラスメントの被害者たちは昔だろうが今だろうが同じ気持ちだということを思い知った方がいい。「社会の基準が変わった」という言い方は、加害者たちに逃げ道を作ってあげる都合の良いやり方で、ハラスメントの本質から目を逸らすだけだ。

社会の基準が変わった、それにも確かに一理あるだろう。基準が永遠に変わらない社会などないのだから。だが、今テレビやエンタメ業界で起きているのは、情報拡散や権力の構造が変わってきたことで、今までは握りつぶされていた悪行が表に出やすくなっただけだ。ハラスメントや加害を受けた人たちは、80年代だろうが2010年代だろうが、同じ苦しい思いをしたはず。それを認めずにのらりくらりと社会の変化のせいにしている人々を、僕は信用しないし軽蔑する。



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