【第6回】今までもずっと指名以外の何も欲しくなかったの:「二人、いつか稲穂が輝く場所で」
お願いだからわかってくれ。そう祈りながら言った。田守の顔は蒼白になっていた。唇の端から小さな泡が見えた。
「ご、ご、ご、ごめん」
泡を飛ばしながら田守が言った。謝るのはこっちだ。そう思いながらもわたしは田守がようやく理解してくれたと思い、胸を撫で下ろした。
しかし、その安堵は束の間だった。田守は慌てながらもにっこりと微笑んでこう続けた。
「そうかも、僕がちょっと急ぎ過ぎたね。確かに、僕達はずっと一緒にいたけど、まだお互いのことを全然知らないもんね。ごめん、ちえりちゃんもびっくりしちゃうよね。だったら、これからもっとお互いのことを知り合おう。僕、ちえりちゃんのことなら、何でも受け入れるから」
頭を掻き毟りたくなった。何をどう言っても、けして、田守にはわたしの真意は伝わらないだろう。わたしではなく、『ちえり』が田守にとって最愛の女だったのだから。
『ちえり』は、この世の何処にも存在しない架空の女だ。だが、それを田守は全く理解できないだろう。そんなことは、最愛の女に、ある日いきなり実はわたしは幽霊だったの、と言われるようなものだ。わたしだって、そんなことを誰かに言われても信じない。
もはや、他の術はなかった。わたしは、田守を完璧に叩きのめすしかなかった。
「違うの。そんなの、もういいの。わたしはあなたに知られたくないの。受け入れられたくもないの。わたしはあなたから何も欲しくないの。今までもずっと指名以外の何も欲しくなかったの。全部、成績の為だったの。そして、これからは、あなたといてまで成績上げたくないの」
ここまでのことを、わたしは今まで客に言ったことはなかった。だが、この時、わたしはあえて田守にはっきりと言った。田守は既にカードの限度額を超えた借金をしているだろう。このまま引っ張ったら田守の人生はぼろぼろになってしまう。いくら、わたしでもそれを放っておくことは出来なかった。
しかし、そんな風に田守を慮る振りをしながらも、わたしはこうも思っていた。もうこれ以上引っ張れない相手に期待を持たせるのは面倒臭い。ばっさり切った方がずっと楽になる、と。
田守の顔を、見ることが出来なかった。田守のいる方向から荒い息の音だけが聞こえた。田守のグラスに添えてある手が震えていた。
謝罪も、田守を傷つけるだけだと知っていた。けれど、わたしはそれ以外の言葉を見つけられなかった。
「ごめんなさい」
その言葉にグラスに添えられていた田守の手が動いた。頬を張られるのかと思った。暴力沙汰を起こしたら、大変なのは田守の方だ。どうか堪えてくれ。そう思いながらわたしは祈るように膝の上で手を硬く握り締めていた。
「謝らないで、いいよ」
途切れ途切れに、田守がそう言った。その一音一音が胸の中に剣のように刺さった。自分が相手を傷つけた癖に、そんな風に感じるなんて傲慢だ。そう思いながらも、わたしの胸は誤魔化しようがない程にきしんでいた。
「でも、すみません」
わたしは、それでもそう言った。
「謝られると余計惨めになるし」
田守はそう続けた。指輪と指輪の箱を、乱暴にポケットに突っ込む。そして、そのまま立ち上がろうとした。だが、椅子を引く前に立ち上がったせいで田守はテーブルと椅子の間でバランスを崩し、よろけた。わたしは、田守の体を支えた。田守の腕を掴んだわたしの手に、彼のもう片方の手がかかった。
強い視線を感じて、わたしは顔を上げた。田守は、いつも弱気な目をしていた。けれど、今、田守の目は燃えるように光っていた。
田守が、唾を飛ばしながら言った。
「このすべたが」
【7に続く】
※注:こちらは、2012年に出版したわたしの自伝的小説『腹黒い11人の女』の出版前に、ノンフィクション風コラムとしてWebマガジンで連載していたものです。執筆当時のわたしは27歳ですが、小説の主人公が23歳で、本に書ききれなかったエピソードを現在進行形で話している、という体で書かれているコラムなので、現在のわたしは23歳ではありません。
小説版『腹黒い11人の女』はこちら。奄美大島では、名瀬と奄美空港の楠田書店さんで売っています。
さて、前回予告した「キャバクラ嬢の罪深さ」にスポットを当てた、Webコラムにしては長い短編の第6回です。
全11回の予定で、すべて原稿はあるので、随時アップしていきます。
胸が痛むけれど、気に入っている短編でもあります。
よろしければご覧くださいませ。