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快適な運動会、がいいのかしらん

コロナ禍を機に、学校行事のあり方がずいぶんと変わったと感じる。
その最たるものが運動会だろう。当時、子どもが通う幼稚園でも小学校でも、運動会は簡素化、分散化された。コロナ禍前は場所を取るにも写真を撮影するにも大変だったから、他の保護者と譲り合ったり接触したりせずに観覧できることに、快適さを感じたのは否めない。

しかし、その快適さを先生も保護者も手放したくないのだろうか、元に戻らなくなった。「写真が楽に撮れるようになって嬉しい」と、ママ友も口々に言う。そうだよね、という思いも持ちつつ、私の本音は少し違っていた。

運動会の快適さは、ある意味〝閑散〟であると思う。
親が写真撮影や場所取りに苦労するのは、運動会の〝活気〟を表すもので、それこそが運動会開催の本懐ではないだろうか。

コロナ禍以降の運動会は、どこか寂しい。もともと拍手は乏しかったが(写真撮影で両手が塞がれる)、観覧する保護者まで減ったのだ。
ほんの5年前、コロナ以前、子どもが小学1年生、2年生の時の運動会は、人も多くてごちゃごちゃしていて写真もまともに撮れなくて疲れ切っていたが、あれは今となっては「活気」だったのだろうなと懐かしく思う。

全学年の子ども、全学年の親が揃った大にぎわいの運動会。年に一度のお祭り感が漂う運動会。応援の言葉(時には絶叫)があちこちから飛び交う運動会。
対して、ただの体育参観なみに〝快適〟になってしまった運動会。自分や知り合いの子どもの写真を撮るだけの運動会。かけ声もまばらな行儀のよい運動会。

私は覚えている。自分が子どもだった頃の運動会を。上級生の活躍に憧れ、胸を躍らせたこと。大勢の大人たちの前でダンスをするのが恥ずかしく、だけど見てもらえることが誇らしかったこと。普段はあまり話さない近所のおばちゃんに褒められたこと。大人も子どもも一緒くたになって、リレーで盛り上がったことーー。
「子どもは社会で育てる」の縮図が、運動会なのだ。それに私は、不特定多数の人から無条件で応援してもらえる経験、気持ちが高揚する経験を、子ども達みんなにしてもらいたい。

私は校長先生に言ってみた。
「コロナも落ち着いたし、6学年が揃った運動会に戻ると嬉しい」と。校長先生は「そうですよねー。」と仰ったが、軽くあしらわれた。それ以降も、3学年ずつの分散運動会が続いている。

親の快適さを優先して、子どもの貴重な体験機会がまた縮小されてしまった。そう感じるのは私(と我が夫)だけだろうか。

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