第二夜 真冬の日本海が好きなA子
訳あって暫く休止していたが、年の終わりが近づいて冬の夜にふさわしい名作を久しぶりに見直し、やはり何かしら書いておくことにしようという気にさせてくれた「駅 ステーション」について。
観たといっても、スマホの小さな画面なのだが、名作になればなるほど、画面サイズなど気にならないもの。
しかし、冬になるとなぜかしらこの映画が観たくなり、同時に八代亜紀の「舟唄」が聞きたくなる。
そして熱燗と湯豆腐が恋しくなるという、いつものオヤジパターンなのだが、それにして冬になると決まって日本海の荒海に行きたくなる衝動が抑えられないというのは、どうしたものか?
夏の青々としたさざなみでもなければ、 秋でも春でもなく荒れ狂った北の海が恋しくなってしまう。
最近父を亡くしたことをきっかけに、私が生まれてから1、2年で両親が一旦離婚していたことを知った。
父の故郷は越後の海沿いの町で、豪雪地帯ではないが 冬にはごうごうと風の鳴る冬の季節を私は3歳までのあいだ、身にしみて知っていたのだ。
父と母は、その後私のために復縁して、エリートサラリーマンの父と小柄でほっそりと上品だけどボーダーな母と3人で東京や横浜に棲み着いた。
それから50年近くたって、3歳までの記憶はほとんどないにもかかわらず、この映画は私の生い立ちを否が応でもフラッシュバックさせる映画なのだ。
この映画は1968年から1979年暮れの北海道増毛町が舞台。
高倉健が演じる北海道警察の狙撃手、三上英次を通して薄幸の3人の女性、妻の直子、連続通り魔犯の知的障害の妹すず子、そして倍賞千恵子演じる桐子の3つのオムニバススタイルで構成されている。
桐子の作中で八代亜紀の「舟唄」が象徴的に使われていることが、殊に有名だ。
私がこの映画をはじめて映画館で観たのは、たしか1982年か83年だったはずだ。
大学生だった。
東京に雪が降った翌日に新橋のガード下の名画座で高倉健の映画を2本立てでやっていた。
レンタルビデオもない当時は、封切りの翌年にはこのように名画座で観れたのだ。
映画館が、電車が通るたびにガタンゴトンという音とともに揺れていたのが、なんだか懐かしい。
この映画は、倉本聰が高倉を想定してオリジナルで書いたシナリオが元になっている。
高倉健という俳優を、私は子供のころ、目つきの鋭い怖い男の人だと感じていた。
いつのころから、こういう男がかっこいいと思うようになったかは不明だが、たぶんこの「駅 STATION」の桐子での賠償千恵子とのやりとりからだったのではないか。
1979年の大晦日にふらっと桐子の店にやってきた英次。
熱燗を酌み交わすうちに、互いに北海道に生まれ故郷があることを知るふたり。
熱燗をコップでやるところが、これまたいいよね。
コップも今時のおしゃれグラスじゃなくって、昭和のグラス、分厚くて寸胴で飾りっ気のないあれ。
熱々のぶり大根やお芋の煮っころがしを前にして、夜は更けていく。
そしてカウンターの端にあるテレビ。ブラウン管テレビだ。
小林幸子の「おもいで酒」がかかっているところから高倉健✖️倍賞千恵子の歴史に残るシーンが始まる。
八代亜紀の「舟唄」を桐子が「私、この唄好きなんだ」と口ずさみながら、年の暮れになると自殺する水商売の女が多いと話をするあたり、濃密な昭和の日本のガスパールなのだ。
「どんな遊び人も、この時期(大晦日から正月)は、家庭に帰っちゃうからねー」
このシーンのふたりの絶妙な間の取り方と傍から聞こえる「舟唄」が、泣きたくなるほどの昭和感あふれていて、18歳だった私には大人すぎる世界だった!
その後、結婚している男を好きになるようになると、このシーンは切なくて切なくて永遠に忘れ得がたい作品になっていくのだ。
昭和の男がすべてこんなだったわけではなかろう。
昭和のみんながいいと思っていた理想の男と女がここにいるのだ。
私はこういう大人に囲まれて、こういう唄を耳にしながら大きくなったことだけは確か。
お酒はぬるめの 燗がいい
肴はあぶった 烏賊でいい
女は無口な ひとがいい
灯りはぼんやり 灯りゃいい
しみじみ飲めば しみじみと
想い出だけが 行き過ぎる
涙がポロリと こぼれたら
歌いだすのさ 舟唄を
沖の鴎に深酒させてよぉ
いとしのあの娘とよぉ
朝寝する だんちょね
*歌詞のなかで「だんちょね」とあるのは、だんちょね節と伝えられている替え歌らしく、発祥は三浦市三崎町の民謡だという。「断腸の想い」「漁師の掛け声」とする諸説もあるが、明確ではない。