認知症になる前の婆さんが、突然現れた話。
忘れられない一瞬の再会
私の祖母が認知症になってから、かれこれ10年近く経ちます。
祖母は今年97歳。
大腿骨を骨折して入院、そこから認知症が始まりました。
覚えられなくなったり、幻覚が見えたり、妄想が増えたり。
何かが心配でたまらなくなったりもする。
認知症になってから、なんて言うか。段々と理性的な大人の表情じゃなくなって、子どもみたいな無邪気な顔が増えました。
今から四年前くらいのお正月、実家に帰省していた時のこと。
わたしはその頃にはもう、「認知症になってからの祖母の顔」にすっかり慣れていました。
その日は祖母と一緒にこたつでお昼寝をしていました。
少し眠った後、起きそうになってウトウトまどろんでいた時のこと。
ふと祖母を見ると、祖母は先に起きていて、
わたしをじーっと見つめて微笑んでいます。
そして一言
「あっこ。。。なあはみじょいなあ」
(あっこ。。。お前は可愛いねえ)
あれ??この人いつもの婆さんじゃない。
わたしはこの人に、久しぶりに会うよ!?
これは「ボケる前の婆さん」だ!!!
年長者として私を見る優しい眼差しも、顔つきも、言ってることも。
祖母から漂っている雰囲気全てが、「認知症になる前の祖母」でした。
「私をみじょい(可愛い)と思ってくれてるの?とっても嬉しい。婆さん大好き」
確かそんな返事をしてもう1回祖母の顔を見ると
そこにはもう、いつもの「認知症の祖母」がいて、子どもみたいに嬉しそうにニコニコしていました。
一瞬だけ。ほんの一瞬だけ久しぶりに会えた、認知症になる前の祖母。
祖母として孫の明子を愛おしく思う、母性的で知性的な存在。
隣にいた叔母がその様子を見て
「え?なによ婆ちゃん。こんなはっきりしたことをまだ言えるの??ボケが治ったのかしら(笑)」←言い方ww って驚いてました。
その時に思いました。
認知症になったからって、「認知症になる前の祖母がいなくなった」わけじゃないんだなあ。
ただ登場頻度が減っているだけ。
だんだん脳みその一部分が働かなくなって、知能的・理性的な部分は電気が消えていく。それでもきっと、覚醒したてのスッキリした頭の時に一瞬だけ、いつもは電気が消えてることが多い部屋に電気がついた。
それでほんのひととき「認知症になる前の祖母」が100%で現れてくれた。
久しぶりに「小さい頃からずっと知ってる明子のばあちゃん」の祖母に会えて、とっても嬉しかったです。
もう一生会えるわけない、もう死んだと思っていた人に会えたんだから。
「認知症」だけど、「常に認知症」ではない
家族が認知症になるとつい、「もうわからない人」「理解力のある祖母はいなくなった」と勘違いしてしまう。
でもそうではなくて「いつも表にいる人格」ではなくなっただけ。
出番やパーセンテージは少ないけど、「色んな情報を知性的に処理して、感じている祖母」はひっそりと、確かに生きている。
それはいつ現れるともわからないし、「表の人格」として現れるほどじゃないかもしれない。
でも「わかっている祖母」が、普段から実は時折 顔を出しているんだってことが、よくわかるようになりました。
「認知症の祖母」と「わかっている祖母」がいるだけじゃなくて
「認知症の祖母」の時にも、実はいろんな交代が起こっているってこともわかりました。
「店主としての祖母」として混乱している時と(実家は商店をやっていました)、「主婦としての祖母」が困っているときは違う。この他にも他人には感じきれない、「色んな場面の自分」が出てきているのだと思います。
そうやって「わかる」と「わからない」を、「自分の記憶の中の色んな自分」を、脱ぎ着して繰り返している世界に、祖母はいる。
だからいつでも「認知症の女性」として祖母に対応していると、祖母は実はちょっと傷ついてる時もある。
だけど傷ついたことを言葉で表現することはもう難しい。
そうこうしてるうちに「認知症の祖母」がまたメインキャラになって、「傷ついた祖母」はいなくなる。
認知症じゃない人も同じ。人の中にはたくさんの人格がある。
翻って、これを自分自身のことに当てはめた時
「わたしはこういう性格」
「自分って、こういう時はこうするもの」
「あの人はこういう人」
ついそんな風に、わたしは自分や人を「自分の印象の中」に閉じ込めてしまっていることがあるなあ、と思います。
自分のタイプや傾向を知ることは面白いけど、「わたし」は常に変わっていく。
それは自分の置かれた立場によっても変わるし、
前は楽しかったことが楽しくなくなったり、気にならなかったことが大切なものになる、なんてことはよくある。
「わたしはこういうキャラクター。こういう人間」
って自分を固定化するのではなくて、わたしの中にたくさんいるはずの
「メインキャラではないけど確かにいる、声の小さいわたし」
の意見にも、気がついて拾っていきたい。
自分のことを決めつけないで、「その時」「その時」の感じ方、湧き上がる思いを大切に感じていきたいなあと思います。
認知症の祖母の中にたくさんの祖母がいるように、わたしの中にもたくさんのわたしがいる。
それを素直に感じて、受け取って行きたいな。
そして人に対しても何かを決めつけずに、変化していくことを応援できる自分でいたいな、と思います。
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祖母が認知症になったおかげで、わたしはものすごくたくさんのギフトをもらっているなあと思うことばかり。
認知症も、人が老いていくことも、本当に面白くて興味深いです。
今でも
「あっこ。。。なあはみじょいなあ」
って言った時の祖母の眼差しが、はっきり思い浮かびます。
きっと「100%認知症じゃない祖母」から「孫の明子」にかけられた、最期の言葉。
最期の言葉がそれで、孫の明子はとっても嬉しい。
忘れられない幸せな一瞬でした。
最期の時間に祖母がくれているものが、とってもたくさんある。
祖母を通じて教えてもらったことを、大切に覚えていたいなと思います。