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不可逆的遡行
四十三.不可逆的遡行
私のすべてを管理した。その男は影も体も薄く、存在がこの世にないみたいに質量が感じられなかった。男の輪郭を曖昧にする薄暗さが、一段と男を奇妙に思わせた。
私が帰宅するとまず大きなバケツを用意した。私は靴も脱がせられぬまま、バケツの底を見つめながら嘔吐する。胃液が苦味をともなって喉を焼きだすまで、男は私に嘔吐を止めさせなかった。
そうして黄みがかった透明の液体しか出なくなると、吐瀉物を確認した。私の胃におさまっていたもの。私が味わったもの。友達と楽しく食事を過ごした時間までも吐き出させられてるようで、私はいつも不快な沈痛さに、足の裏で、自分が斜めに傾いていくように感じられた。
靴の裏にはさまった小石、コートに付着した髪の毛、髪の毛に纏う匂い、剥がれた口紅、使ったティッシュの枚数、それらすべてを男は確かめた。微に入り細に入り目を走らせる。
しかし男は至って冷静で、体からなんの熱気も感じられぬまま私の痕跡を探る姿は、病的と言えるはずなのに丁寧さを思わせた。
丹念に、入念に、丁寧さをもって私のすべてを捲ろうとする。そのうち腹を切り裂かれ腸までもあらためられそうで、どきりとする。
自分の預かり知らぬ相手の姿までも知ろうとするのは傲慢だと、私は思う。思いながら、今夜も吐いた。
休日には一人で喫茶店へ行き、珈琲とその日に提供されるオーナー手作りのケーキを食べるのが私の小さな楽しみだった。
珈琲の深みのある苦さとケーキの生クリームとが舌のうえでまだらに融けあわさっていくとき、私の胸はほわほわと満たされる。あたたかで柔らかな、猫のお腹の毛を抱いたときのような、白んだ春の日だまりの心地を味わう。
それらすべてが時間を巻き戻りさせられて、バケツの底でびしゃびしゃの汚泥の姿で喘いでいる。珈琲だったもの、ケーキだったもの、私の満たされた幸福感、オーナーの親切心、すべてが粘つく粘液とあわさって、すえた匂いが私を再び催吐へと導く。
「君はいつだってズレをおそれているね。」珍しく男が喋る。
「先週は深煎りの珈琲と生クリームたっぷりのケーキだった。」「今日は深煎りの珈琲とクリームたっぷりのケーキ。」 「先月は、深煎りの珈琲とガトーショコラだった。」 「僕は君の日曜日が好きだ。」
言葉を落とすように喋ると男は微笑んだ。一定して曖昧な線が見えるだけの存在の男の実体が、突如目の前に出現したかに思われた。
しかし一時しじまが満ちると沈黙を手に男は消失した。その妙な存在をかき消す力のせいか、いつもは吐いたあとの虚脱感と不快感で、自分がこの世にいてはいけない存在に感じられる居心地の悪さも沈むような眠気へと誤魔化された。
廊下にのろのろと這い出したまま起き上がれず、私が上がることのない二階へ通ずる階段を悄然と見上げる姿勢になった。
階段の先は見通せず薄闇で、灰色の捏ねた土塊が詰まったかの気配が圧されてくる。それはふだん故意に存在を薄くしている男の、生来的なものが表出されていると感じられた。
肉でもなく排せつ物でもなく生々しい、男の吐く呼気に男の生命が入り交じっている。
特段、出入りを禁じられているわけでもなかった。
男が二階でどのような生活をしていようが殊更興味がなかった。一度だけ、「紙魚を飼育している」と言った男の言葉に誘引され、二階の男の部屋に侵入したことがある。仄暗い階段は軋むことなくなめらかで、なめらかすぎるがゆえに私という異質さが際立たった。にゅるにゅるした蛙に食べられる硬質的な蟋蟀を想起した。蛙の縄張りに侵入した蟋蟀は、捕食されてしまうのだ。
開くまでもなく放たれた扉の隙間に体をすべらすと、床にじかに置かれた透明のガラスケースだけがぽつんとそこにあった。しばらく掃除されてないであろう埃っぽい木床と神経質なほど磨かれたガラスケース。中にそっと置かれた白い紙。
近づいてじっと目を凝らしても何もわからなかった。わからなかったがそこに紙魚はいるのだろうと理解した。
視認できないが確かにある密やかな存在、まさに男を象徴するようだった。
真っ暗な部屋、孤独を食べる虫。ぞっとする想像が脳内で明滅して掠れ、頭蓋骨の内側で湧いた無数の虫のおぞましい蠕動が伝って慄然とした。悪寒に軋む背骨を揺らしながら階段をやっとの思いで下りたとき、足裏が熱かった。
男から私への愛情は皆目なかった。私とても何ら愛情を抱かずにいた。
男にしてみれば私の存在はガラスケースの紙魚と変わらず、ただ男の手によって飼育され管理されるだけに過ぎない。
されるがままを拒否する理由を私は持たずにいた。
雪が散らつく骨冷える季節になると、私の身体を倦怠が覆った。薄膜に閉じ込められ外界から引き剥がされていく胸苦しさと、重く地底まで引きずられる気怠さが日に日に増していき、家からはおろか部屋すら出られなくなった。
耳鳴りが身体をこの世に縛りつけるように私を重くさせはじめた頃、男は私の管理方法を新たにした。
ベッドに横たわる私へ食事を用意し、食欲の有無も言わせず食べさせた。
吐き出すことを禁じられ、私は食べるより他なかった。
甲斐甲斐しい様子で私の口へ食事を運ぶ男の手は、優渥とは程遠い。
食べさせられるそれらは私の体調を整えるためとは思えぬもので、まさに管理といえる食事であった。 或る夜は胡瓜とトマト、翌朝はほうれん草と梅、翌日はメロンと林檎、キャベツと海老。
男は言った。「君を青色にしたいんだ。」ワカメと蛸、西瓜と苺、ピーマンとパプリカ。
緑と赤、を混ぜると、青、になる。
「君のなかが青に染まっていけば、君の排せつ物も青色になるだろう。」「そしてそれは美しい。」
私の肉厚な桃色の内臓の襞が、青へと糜爛して変色していくさまを想像し、喉が詰まる。
息苦しさ、男の鈍重な気配に気圧され朦朧とする意識、懸命に吐いた息が目も覚める青となって、眼前に迫りくる、逼迫した私の黒いはずの眼球を男は覗き込む。
「あぁ、青くなる。青くなるよ。」
<了>
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