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アドリブが利かないのに期待に応えたい人が行く道

私の元同期たちはしゃべりが上手い。どんなお題でも、いつ振られても、立て板に水のごとく話す(ように見える)。いつも、すごいなーと思って見ていた。

一方、私はアドリブが利かない。

いきなり話を振られるとフリーズする。盛大に。

分かっている。アドリブが利かないと分かっている。分かっているけど、期待には応えたい。

厄介である。

アドリブの前に「準備」

アドリブが利かないタイプであるという現実を受け入れた日から、準備に時間をかけるようになった。

仕事はなんでもそうだと思うが、アドリブが利くの利かないの前に、まず型を身につける必要がある。型を習得する過程で、知識を得て、種々の質疑応答が蓄積され、肌感覚が研ぎ澄まされていく。そうやって、360度どこからボールが飛んできても対応できるようになっていく。

アドリブの前に「準備」なのである。出来ることをやるしかないのである。

例えば、先日、大変ありがたいことに、150名ほどが集まるイベントに登壇させていただいた。私にとってはパネルディスカッション登壇のデビューの場で、日が近づくにつれて謎の夢を見て目が覚めるほど緊張していた。

登壇前にやったこと。

・いただいたテーマに対して、持てる要素を書き出す
・メンバーに事前ヒアリングをする
・根拠データをそろえる
・資料を印刷して話す予定の要素を書く×2セット(体に覚えさせるため)
・イベントの趣旨を確認し、イメージを膨らませる
・通勤電車内でロープレ
・本番前に登壇者で意見出しと流れの確認 ←ありがたかった…

結果、体にしみこませた事前準備がなめらかに発動され、非常に楽しくやり切ることが出来た。

しかし、本番で上手いアドリブなど特に降りてこなかったし、帰り道は「あのとき、ああ言えば良かったな」が頭の中を往復していた。

対応しない勇気

こんなかんじで、人前で話すことが分かったら準備をする。

全社朝礼で共有事項の周知をするときも、たとえ1分程度だとしても、台本を書く。

準備だけが私を救ってくれるのだ。

しかし、なんとかならないものは、なんとかならないのも現実。

だって、アドリブは準備出来ないじゃない。日頃考えていないことやアウトプットしたことがないことがいきなり体から放出されることなどないのである。

脳内を高速で検索しても、どうしても何も出てこなかったら、

・シビアなシチュエーションであれば、「先に〇〇さんお願いできますか」
・どうしても思いあたらなければ、仕方なしの「次回までに準備します」
・やけっぱちの「いまパッと出てこないです」

アドリブが利かないなと思ったら、人になんと思われようと、対応しない選択があることを強調したい。内容が定まっていない状態で話し出すと、だいたい恐ろしい沼にハマる。

積み重ねてきた準備と振り返りがクロスする瞬間は突然に

しかし、いつの日か、願わくば、アドリブに対応したい。だって、振っていただいた期待には応えたいのである。

ここで利いてくるのが、いままで積み重ねてきた準備の日々だと思っている。私には、数々の台本がしみ込んでいる。同じ数だけの「あのとき、ああ言えば良かったな」がある。

それらがクロスする瞬間があって、あるとき、バチっと咄嗟に出てくる。

やっとだ。やっと利いた。これがアドリブか。


Wikipediaによると、アドリブとは、

ラテン語の「ad libitum」の略であり、「自由に」を意味する音楽用語。

だと言う。

今日の準備と悔しさが、いつの日かの「自由に」な瞬間につながっている。


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杉之原 明子 / Akiko Suginohara
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