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#12 海部公子という生き方

 ヨーロッパ研修旅行の後半、硲伊之助と海部さんは東欧バルカン半島のアルバニアに招かれました。思いがけず手厚いもてなしを受ける一方、労働をいとわず、自然と溶け込むように素朴に生きる人々の姿に胸を打たれます。アルバニアでの日々は、故郷・日本を見つめ直し、吸坂の地で生きる覚悟を据える経験になりました。

中国大使の縁で東欧アルバニアへ

 東ドイツでは中国領事館の王国権さん(中国の外交官、1910~2004)を訪ねました。大使とのつながりは硲伊之助の愛弟子で、私の兄弟子にあたる永井潔です。彼が1963年に向こうに行って、日本で何かやるのに都合の良い文化関係の有力者と知り合いになってつないでおいてくれたんです。「日本で展覧会をやる時に、先生が向こうでスムーズに交渉が進むんじゃないか」というので、渡りを付けておいてくれました。

 その人はフンボルト大学で教えていた金澤幸雄さん(元「赤旗」ベルリン特派員)という人でした。日本男子の清潔なきっぱりとしたすがすがしい印象で、身を挺して走り回ってくれました。お弟子さんがいっぱいついていてね。日本に帰ってきた時に、ここ(石川県加賀市吸坂町)で2、3カ月お世話したこともあったの。お弟子も含めて3、4人いそろうさせたことがあります。一緒に暮らしたのですが、夜通し議論していて、こういう世界があるんだってびっくりしました。金澤さんは福島出身で、柱を見上げては「うちの田舎の家は倍くらいの太さがある」「田舎が嫌で捨てたんだけど、僕の家の田んぼは見える限りの山裾までが田んぼだ」って言うから「豪農じゃないの」って言ったの。だんだん故郷を思い出して、帰ることになったの。みんなで引き上げていきました。奥さんは横浜のラシャ問屋かなにかのお嬢さまで、ずっとベルリンに留学していて、私もお世話になりました。すごくいい人で、きれいな人でね。硲先生が初めて彼女と知り合った時に「マダムは日本語がお上手ですね」って、あちらの人と勘違いしたことがありました。その彼女が王国権さんと親しかったんです。

 王国権さんの官邸にお昼を一緒に食べましょうということで招待されました。その大使の無二の親友が、アルバニアの領事でした。そしたら「ぜひ国に来て滞在して下さい。一切の費用はこちらで面倒見させてもらいます。飛行機の手配もすべてこちらでやります」と言うんです。当時は日本人が共産圏の国に出入りするのはチェックが厳しかったのよね。そういうのにも配慮してくれて、ビザにも支障のない形にしてくれたんです。ローマの大使館に行けばちゃんとビザが受け取れるようにしてくれて、アルバニアに到着すればちゃんと迎えに来てくれました。首都ティラナの帝国ホテルみたいなところに、先生と私の部屋をちゃんと用意してくれて。自動車や秘書もあてがわれて、国賓待遇の至れり尽くせり。予定には全くなかった、ハプニングですよ(笑)。何が何だかわからない。5月1日のメーデーには大きなレセプションがあって、大統領以下、国賓がわきに座らされるのですが、私たちも座らされて、国中のニュースになりました。私は女性だというので珍しがられて、現地の女性文学者集団や美術家集団との会談など、いろんなことに呼ばれました。

 ピエトロ・マルコという向こうの水上勉のような詩人で小説家が通訳についてくれたんですよ。日本語が聞きたいと言うので、私がしゃべる日本語を彼がわきからアルバニア語に訳すんです。それをラジオで放送して謝礼をもらったりしていました。当時、アルバニアではザ・ピーナッツがはやっていて、日本の歌が流れるの。異文化に対する興味がすごいんだなと思いました。アルバニアの新聞って面白くて、読めないけど、毎朝一面に載るのは絵描きの絵と詩人の詩なんです。大きく載るの。日本にそんな新聞ないよね。文化に対する思い入れがまったく違う。

ピエトロ・マルコ

 アルバニアはギリシャの隣で、アドリア海を挟んでイタリアに向き合っています。イタリアのバリというところから真っすぐ船で20数時間でつくんです。後ろはユーゴスラビアだし、バルカン半島の一番古い国なんだって。あらゆる国から侵略されて、トルコに500年間占領されてた時期やイタリアに占領されてた時期もあって、ギリシャ時代もあるし。ひどい目に遭って、国民全員がパルチザンみたいな経験してるんです。ピエトロ・マルコは死刑宣告までされて、危うく死刑になるところを終戦になって解放されて、命拾いしたと言っていました。外務大臣のミストトレスカさんはホテルまで奥さんと腕組んで歩いてきて、夕食に誘いに来てくれるのよ。日本人の外務大臣はあんな態度とるかしらって。絵描いてるところにも来て、船を仕立ててくれて、一緒にギリシャの紀元前5世紀のブトゥリントンという遺跡を案内してくれました。近くに天幕を張って、そこに蔦をからませて、テーブルをセッティングして、子羊の丸焼きやらの宴席を設けてくれて、すごい歓待してくれたの。

 これほど歓待してくれたのは、ドイツでの対話の中でそうなっちゃったのよね。この人(硲伊之助)はただもんじゃないという思いがアルバニアの領事にあったんじゃないでしょうか。王国権さんもいい人を紹介してくれて、という。そしてアルバニアに行ったら行ったで、外務大臣のミストトレスカさんともすごく話がかみ合いました。死線くぐってきた人たちですよ。ミストトレスカさんの奥さんも15歳で野宿しながら鉄砲かついで、パルチザンしてたんですって。山に潜んで戦う訓練を小さいときから身に着けていた。私たちと会った時は9人目か10人目の子どもを生んで間もないときで、みんなに祝福されたり、冷やかされたりして面白がられていたけど、とってもいいご夫妻でしたよ。素晴らしかった。話が何を聞いても面白くてね。わきで聞いていてもワクワクすることが多かったです。

ミストトレスカ夫妻

紫式部に驚かれた

 文芸家協会で「日本では11世紀に源氏物語を書いた女の人がいるんですよ」ってたどたどしいフランス語でしたら、びっくりされてね。びっくりされたことにこっちがびっくりして。日本ってそうなんだ、と思って。500年も進んでたんだと思いました。それも私の目覚めが促された一つの体験でした。金髪の女性が目を真ん丸く開いて、「えーっ、11世紀に!?」という感じでした。向こうでは女流作家が生まれるのは18世紀以後ですからね。そういうことは日本に帰ってきてから、樋口清行さん(国文学者・歴史学者、1909~97)にも聞きましたけど。いかに文化的に日本は進取の気性に飛んでいるというか、独自の発展を遂げた国だというのをね。女性が結構活躍してたんだよね。これだけ抑圧されるようになったのは明治以降でしょ。

 いかに日本の文化が稀有なものか、という目からうろこが落ちるような体験でした。私は現実の日本を恥ずかしく思うことが多くて。今の日本をこのまま発信するわけにいかないという気持ちにもなったの。もっと掘り起こして、勉強して、自分がつかんだり、どんなに醜い場所であっても、ここに帰ってきて掘らなくちゃ、っていう、そういう気持ちになりましたね。「ティラナ大学に行かないか。日本との架け橋になってくれないか」って随分引き留められたんですけどね。向こうも期待してくれて、どんなお世話でもさせてもらいますからといって。先生は私がやりたいことがあれば、どんなにだって手助けするから、って言ってはくれましたけれど。

大事なものが残っている国

 フランスのグランド・ショミエール(芸術学校)というところにも美術研修の手続きを取りました。1年か2年か通えるように。車の免許も向こうで取ったし。だから(私を)置いて帰ってくることも考えていたみたいよ。でも私はここ(石川県加賀市吸坂町)が気になってたし、それに考えが固まってきたね。人がつくったところに収まるよりも、日本に帰って何かができるんじゃないかって思ったのよ。そういう決意もアルバニアで固めさせられました。50年以上、アルバニアは近代化から取り残されているんだけど、私には取り残されているというよりも、大事なものが残ってるじゃないのっていう感じを受けました。女性が結婚する時でも、布団でも着る物でも、染めるのも織るのもみんな自分でやるんですよ。自分で手を尽くして原料から作った貴重な物を、私なんかにくれたりしてね。それが前掛け一つでも、色から何から素晴らしいの。全部、自分が持ってるものが反映している個性豊かな着る物でした。

 硲先生が「アルバニアのたばこ畑」という絵に描いたのですが、あちらでは労働を忌避するのではなく、賛歌する雰囲気があるんです。日本では野良仕事の野良着は貧しい衣服のように思われていますが、アルバニアでは晴れ着なんですよ。いいものを着るの。だから畑の風景が美しいの。それで描きたくなったというのもあるんですよね。だから、本当の意味のあこがれのようなものが生じましたね。文明のエキスを享受してるお金持ち階級のぜいたくな生活にはあこがれず、むしろ反発感じたくらいで、絵描きが汗水たらして死ぬほどの苦労してやってるものを、片方じゃ飽食の人種がそういうものをステータスシンボルにして生活してるというのはウソっぽい感じがしたのよね。でもアルバニアでは芸術や実生活というものに差がなくて、生活そのものが魅力的だった。子供がかわいいしね。絵描いてると、お行儀よく待ってるし、ちょっと休んでると花を摘んで持ってきてくれるの。かわいいの。それからね、トタン屋根を集めて作ったような手作りの小屋みたいな家から、お盆にのせたビスケットとお水を差し出してくれるの。「どうぞ」っていう気持ちが伝わってきて、胸が締め付けられるほどうれしくてね。

 子どももかわいいんだけど、大人もかわいいのよ。日本人にそっくりなの。小柄で髪も黒いし。にっこり笑った顔なんて、女も男もなくかわいいの。虐げられてきた人間の思いやりが主軸になってるような感じでした。自然をすごく大事にするし。キキョウとかオミナエシにそっくりな花がたくさんあって、そういうののミニチュア版があるのよ。植物までもがびっくりするような植生の違いがありました。それから山の中を歩いてたら、天の川がそっくりやってきたのかと思うような、光の帯が近づいてくるの。蛍の大群です。みるみる近づいてきて、取り囲まれる。そういうのに出会ったこともあるし。サクランボといったらこんな大きいの。桑の実がなんと指くらいの大きさの浅い緑色になるのがあるの。それがおいしいの。元の木を見ると日本じゃ見たことないような桑の大木があって。乳製品でどうしても飲めないものがあった。臭くてね。ヨーグルトはすごくおいしくて、最初は酸っぱくてはちみつかけないと飲めなかったのに、毎日丼1杯出てくるから、最後には全部食べた。私40キロあるかないかだったけど、ヨーグルトで太って50キロになって帰ってきたの。

 アルバニアでは10点ずつくらい描いて、あちらの文化協会が展覧会をやってくれたんです。投機的な動機や裸体や抽象画は敬遠されるんだけど、我々の作品はそういうんじゃないというのが分かって、「ぜひやってほしいし、この作品を日本で紹介してもらえたらありがたい」というので、約束したの。「必ずアルバニアを紹介します」と言って、帰国して一カ月後には日動画廊で師弟展をやりました。ミストトレスカさんの文章を紹介して、新聞記事にもなりました。詩人のピエトロ・マルコとも親しくなりました。私が勾玉(まがたま)のネックレスをしていたら、フランス語で「それは幸福を引っかける鍵か?」なんて聞かれて、しゃれてるなと思いました。ピエトロ・マルコの小説を預かってきて、日本で出版しました。「世界革命文学選」の中に入っています。「最後の町」というタイトルです。

 アルバニアは四国くらいの広さなの。同じ国なのに北では雪が降り、南では海水浴をする。起伏に富んでいて、風景にとりくんだら病みつきになるような、住んだらやめられないような場所がたくさんありました。共産主義のまずい面があるとすれば、教会という教会のすべてが封印されていました。本当のところは全部見られたか分からないとしても、少なくとも当時の共産圏のありようの中では、人間性が圧迫されているようにはあまり見えませんでした。

 そういう意味では東ドイツの方がひどかったです。東ベルリンと西ベルリンでは全く違う雰囲気で、何度も関門超えて行ったり来たりしたんだけど、検閲が厳しかったし、川を飛び越えて脱出しようとした人たちが撃ち殺される事件が後を絶たないし。検閲では雑誌一つでも取り上げられちゃうの。東ベルリンではエレベーターで一緒になった人の刺すような視線が痛くて、腕時計や着る物なんかも露骨に見るんです。怖いと思いました。密告制度とかいろんなものがあって、精神的にすさんでる雰囲気でしたね。そこにも付いてくれたエルムートさんというドイツ人が通訳についてくれたんだけど、面白かったのが、彼が私が教えた「政治は奇々怪々(ききかいかい)なり」という言葉をドイツ人に教えて、その通りにしゃべるの。お皿に出てくるお料理で、どうしてものど通らないものがあった。こんにゃくのでっかいみたいのが揺れてるの。コラーゲンの固まりみたいなものなんだけど、ドイツ人は大好きなのよ。

日本でやるべきことがある

 アルバニアでの体験は日本に帰ってくる力になってる。そしてこの田舎で暮らさなきゃいけないというのがあったから、ここでどうやって暮らしていけるのか、やれるかやれないか先生も考えてた。私を巻き込んだというのもあるし、叔父の心配やプレッシャーもあるし。だから私も覚悟して帰ってきましたけれど。ここでやるべきことがあるという思いが強くなりましたね。当時のアルバニアには本質があるような気がしました。その後、コソボ紛争とかいろいろ起こって、政治的にも迫害されたり、相変わらず大変なのよね。

 その当時の日本は混沌としていて、嫌なところでした。当時の現状はね。だけどどんな泥沼であれ、自分が生まれ育った原点だし、そこでなにがしかしないとしょうがないじゃないか、みたいな気持ちになったのよね。アルバニアでいいところをたくさん見たからこそ。人の作り上げたところに行って、そこにちょんと収まって良い生活するなんて考えられないもの、私にはね。それは海部家との関係への自分の気持ちとつながっているかもしれない。だって私が作った歴史じゃないのに、「お前はうちへ来れば生活に困らないし、将来は保証されているようなものなんだから」って暗に言われるようなことがたびたびあったから。創造の余地っていうの、自分が好きな絵画の世界、先生が作り上げた世界を少しでも知ることの方が、その当時の私には直接響いてくるものがあった。

はだしで農作業にいそしむ兄妹

アルバニアの北の方にシュコードラという場所があるんですけど、ベニス時代のイタリーに何年か占領されていた時代があって、そのときに造られた橋を先生が描いたのよね。そこでかなり長い間写生して、滞在していたんだけど、そこで出会った兄妹がいました。両親がいなくなって、大きなたばこ畑を兄と妹二人で管理していました。斜面の広々とした丘陵地の畑で、そこをはだしで耕しているのよ。その家の二階に住んでるんだけど、一階は家畜が住んでるの。豚やヒツジがいるんだけど、コロコロの豚が走りだしてきたりするの(笑)。妹がピーナという名前で19歳でした。私のことを珍しがってくれて、涙が出るほど抱擁してくれました。彼女が家のすぐそばにあるアンズの木に登って、実をざるにいっぱい取ってくれて「食べろ、食べろ」って言ってくれるの。その子がはだしだから、私が持ってた靴をあげようと思ったのよ。そしたら喜んじゃって、足を井戸端で洗ってね、それを履こうと思ったら入らないのよ。だけど彼女はその靴を抱き締めて離さないの。だから「それはあなたのものだから」って言って、口紅なんかも全部あげて。あの二人の兄妹は印象に残ってますね。たばこ畑を営々と耕しながら家畜と一緒に生きている姿が目に焼き付いています。こんなに一生懸命に生きてる人間が地上にいるんだと。素敵だなぁと思ったし、表情もね。動物たちもかわいいしね。自然の中で人間が溶け合って生きるって素敵だと思いました。

 田舎で写生をして首都のティラナに帰ってくると、そこに食堂があるんです。ティラナのホテルを借りっぱなしにしてくれて、いつ帰っても荷物が整理できるのよ。先生も私も一部屋ずつもらってね。毎朝食堂で顔を合わす人がいてね。セネガル出身のイスマイラ・ディオップさんという人がいて、ソルボンヌに留学した帰りにアルバニアに滞在していました。同じテーブルでご飯を食べて、かなり面白かったですよ。自分はセネガルに帰って政治家になるんだと言ってました。セネガルに来てほしいと随分言われましたよ。キラキラとした目をしていて、セネガルのために働こうと燃えてる感じが伝わってきました。彼にコーヒーを勧めたのよ。そしたら「ジャメ」って言って、絶対飲まないって言われたの。

吸坂に待ってくれている人がいる

 アルバニアには丸三カ月お邪魔して、後ろ髪引かれる思いでした。ピエトロ・マルコなんて先生に抱きついて別れを惜しんでくれました。十分すぎるくらいの実りを感じたし、私自身がここのことが気になっていたし、吸坂に戻ってきて、どんな難関であれ、突破する力は得た気がして帰ってきたんです。客観視するチャンスになったよね。蓮台寺の素晴らしい棟梁だった蓮井敏信さんがここの鍵をあずかって留守番してくれていましたし。コロという秋田犬も預かってくれました。仕事が終わったらここに犬を残しておくのがかわいそうだと言って、オートバイの後ろにコロが乗っかれる空間を作って、小松の家とここを行ったり来たりしてくれて。まだ先生が大事にしていたチンの親子を2、3匹預けた人もいたし。蓮井さんのいとこでね。畳は台無しにするわ、ふすまも破くわで大変だったのに、文句も言わずにかわいがってくれました。もうここの人情にびっくり仰天しましたよ。とても心を打たれましたね。戻ってきたら、みんな喜んでくれました。

 ヨーロッパで築いた人脈はその後の朝日新聞が関わる展覧会に随分役に立っていると思います。東アジアの国の中でも、日本ほどヨーロッパから作品を借りられている国は他にないんじゃないでしょうか。一流の美術館から信頼関係を元に作品を借り、落ち度もなく、ちゃんと返礼もするという点で、日本人は感心される面が多いと思いますね。日本ほど信義を重んじ、潔癖な感性が個人個人に眠っていて、それがかの国の人たちを感動させたと思うの。「日本ならやってもいい」「やりましょう」という空気が今も続いてると思うのね。その礎の一端に関わった先生の功績は大きいと思います。その後の展覧会の基礎資料になったと思います。

 アルバニアから帰国して、すぐに日動画廊でアルバニア展をやりました。小林和作さんや大塚工藝社の社長など、いろんな方が来てくれて、アルバニアを紹介することができました。当時アルバニアとの国交がなかったから、一年も経つか経たないかのうちにジャーナリストや小説家とか3人組が外務大臣の親書を持って、東京の岡本に借りていた家にやってきたことがありました。まず日本橋の三越本店に連れて行ったら「なんて立派なんだ」ってびっくりしてくれて。それから日本光学の工場を見学させてもらいました。それが記事になってアルバニアに紹介されたと思いますけど。その社長が私たちも含めて天ぷら屋さんに招待してくれました。最後は岡本の家に呼んで、私がお料理つくって食べさせたの。すごい喜んでくれましたよ。去年(2020年)はティラナで大地震があって、お見舞金を送ったの。そしたらお礼状が来て、何かの会への招待状が来ましたけどね。(続く)

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(九谷吸坂窯のアトリエで制作に励む硲紘一さん、2021年11月)

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