参考にならないHow to★作詞家になるには[8]

一緒に住むと言われて口をあんぐりと開けていた社長も明日香の寂しさは重々承知だったので、私と明日香が本気だということを何度も確認すると苦肉の策とも言える提案をした。

「オレも明日香を親御さんから預かってる立場としてよぉ…
同居人ってわけにも行かねぇから…
じゃぁ~…もうさ、あこ、お前明日香の現場付きのマネージャーになっちゃえよ」

私は結局履歴書を提出することなく、結局その会社に就職することになった。

私が音楽業界に踏み入った理由は、作詞がしたかったからでも音楽が好きだったからでもなく、ただただ一所懸命夢を追う13歳の小さな女の子がとても可愛くて力になりたいと思ったから。それだけであった。

ここで、話は少し脱線する。
私は高校を卒業してから、新宿にあるアナウンスの専門学校に通っていた。
何故アナウンス学校に進学をしたかというと、高校2年生から高校3年生の1年間アメリカへ留学し、日常会話程度の英語を話せるようになり帰国した時にふと
「英語話せるようになったのはいいけど、私まず母国語の日本語をちゃんと話せなくね?」
と思ったのがきっかけであった。
その気持ちを抱えながら高校の教室にあった日本の専門学校紹介の分厚い本をめくっている時に、アナウンサーやリポーターを目指す専門学校を見つけて、正しい日本語学ぶ専門学校あるじゃんと安易にそこに進学することを決めた。
せっかくだからリポーターを目指して、ゆくゆく世界中の美味しいものを食べて紹介するような仕事ができたら最高だな、という食い意地も相まってのことだった。

今振り返れば当時は無自覚ではあったものの、英語を話したら日本語を学びたくなる私はもともと「言葉」というものに惹かれる傾向にあったのだろう。

しかし専門学校へ進学し土日は家電量販店、平日は焼き鳥屋で働きながら順調に1年半が過ぎ、卒業を半年後に控えて皆がリポーター事務所の面接や様々な番組のオーディションを受け始めるころ、私はバイクにはねられた。

閉じた踏切で渋滞していた車の間から向こうの歩道へ道を横断しようとして歩道を飛び出した私の右半身に、閉じている踏切前までスピードを上げて歩道際から停まっている車の列をすり抜けようとしたバイクが衝突したのだ。

ぶつかった瞬間私は左にポーンと飛ばされ、左顔面からアスファルトに落ちた。
そのまま救急車で運ばれ、レントゲンを撮ると鼻の上の方にしかない小さな骨が3つに割れていた。
そこからもとても大変だったのだけど、とにかく左顔面全体の顔の腫れや変色が続いたので4か月ほど休学した私は事務所のオーディションを受けることもなく、卒業式の2か月ほど前からなんとか卒業だけはするために学校に復帰していた。
そして焼き鳥屋のアルバイトにも復帰したこの卒業までの2か月の間に、最初に出会った可愛いカップルが来店したのである。

だから偶然にも専門学校卒業後の私の進路は白紙だった。
もし事故に遭っていなくて、オーディションに全部落ちていたとしたらもう少し具体的にどのような仕事に就きたいかを考えていただろうが、とにかく卒業することだけを考えて過ごしていたのでその後のことは見事に真っ白だったのである。


話を戻そう。
明日香と一緒に住むことが決まった時、私は池袋から2駅の場所に1人で暮らしをていた。そこから簡単に荷物をまとめて明日香が住んでいた幕張のマンションへと引っ越した。

同居初日、ネットでテレビ電話を繋いで明日香のお母さんとお話した。
「どこの馬の骨かも知れない私と中学生の娘さんが一緒に暮らすなんてさぞご心配だろうと思いますが、このようなことになりました。あの、あの、私、悪い人じゃないんです」
どうやっても怪しくなるご挨拶だったけれど明日香のお母さんは
「ありがとうございます~!ほんまにね、寂しい寂しい、怖い怖いって毎日言うてたんで、安心しました~!よろしくお願いしますね~!」
と快く受け入れてくださった。
13歳の娘を、本人の夢のためとはいえ1人上京させる母の心配が痛いほど伝わってきた。当然ご両親は明日香のそばにいてあげたいと思っていたけれど、明日香の他に3人の子供がいてそれぞれ大阪で励んでいることがあるから明日香について行けずもどかしいと、何度も仰っていた。

こうして私は音楽知識ゼロのまま、デビュー直前の13歳の林明日香のマネージャーになったのであった。

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